文化・芸術

2006/10/29

「NO DIRECTION, everyday」

184_field51福岡天神にあるイムズホールへ「ニブロール」というディレクター集団の公演を観に行く。僕がダンスを観に行くというのはまこともって一大珍事だ。まともに見たダンスの公演と言えば、知人の河村悟氏によるものしかない。舞踏にしろ現代舞踊にしろ、正直言ってよく分からないのだが、このニブロールは、たまたま、新聞の折り込み広告に入ってきたリーフレットのデザインが気になったので、ちょっと目に止まった。裏面にはこんなことが書いてある。


君と見てきたこの世界。
たとえば同じ場所から見てたとして、
君と僕と見えている景色は同じじゃない。

君と過ごしてきた時間。
たとえば、ひと時も離れずにいたとして、
君と僕と、ずっと一緒だったわけじゃない。

世界はひとつ、ではない。
定められた方向。などもない。

この世界はどこまでもバラバラで、
でも、どこかでつながっている。
そんなことを、秘かに期待して。

およよ。ちとヌースっぽい。。こうしたことをテーマにしたダンスパフォーマンスなら、少し見ておく必要があるのかも。ということで、ホールに足を運んでみたのだが。。。暗転したステージに、いきなりディストーションギンギンのギターサウンドをバックにバグパイプ調のフレーズとバーカッションが鳴り響く。蛍光テープで謎めいた記号を貼付けた衣装を身にまとった数名のダンサーたちが、ステージに飛び出してきて、オープニングはかなりいい感じ。。おっ、これはひょっとしていけてるかも。。という期待で1時間余りのパフォーマンスは始まったのだが。。

しかし、そう当たりは巡ってくるものではない。音楽と映像はそれなりにマッチしていてよかった。テクノ、プログレ、トランス、環境音楽、さらには60年代末のフラワームーブメント的なサウンドなど多種多様な音楽がほどよくミックスされていて、結構ドラマチックに仕上がっていた。ところがだ。肝心のダンスが酷い。酷すぎ。いや、これは好みの問題かもしれないので、僕にとっては酷く見えた、と訂正しておこう。何が面白くなかったと言って、振り付けに建築性が全く感じられなかったところだ。解体や脱構築は20世紀で終わりににできないものか。この公演のタイトルが「NO DIRECTION, everyday」だから、構築的なものを期待する方が愚かなのだが、それにしても、苦痛や、抑圧や、苦悩や、飢餓や、修羅の身体表現はもう飽き飽きだ。

現代音楽にしろ、現代舞踊にしろ、僕がゲッとしてしまうのは、この公演のタイトルにもあるように、NO DIRECTIONでありすぎることだ。ヘルプレス、ホープレスな現代人の苦悩を延々と見せつけるものが圧倒的多数。苦悩を延々と垂れ流しすることが錬金術的な「黒の作業」を意識しているならばそれでもいい。しかし、ほとんどは「Paint it all black」で暗黒以外の何もない。希望ナシ。未来ナシ。出口ナシ。はったりでも、ギミックでもいいから、隅に小さなExitを配せといいたくなる。霊性を失った芸術表現はほんとうに無様だと思う。誰か雷鳴轟く一撃を食らわせてくれないものか。。

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2006/07/22

人間の条件

Magritte1 今日も一枚の絵についてヌーシーな戯言を。。。

 ルネ・マグリットの「人間の条件」という作品だ。この絵は画家が絵を描くことの基本的なスタンスを的確に表した概念画のようなものである。マグリットの作品は、以前、紹介した「複製禁止」を初めとして、空間に潜む亀裂、断裂をあたかも測量士のようにきっちりと図式化して再現するものが多い。この作品もその典型である。

 室内から見た外部の風景。室内と外部の間にはあたかも風景を切り取るように窓が穿たれている。この窓枠に合わせるようにして、キャンバスが象られ、そこに、外部の風景が詳細に模写される。キャンパス上に描かれた風景はあくまでも2次元上に配置された形態や色彩だが、窓の外に広がる風景は三次元的奥行きを持つ延長としての世界である。

 この作品のタイトルにあるように、こうした空間の配置関係が「人間の条件」であることは、ヌースをご存知の皆さんはすぐに了解してくれるだろう。人間はあたかも内部と外部のように感じるなにがしかの空間感覚を持っている。外部は客観世界と呼ばれ、内部は主観世界と呼ばれる。それらはそれぞれこの作品では室外と室内として描かれている空間のことであり、その境界に設けられた窓は目の役割に等しい。画家は視野そのものをタブローとして、この室内と室外の境界面に起きる出来事を作品にするが、それは、ときに感情、ときに思考という反応を通じて、一つの経験の風景としてモチーフ化されていくわけである。

 ヌースがまずヌース的思考の大前提として、空間を内面と外面にカテゴライズするのも、この作品が提示している意図と全く同じだ。感情や思考といった主観的な意識の働きは肉体の内部にあるのではない。ましてや、脳の中でもない。この作品で言えば、この窓の形に描かれた「絵画」そのものの上にある。絵画が精神の表現となり得るのは、精神が絵画的であるからにほかならない。ユークリッド空間よりも射影空間の方がより本質的であるように、絵画は決して三次元の風景を平面で表現したものではなく、絵画的なものの方が延長世界へ射影され、三次元認識として開いているのである。その意味で、本当は、絵画的なものの方が高次の生成物である。

 まぁ、こんなことは、絵画論の中では言い古されていることだが、この転倒関係をまずはしっかりと認識する必要がある。ヌースではこの作品におけるキャンパス部分を「人間の外面」と呼び、室外風景の方を「人間の内面」と呼ぶが、いずれにしろ、わたしたちは室内から外部を覗くとき、外面に穿たれた窓を通して、それこそ、身体そのものを裏返しにしていると言える。光の皮膚を突き破り、身体の外部へと出血を続ける魂——君も、明日から、自分の部屋の中から外に出るとき、また、反対に外出先から自分の部屋の中へ戻るとき、そこにある空間の捻れに注意を傾けるといい。おそらく、かすかにだろうが、皮膚の裏返る音が聞こえてくるはずだ。

 ライプニッツは「モナドには窓はない」と言ったが、それは当然だろう。モナドそのものが窓なのだ。モナドとは二つの対立する世界の継ぎ目、捻れ目に生まれるものなのだ。目の前にその捻れ目が見えてくれば、君もヌースの世界に足を一歩突っ込んだことになる。

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2006/07/21

アポリネールへのオマージュ

昨日、UPした絵について、ちょっと説明しておこう。

 これは2002年のヌースレクチャーのオープニングで使用していたものだ。作品名は「アポリネールへのオマージュ」。作家はシャガールである。シャガールの晩年は飛翔する少女のようなメルヘンタッチな構図と瞬発力を感じさせる色彩センスが特徴だが、初期はキュビズムに大きな影響を受けていた。この作品は、20世紀初頭、シャガールがロシアからパリに移った頃に描かれたものとされている。

 「アポリネールへのオマージュ」とあるように、この作品はきわめて象徴主義的なもので,他の象徴主義の作家同様、シャガールもカバラや錬金術に関心を示していた。中央に描かれたシャム双生児のような木彫りの人型は、アダムとイヴである。両者の合体は両性具有者=アンドロギュノスを意味している。イヴが右手に林檎をもっているのが分かるだろう。

 背景に描かれた赤と緑のコントラストを持つ円盤は、巡り巡る運命の輪、つまり、宇宙的時計の文字盤である。時計の巡りとともにアダムとイブは引き裂かれ、再び、一人の両性具有者と変身する。木偶の坊のように描かれたアダムとイブの姿は、破壊された宇宙的性愛の力を象徴している。カバラにいう器の破壊である。カバラの教義では、男女の関係は神と人間の地上的映し絵であり、この世界で男と女が分離して存在すること自体が、原罪の結果とされる。人間の努めは、この分離を再度、それ以前の完全な宇宙的合一の中へ立ち上げることとされる。それは、とりもなおさず、人間と神が合体することをも意味する。

 画面左下には矢で射ぬかれたハートがあり、その周囲には,アポリネールを初め、当時のシャガールと親交が深かったと思われる4人の人物の名が正方形状に並べられて書かれている。これらは火,地、風、水,という4大元素の象徴だ。

 カバラを始めとするオカルティズムの伝統は、このように、対立物の一致、天使的領域の顕現による、神と人間の融合、そこに暗躍する、4大元素の力、というように、「2」「3」「4」の法則を根底に持つ。当然、この法則性の中で神秘とされるのは始まりと終わりを結ぶ「5」の力である。「5」は「1」と同一視され、「1」〜「5」へと至る、5の循環は永遠に止まることはない。ヌース理論においても、それは同じである。

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2006/03/07

zavtone、再始動?

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今日、懐かしい人物からメールがあった。90年代、日本で一番トンガッタ雑誌ではなかったかと思われるzavtone誌の編集長zato氏からのメールだ。zato氏の別名はGENERAL IDEA OF DIPLODOCUS(ジェネラル・アイデア・オブ・ディプロドカス)。すごすぎ。。。

zato氏紹介のサイト→
http://www.harmonium.jp/works/works.html

 zavtoneは1997年から約3年間、発行され、2000年廃刊にになった。それまでの雑誌のの常識を覆し、ほとんどのページがCGグラフィックや写真で埋め尽くされたグラフィクアーティストたちのセッションフィールドのような場所だった。そのラディカルなスタイルは日本でのその後のトランスカルチャーの動向に多大な影響を与えたと聞いている。

 わたしが最初にこの雑誌に遭遇したのは処女作の「人類が神を見る日」を持って、書店回りをしているときだった。全ページにわたってサイベリア的なハイパーリアルなグラフィックが4色刷りで網羅され、一見しても何の雑誌だか分からない。しかし、グラフィックの完成度は極めて高く、60年代後半のサイケデリックを90年代のデジタルテクノロジーでそのまま再生させてきたような異質なライブ感を持っていた。スキゾフレニアックな色使い、ブレイクビーツでたたみかけるその編集手法。エディトリアルセンスの斬新さに完全にKOパンチを食らった。

 「こりぁ、カッコええわ。ヌースもこういう露出で行けたら最高やなぁ〜」と思っていると、しばらくして、友人の高橋徹氏からウソのような連絡が入った。

 「zavtoneが半田さんの「人類が神を見る日」を英訳で連載したいと言ってますよ。」

 zavtoneのグラフィックデザイナーたちは半数以上がアメリカ西海岸の連中らしく、zavtoneは数千部単位でアメリカの書店でも売られているバイリンガルマガジンだったのだ。高橋氏はすでにマヤ暦関連の記事をzavtoneに提供しており、その関係で、高橋氏経由で連絡が入った次第。

 それがきっかけで、zato氏と知り合いになり、zatoセンスを気に入っていたわたしは「シリウス革命」の装丁デザインを全面、zato氏に委ねることに。シリ革をお持ちの方は是非、確認してほしいのたが、出版元の名称(たま出版)が超微視的サイズで配置されているのが分かるはずだ。これがいわゆるzavtoneセンスである。文字はデザイン構成内部のラインと見なされ、グラフィックデザインに沿ってレイアウトされる。たとえテキストの内容が読みづらくても知ったこっちゃない。まぁ、当時も、zato氏は周囲から、テキストが読めない。年配者を考慮しろ。などいろいろな批判を浴びていたようだが、ガンとして自分のポリシーを貫き通していた。雑誌においてテキストはデザインの一部にすぎない——まさに、アンチオイディプスを地でいくような大胆な発想。古い神にはもう手の付けられない不良息子である(笑)。

そんなzato氏であったが、「人類が神を見る日」のテキストに関しては、文字を心持ち大きくレイアウトしてくれていた。zato氏曰く「これはテキストが生きているから。。」その言葉がとても嬉しかったのを覚えている。

 さて、zato氏からのメールの内容についてだが、それはこのブログで公表するにはまだ時期尚早だろう。まぁ、何らかの仕掛けをzato氏が依頼してきたということのみに止めておく。いずれにせよ、嬉しいコンタクトだった。新生zavtoneの始動に期待しよう!!

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