書籍・雑誌

2006/01/10

死の哲学

death_phiro 久々にいい本を読んだ。哲学の本なので晦渋な表現が多いが、狼のパワーとダンディズムがある。江川隆男著「死の哲学」(河出書房新社)。帯にはスピノザ、アルトー、ドゥルーズ=ガタリらが渦巻く大地からうまれた衝撃の〈実践哲学〉とある。一口で言えば、死を実践すること——これがこの本のテーマである。いかにもわたし好みの本なのだが、本当にいいことがたくさん書いてあるので、ヌース理論の裏本として硬派の読者におすすめしたい。

 江川氏自身はドゥルーズの研究者らしいが、たぶんドゥルーズよりも、ドゥルーズが「アンチ・オイディプス」で盛んに引用していたA・アルトーにかなり傾倒しているのではあるまいか。友人である河村悟もそうだったが、アルトー好きの人には近寄り難い不気味な迫力が漂っている。この人の文体にも同じような圧を感じる。死を生きること。死しても尚、器官なき身体として生きること。彼らの口からは、霊魂などといった甘っちょろい夢想的な語句は決して出て来ない。死は一つの身体を持っている。それは少なくとも宗教者が口にするようなふわふわとした正体不明の何物かなどではない。それは今在るこの生の身体の今在る分身でもある。その分身を死を生きることによって我がものとしていくこと。死後の世界は同時にここにあり、それを自らの欲望によって、生きながらにしてここに顕現させること。それが死の実践哲学の内実である。

 しかし、「死を生きる」とは具体的にどういうことなのか?それは仏教の修行僧のように煩悩を絶って心を空にして生きることでもないだろう。また、ユダヤ教徒のある一派のように徹底したストイシズムを貫いて生きることでもないはずだ。死後の魂のためにこの世で善行を積むなどというのは言語道断、それは信仰心を持って世界に臨むことなどでは決してないのだ。
 ——潜在的なものの変形。非物体的なものの変形。別の身体との接続。否定なき無能力。。。作者は「生きる死」をこうした様々なタームで綴っていく。それがドゥルーズ風のイデアを語っているのは明らかなのだが、他のドゥルーズ解説者の言葉よりも艶かしく、より強度を持って心に響く。力強さと流麗さを持った秀逸な文体である。とても才能がある人だ。

 ただ言えることは、スピノザ、アルトー、ドゥルーズ=ガタリ(これにニーチェが加われば鬼に金棒だが)、彼らの哲学を日常の生活の中で実践しようとすると、必ず体制と衝突するということは覚悟しなければならない。ここでいう体制とは別にイデオロギーが作る体制などではない。生活の体制、つまり、人間世界全般の常識そのものと激突してしまうハメになるのは必死である。まぁ、死の哲学を標榜するからには、それは当たり前のことでもあるだろうが。たとえば、

「犬や猫を愛する者たちは、すべて馬鹿者である」。こうした者たちは、間違いなく人間を単なる道徳の動物にするだけでは飽き足らず、動物を人間化して道徳存在を増大させようとしているのだ(p.93)。

 なんてことが当たり前のように書いてある。嫌われる。確実に忌み嫌われる(笑)。うちのかみさんは猫=命なので、思わず笑いがこぼれてしまったが、彼らの生き方を突き通すには、かみさんのみならず、ほぼ人類の全体を的に回す覚悟がなければ無理だ。死の哲学へと参入するには、まずもって、そういった孤高の精神を持って、人間世界の中で暴れ回る覚悟が必要なのである。

 ちなみに作者が傾倒するアルトーもシリウスやマヤ文明に魅せられていた。シリウス派にはいろいろいる。ニューエイジ、ポストモダン、伝統的オカルティスト、UFO信者、さらにはアシッド狂いのジャンキー。人間はこれだから愉しい。幅広くシリウスを語りたいものだ。

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2005/12/13

精神現象学

4878932945新著の構成が今ひとつはかどらない。こういうときは普通なら気分転換をはかり、街に出るなり、音楽を聴いたり、映画を観たりするところだが、わたしの場合は違う。自分を徹底的にいたぶる。哲学書を読むのだ。考えがまとまらないときの頭の状態というのはえてして考えているようで考えていないときが多い。思考の問題というより意欲に欠けているのだ。欠けた意欲は気分転換では補うことはできない。徹底して自分を痛めつけるしかない。痛めつけることによる触発が必要なのだ。そうやって今日、本棚から取り出したのは「精神現象学」(長谷川宏訳 作品社)という一冊の分厚い本だ。ヘーゲルが37歳のときに記した代表作である。恥ずかしながらこの本は5000円もの大枚をはたいて購入してはみたものの、一度も読んだことはなかった。

 以前、詩人の河村悟から「ヌース理論は理性だからダメだ。ヘーゲルの絶対精神ではダメなんだよ。」と手厳しく批判されたことがある。彼は決してポストモダンかぶれの人ではないが、詩人という立場上、理性的なもの、特に弁証法的な粗雑な思考形式を毛嫌いしていた。河村氏は思想・哲学に関しては生字引のような人物で、当然、わたし程度の知識量で彼に議論を吹きかけるなど自殺行為も同然だったが、カチンときたわたしは「理性には人知れぬ理性というものがありますよ」と言い返した。幸いにもそのときは彼がニヤリと笑っただけでことなきを得たが(笑)、それ以来、わたしにとってヘーゲルは気がかりな存在となっていたのだ。しかし、本格的にヘーゲルは読んだことはなかった。いざ読もうと思ってもなかなか触手が伸びない。ヘーゲルについて知ってることと言えば、弁証法と絶対精神という言葉。遅咲きの哲学者だったこと。カント哲学の批判的継承によって近代哲学を集大成した哲学者。ヤコブ・ベーメの思想に大きく影響を受けていたこと。ルター派の熱心な信者だったこと。このくらいである。

 ヘーゲルはもともと弁証法のアイデアを17世紀の神秘家ヤコブ・ペーメからパクっている。自己意識の本性を徹底的に追及していくなかで、彼はそこに神の自己意識を合わせ見た。ヘーゲルの弁証法の基盤はこの人間の自己意識と神の自己意識の弁証法的展開にある。「一切のもののなかに神の三位一体をとらえ、あらゆる事物を三位一体の露呈ならびに表現としてとらえる」というヘーゲルのベーメ評はそのままヘーゲルにも当てはまる訳だ。ヌース理論は基本的にはこの伝統的な弁証法の概念に他者性を取り込むことにより、「ペンターブ・システム」という概念によって双対化し、その運動を空間の対称性の拡張秩序へと転化させ、最終的には「観察精神」という一者へと止揚させていく。その意味では極めてヘーゲルっぽいのだ。

 それにしてもこの本のエンディングはいい。やる気がみなぎってくる。

——目標となる絶対知ないし精神の自己知は、さまざまな精神がどのようなすがたをとり、どのようにその王国を構築したのか、という事柄に関する記憶を道案内人とする。その記憶を保存しているものとしては、偶然の形式をとってあらわれる自由な精神の歴史と、それを概念的な体系の形として示す「現象する知の学問」とがある。二つを一つにしたところの、概念化した歴史こそ、絶対精神の記憶の刻まれたゴルゴタの丘であり、生命なき孤独をかこちかねぬ精神を、絶対精神として玉座に戴く現実であり、真理であり、確信である。シラーの詩「友情」の一節にあるごとく、この精神の王国の酒杯から、精神の無限の力が沸き立つのだ。

 新しい理性がやはり必要だ。心優しい理性。海のようにすべてを溶かし込む理性。それは男の感性と女の理性を併せ持ったもの。。優しくなければ理性ではない。だろ?


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2005/10/10

「知の欺瞞」

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 カフェネプでトーラス氏が話題にしていた「ウィングメーカー」を本屋に探しに行ったが見つからず、そのままふらふら科学哲学書のコーナーへ。以前から読まないといけない本としてリストに上げていたアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの書いた「知の欺瞞」を購入。

 この「知の欺瞞」は、ヌース理論でもおなじみのドゥルーズ=ガタリ、ラカンを始め、クリステヴァやヴィリリオ、ボードリヤールといったポストモダン思想の論客たちの数理科学的知識の濫用、誤用を、専門の物理学者の立場から手厳しく批判した書として、数年前に欧米や日本で話題になった本である。この本の内容についてはインターネット関連の情報でちょくちょく見かけていたので、レベルはかなり異なるが、同じく数理科学的知識の濫用で、時折、やり玉に上がるヌース理論の展開にとっても無関係とは思えず、それなりに気になっていた本でもあった。

 で、読んでみた感想だが、最高に笑える本である。これは言い換えれば「あちら版ト学会もの」だ。ト学会の連中と同じく、ソーカル=ブリクモンのコンビは予想していたほどガチガチの理科系頭ではなく、謙虚で、かつ、ギャグセンスがかなりいかした人物のような印象を持った。性格的には、少なくともラカンよりは好感が持てる。彼らのギャグセンスの精妙さは引用しないと分かってもらえないと思うので、長文になるが少し抜粋させてもらう。

まずはラカンの1960年のセミナーからの引用を挙げ、

 このようにして、勃起性の器官は、それ自身としてではなく、また、心像としてでもなく、欲求された心像に欠けている部分として、快の享受を象徴することになる。また、それゆえ、この器官は、記号表現のの欠如の機能、つまり、(-1)に対する言表されたものの係数によってそれが修復する、快の享受の、前に述べられた意味作用の√-1と比肩しうるのである。(Lacan 1977b,pp.318-320、佐々木他訳 pp.334-336)

続いてこう記す。

正直にいって、われらが勃起性の器官が√-1と等価などといわれると心穏やかではいられない。映画「スリーパー」の中で脳を再プログラムされそうになって「おれの脳にさわるな、そいつはぼくの二番目にお気に入りの器官なんだ ! 」と抗うウッディ・アレンを思い出させる。

 うーむ、かなり洗練されたギャグセンスである。しかし、ただ残念なことに、ソーカルには精神分析一般についての基礎知識が欠如しているように思われる。勃起というとすぐにもろオチンチンを想像するのは致し方ないことではあるが、ラカンがファルス(男根)と言えば、それは言語の機能のことであって、別に、実際のオチンチンのことなんかではない(まぁ、こんなことは知っているかもしれないが)。さらに、どうして言語機能に対してファルスという名称が与えられているかと言えば、そこには、古来よりユダヤ教の中に受け継がれている言葉と神の関係に関する対する深い洞察があるからなのだ。こうしたユダヤ的ロゴスの伝統が分からなければ、ラカンがここで何を語ろうとしているかなど、まず分からない。

 ラカンの書く文章は、確かに、その博覧強記も手伝って、謎の呪文のように見えるときもある。しかし、何しろ相手はフロイトとソシュールを結合させた、無意識構造の語り部としては世界最強の達人なのである。それこそ、圧縮や隠喩や換喩はお家芸なのだ。それにここに引用されているセミナーでの講義内容も別に一般人向けに行っているものでもない。あくまでも精神分析に興味持つ生徒たちを相手にしたものだ。故意にナゾかけのように話し、その謎解きはそれぞれの出席者に任せる。そういったスタイルをとったところで何ら不思議はない。ラカン自身、「主人の語り」「大学の語り」「分析家の語り」「ヒステリーの語り」という四種類の言語の在り方を模索している。その意味で、数学的知識の枠の中のみから、つまり、「大学の語り」の中からのみ、ラカンの数学的知識の濫用を批判してもあまり意味あることではないようにも思える。ドゥルーズ=ガタリもそうだったが、語り方自体、さらには書き方自体の中でも、彼らは自己同一性の解体作業を試みているのだ。科学が啓蒙を旨とする具体的説明の方法をとるのに対し、ポストモダンは啓蒙についてはあまり関心がない。すでに思考が旧い器から溢れているのである。

はてはて、ヌースはどっちの方法論を取るべきか。。未だ迷うところではあるが。ぶつぶつ。

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2005/08/03

無意識のモンチッチ

「カルナ」という雑誌の取材を受けた。NCジェネレーターの話題を聞きつけ、さっそく特集記事の中に組み入れたいという。「カルナ」はもと「気マガジン」という雑誌名で、今年で創刊20周年になる老舗の雑誌である。最近は、気功をベースに、古武道系やアユル・ヴェーダ系の記事を中心に編纂されており、購読者の年齢層もかなり高めを設定しているようだ。古武道や中国気功のファンにどれほどヌースの考え方が伝わるかは蓋を開けてみなければ分からないが、インタピュー記事は6ページほどに渡って掲載される予定だ。インタビュー内容はもっぱら「人工的な機械で気を発生させるとはどういうことなのか」に的が絞られている。わたしは自分のコンセプトをありのままに淡々と答えた。気とは何か。病気とは何か。治癒とは何か——。受け答えの中に、ゲージ対称性や高次元と言った言葉が出てくるので、一般読者には難解、科学通には「トンデモ」と受け取られてしまうかもしれないが、わたしは直球ストレートでしか勝負できないタイプの人間だから、それはそれでいい。 

 少しうれしかったのは、編集長がNCジェネレーターのビジュアルをいたく気にいってくれ、表紙にも使わせてもらえないかと依頼してきたことだ。ありがたい話である。ジェネレーターの内部を明瞭に出すのははばかられるので、結局、わたしと機械、ご両人仲良く並んで撮ったスナップ写真を提供することになった。結果、NCジェレーターを前にほくそえむ半田広宣氏——そういう構図の表紙になってしまった。「New Yorker」や「Forbs」の表紙じゃなかったのは残念だが、日本の一精神世界系の雑誌とは言え、わたしの顔が表紙を飾るのはやはり画期的なことである。決して自慢できるルックスではないが、この手の世界で活動している人たちの中では明朗快活な部類には入るだろう。ただ、一つ不満なことは年相応の威厳がないことだ。昨日、表紙のラフが届いたのだが、予想通り、モンチッチ系の顔に写ってしまっている。カメラがおかしいのか、光が偏向しているのか、わたしはいつもモンチッチ系の顔に写ってしまう。何かが変だ。いや、変ではない。写真こそが事実。君はモンチッチなのだ。前号は作家の五木寛之氏や佐藤愛子氏が表紙を飾っていたので、まぁ、よしとするか。しかし、この表紙のポートレイト、何かが不自然である。見ようによっては、二昔も三昔前の「明星」や「平凡」を彷彿とさせないこともない。こりゃ、ポーズがまずかったかな。。。わたしのモンチッチ顔に興味がある方は、盆過ぎに大きな書店には並ぶと思うので是非、そちらをご覧になるといい。

 写真は無意識を写すと言ったのは確かベンヤミンだったか。わたしがわたしの写真をまじまじと見るということは、他者のわたしの容貌に対する無意識をえぐり出すことになる。——うーむ、老けたものだ。今度は若返りの機械でも研究することにしよう。

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2005/07/07

雑誌「スターピープル」

 この二日間はN社から出ている雑誌「スターピープル」の原稿書きをやっていた。次号は何やら「数」についての特集を組むということで、何か書いてくれないかと依頼があったのだ。最初はπとeという二つの超越数について書き始めたが、自分でも訳が分からなくなり挫折。急遽、方向転換してとりあえず最近のわたしのマイブームである虚数について少し書いてみた。発売は9月中旬ということなので、興味がある方はそちらを見て頂きたい。

 さて、この「スターピープル」という雑誌、実に不思議な雑誌である。紙質や編集デザインやグラフィックは今までのニューエイジメディアの中でも抜きん出てお金をかけているように見える。しかし、編集長のI氏の話を聞くと、大して売り上げ部数は上がっていないらしい。何でもN社での他の部門で出た利益をごっそりと雑誌製作に注ぎ込んで何とかやっていけてるとのこと。わたしが言うのもおこがましいが、実に殊勝な心がけだ。もちろん、雑誌部門自体の売り上げも伸ばしたいと考えているようだが、そこはそれ、今の出版不況の時代に発行部数を伸ばしていくのはそんな生易しいことではない。N社自体は採算ペースを死守するために旧態依然としたニューエイジ風の書籍の刊行を行っているが、I氏本人は、クリシュナムルティーやグルジェフのファンだけあって、心の底ではハードコアなオカルト雑誌を作りたい野望を抱いているようだ。ただ、時流はそうしたコアさを敬遠するかのように動いている。

 マガジンカルチャーというと、わたしたちの若い頃は流行を切り開いていくためのイノヴェーター的なメディアだった。まず雑誌を購読している連中自体が少数だったし、何の雑誌を読んでいるかでその人間の人となりが分かったものだ。マガジンの出自はその本来が政治機関や思想団体のアジテーター的役割を果たしていたのであるから、それは当然の話ではある。しかし、現在では、マガジンは単にマーケッティング理論に合わせて送り出される買い物情報誌の類いがほとんどを占めている。知性や感性を刺激し、生き方そのものをダイレクトに問うような雑誌は皆無だ。

 「スターピープル」以前にも、バブル期には、いろいろなニューエイジ向けの雑誌が出ては消えて行った。が、そのほとんどはスピリチュアルマーケットを意識して作られたもので、どうでもよいたらい回し的な情報を常連客に向けて発信していたにすぎない。純粋に新しい価値や世界観の模索に取り組んだものなど皆無だった。マーケッティング戦略としてターゲットをしぼって動くのではなく、新たなターゲットとなる層を作る。そういった心意気とビジョンがなければ雑誌など発刊しても無意味だ。

 ヌース理論が語っていることはニューエイジでもなんでもない。むしろオールドエイジ、否、エインシェント・エイジである。この行き場を失った時代の生命力を再生させるためには、古代にちりばめられたグノーシスの叡智を全く違ったテイストで現代に復活させるしかない。「Star People」のstarがNASAが謳っているような星々の意味ならば、この雑誌の命は短いだろう。しかし、魂の灯としてのasterから派生したstarであるならば、たとえ部数は少なかろうが、そこで伝えられていく内容は、単なるマーケット情報ではなく、「存在からの語りかけ」として末永く読み継がれていくことになるはずだ。I編集長の奮闘を祈る。

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2005/06/29

射影幾何学入門

012818博多のジュンク堂で数学書のコーナーを見て回っていたら「射影幾何学入門」という本を見つけた。今時、射影幾何学などいった分野は流行らないのだろう、書棚の隅にポツンと一冊だけ孤立したかのように置いてあった。わたしの中では、最近、視野空間がマイブームなので、何かの役に立つのではないかと思い、手に取ってみることに。

 ページをめくってみてビックリ仰天。まず、いきなり出足の章のタイトルが「古代エジプトと幾何学的精神」ときた。そして、文章自体が明らかに数学書のそれではない。カルシウムがサル(塩)的な力を持つとか、天秤座は黄道12宮の中で唯一、無機物であるとか、極めて錬金術的なインスピレーションに富んだ文章がちりばめられているのだ。これって、ほんま、数学書かいな?と訝しがるわたしを差し置いて、この本はイケイケドンドンでガンガン飛ばしてくれる。「ユークリッド的計量は天上的なものの地上化である」「月とは物質、太陽とは精神である」等、アクセル踏みっぱなし。。そして、中盤からは何ひとつ臆することもなくシュタイナー思想が堂々と紹介されているではないか——まさか、数学の専門書のコーナーでシュタイナーに遭遇するとは思ってもみなかったので、思わず、その場で立ち尽くし、生唾をごっくん。ページを次々に読み進んだ。ところが、これが面白い。面白すぎ。

何ぃ〜?射影空間はエーテル的空間で、ユークリッド空間は物質的空間である——だとぉ〜。射影空間においては点と面は双対関係にある——双対射影空間から生まれる双対ユークリッド空間のことをシュタイナーは負のユークリッド空間、もとくはエーテル空間と呼んだ——だとぉ〜。。今までヌース理論の空間論、特にψ1〜ψ2、ψ3〜ψ4という観察子概念の構築の中で考えていた内容とそっくりそのまま同じことが、別の言葉できっちりと定格化され説明づけされているではないか。と言って、この内容はニューエイジを対象とする妖しげな通俗書の類いでもなく、射影直線に始まって、射影平面、射影空間と、数式が苦手な読者にも射影幾何学の醍醐味が分かるように親切丁寧に構成されてもいる。おまけに、植物や動物の形態形成がある程度は射影空間の考え方で説明できること、さらには、プラトン立体に関しても射影幾何学的な見方から野心的な示唆を施したりもしている。こんなスタイルの本、数学書としては初めて読んだ。実に気持ちのいい快著である。

 著者の丹波敏雄氏は津田塾大の教授をやっている方らしい。長年、ゲーテ・シュタイナー的自然科学を研究されている御仁だということで至極、納得。この本自体は、20世紀前半にシュタイナー思想をもとに幾何学研究を行っていたG・アダムスやL・エドワードの仕事を通して、射影幾何学の解説を試みることを主眼に置いているようだ。

 この著書の中で、丹羽氏は、射影空間を特徴づける公理がユークリッド空間のそれよりも対称性に満ち、単純な形をとっていることから、射影空間は原型的な空間であると断言している。ヌース理論の言葉でいえば、射影空間は外面的であり、ユークリッド空間は内面的であるということだ。その意味で言えば原型的な空間は、感覚そのものを受容する空間であるがゆえに、感覚の対象でなく、理念の対象となる。ヌース理論をよりふくよかな体系に肉付けしていく上で極めて重要な一冊だと感じた。一読をおすすめする。

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2005/05/21

サージウスの死神

satoさっちゃんの本が出た。いや、もう作家の仲間入りをしたのだから、「さっちゃん」ではいくらなんでも失礼だ。敬意を込めて「ヤツ」と呼ぼう。ヤツの本が出た。去年、群像新人文学賞優秀賞を受賞した「サージウスの死神」が単行本になって発売されたのだ。小説はここ三十年まともに読んだことはなかった。久々に読んだのがこの作品だ。正直、かなりの衝撃を受けた。身内評で言ってるのではない。ひさびさに重金属を感じさせる文章に触れた。いや溶けた重金属というべきか。そんな気がする。わたしは文学には疎い。しかし、この本を満たしている危険な熱は十分感じ取ることができる。この本は、ヘタに読むと脳が焼けただれる。憤怒や情熱などといった人間的な熱によってではない。聖なる悪が帯びた冷熱が一面を覆っているからだ。

暴力には二つの種がある。一つは「神話的な暴力」と呼ばれる。神々は世界を創造し世界から立ち去った。その不在を在の痕跡として、この種の暴力は人間の生の中に刻み込まれる。戦争、殺人、強姦、監禁……、世界の大半の悪はこの神話的暴力によって引き起こされてきたと考えていい。もう一つは「神的な暴力」と呼ばれるものである。この暴力は言葉の中から言葉を喰い破るようにして出現してくる。それは普段は表面には顔を現さない。人間の仄暗い意識下で、それこそ蛇のようにとぐろを巻いている。しかし、ひとたびそれが動き出すや、たとえ神話的暴力の力を持ってしても制止させることはできない。なぜなら、それは自然そのものに抗う生命の力だからだ。一つ例を挙げるとすれば、それは革命である。革命には戦いはつきものだ。しかし、その性格は国家VS国家のそれとは大きく異なる。革命は国家VS個体という場所から始まる。その意味において、革命とは、有機体が自己自身を刷新していくために自己の内部で生起させる戦いである。こうした自己変容に関わる力が神的暴力だと考えていい。その意味で、神話的暴力は種の保存に関わり、神的暴力は種の刷新に関わる。神話的暴力は科学に関わり、神的暴力は芸術に関わる。また、別のいい方をすれば、神話的暴力は律法の神の力であり、神的暴力は詩の神の力である。これら二つの暴力の淵源はともにゾーエーにあるが、このゾーエーの制御と解放こそがエゼキエルの車輪を回す動力となっているのだ。

さて、現代に神的暴力というものが存在するや否や——いや、気恥ずかしいが、ここはなるべく分かりやすく言い換えておこう。このワンワールド体制に果たして革命というものが起こりえるか否か——。「ヴァリス」に記されているごとく、確かに帝国を滅ぼしてきた者もまた帝国であったわけだが、この資本主義帝国を終焉に至らしめる者は決して帝国とは呼ばれることはないだろう。それは個体でしかあり得ない。徹底した孤独の中で死に向かって直立することのできる個体でしかあり得ない。人は徹底した個体化の中に初めて真の他者を見いだす。天使的結合はそこでしか起こり得ないのだ。死せる神が貨幣に姿を変えているならば、わたしたちは、それらをすべて焼き払い、その灰の中から立ち上る火の精霊を見いださなければならない。この神聖な火によって初めて鉄の精神は聖なる剣となって精錬される。その聖剣を持って現れるのがソドムの天使である。

「サージウスの死神」とはそんな書物である。本屋に行けばその所在はすぐに分かるはずだ。赤く焼かれた鉄の色。ダビンチの神聖幾何学。グルジェフのエニアグラム。そして、その上に配された擬オカルト的な記号。分裂症患者の数字。この鉄の中に潜む聖なる悪と邪なる善は今や境目をなくし、一体に解け合おうとしている。サージウスの赤褐色が黒と組めば本当の死がやってこよう。白と組めばそれは復活である。ルーレットは回っている。重要なのは頭に飼われた数字ではない。蛇である。ヤツの心の中の蛇が眠らないことを祈る。

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2005/04/29

OPUS(オプス)

g友人の金大偉氏から昨日、「OPUS(オプス」)のvol.3が送られてきた。OPUSとは金氏が不定期刊で発刊しているアート系の雑誌である。「OPUS」はすべて金氏の人脈により自費出版で作られている。今回は金さんから直で原稿依頼を受け、7ページほどの小論を書いたのだった。題して「21世紀的バロキズム」。 OPUSとは元々、ギリシア語で「作業」の意だが、この「作業」とは当然のことながら、錬金術的作業のことを意味する。金氏自身は、映像、音楽、編集など何でもこなす多才なマルチアーティストで、現在も幅広い分野にわたって活躍している精力的な人物だ。何と言っても人柄と家柄がいい。おっと家柄は関係ないか。。。

今回の「OPUS」のテーマはなんでも空間ということ。空間なら半田さんに何か書いてもらわないと。。ということで私に原稿を依頼してきてくれた。ありがたいことに、わたしの稚拙な記事を、岡本敏子さん(故岡本太郎氏の娘さん)、鎌田東二さん(神道研究者)の冒頭対談のあと、あの浅葉克己さん(アートディレクター)の草稿に次いでトップ2に持ってきてくれている。。。。うーむ、こんなことなら、もっと、一般向けの記事にすればよかったかなぁ。。

この原稿依頼は去年の秋ぐらいに受けた。そこで、当時、考えていた「4次元世界眼球」についての解説調の長たらしい文章を書いてしまったのだ。ポイントは、空間のコンパクト化が主体空間の別名で、ノンコンパクト化が客体空間の別名である、ということが言いたかっただけなのだが、あひゃひゃのひゃ、こりゃ、浮いてるわ。。。。他の記事が分かりやすいものが多いので、このくらい難解な記事が入っていた方がいいのかもしれないが、数学記号などの誤植がかなり多いので、一般の人は読みづらいかもしれない。

しかし、この論考は現時点でのヌース理論の展開に対して重要な加速点になっている。モノ、自我、主体という関係が、4次元空間における直交性の中で規定されているのではないかということを初めて訴えった論稿だ。メビウス変換を明確にモデルに持ち込んだのもこの頃である。サイトで紹介しているNCの4D-typeは、この原稿を書いているときにしっかりと固まった。ヌース理論の現在を追いかけている人は是非、読んでいただきたい。

尚、この雑誌、小難しいことを書いているのは僕ぐらいのもので、あとはアーティストや音楽家、デザイナー、映画プロデューサーの方々の寄稿が多いので、結果的に、〈空間-アート-霊性〉を巡るエッセイ集のようなものになっている。金さんの編集も相変わらずうまい。価格が1.000円というのもちょっと安いかな。。。

いずれにしろ、本屋では見つからない雑誌です。入手希望者は直接、金さんのところへメールで注文して下さい。

金さんのメールアドレス
kintaii@m11.alpha-net.ne.jp

金さんのサイトへ

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