映画・テレビ

2006/10/23

ブラック・ダリア

Blackd 先週末、甥っ子のdieforくんを連れて久々に映画館に足を運んだ。B・デ・パルマの新作『ブラック・ダリア』を観るためだ。デ・パルマは僕にとって思い出深い監督である。20代前半に吉祥寺に住んでいた頃、ロックミュージカル特集というオールナイト上映会があって、「ジーザス・クライスト・スーパースター」「ゴッドスペル」「ロッキーホラーショー」「ファントム・オブ・パラダイス」の4本を立て続けに観た。そのとき一番面白かったのが「ファントム・オブ・パラダイス」で、これがデ・パルマ作品との最初の出会いとなった。その後、「キャリー」「殺しのドレス」「ミッドナイト・クロス」「スカーフェイス」と立て続けに見せられた僕は一気にデ・バルマのファンとなった。個人的には80年代のハリウッドではベスト5に入っていた監督だと思っている。90年代以降、確かにデ・バルマはバッとしない。それでも、いつかはガツンとやってくれるという期待を持って、デ・バルマの作品を見続けている。ってなわけで、今回も「ブラック・ダリア」に足を運んだわけだ。

 さて、見終わった感想だが、駄作とは言わないが、やはり今三、今四だった。全盛時のデ・バルマの持ち味は何と言ってもカット編集の畳みかけの妙技だ。ヒッチコック張りのカメラアングルとカメラモーションを使って撮影された様々なシーンが、長回し、スローモーション、画面分割等の編集によってこれまたヒッチコック風のSEに合わせて絶妙に畳み掛けてくるときのあの緊迫感、これがたまらなかったのだが、今作もそのドライブ感が全くと言っていいほど感じられない。後半になってようやくデ・バルマらしさが出てくることには出てくるが、リズムがバタついていて、作品全体としての統一感がない。デ・バルマはもう終わったのかもしれない。そう感じた。

 好きな監督だっただけにいろいろなことを考えさせられた。ひょっとしてデ・バルマは何も変わっていないのかもしれない。変わったのはむしろ僕の方で、あまりにデジタルのスピード感に慣れてしまったために、デ・パルマのような編集技法が無意識のうちにカビ臭く感じるようになっているだけの話なのかもしれない。映画はもろテクノロジーが反映されるジャンルである。もちろん映像技術が進歩したからと言って、傑作が大量に生まれてくるというわけではないが、映像表現の斬新さに限って言えば、現在の映画表現はデジタルテクノロジーに負うところが大きい。デジタルが提供するSFXを嫌というほど見せつけられ、アナログ時代の作品がどうも間延びしたように見えてしまうのは僕だけだろうか。と言って、デジタルの撮影技法はすぐに飽きがくる。作品の鮮度保持期間は昔に比べれば比較にならないほど短い。アナログもダメ。デジタルもダメ。僕の映画脳はどうやら八方ふさがりの状況を迎えてしまっているようだ。

 長く語り継がれる作品というのはもう出てこないのかもしれない。おそらくテクノロジーとカルチャーの蜜月の時代は20世紀で終わったのだ。テクノロジーがカルチャーを死滅させる時代に入っているというのは言い過ぎだろうか。。

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2006/06/01

ダ・ヴィンチ・コード

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——ネタバレあります。映画を楽しみにしている人は読まないこと。


とりあえず、どんなものか観に行ってきた。いやぁ、驚いた。ウィークデーにもかかわらず、行列ができるほどの大賑わい。僕が行ったのは博多の中州にあるユナイテッド・シネマのシネコン。ここでは3館で封切られているのだが、どこも満員御礼。最近に類を見ない盛況ぶりだ。それに観客のほとんどが10代〜20代の若者たちで占められている。「マトリックス」のような作品なら理解できるが、「ダ・ヴィンチ・コード」にこんなに若い連中が集まっちゃっていいのでしょうか。メディアのバカ騒ぎのせいだな。

 原作を読んでいないので何とも言えないのだけど、映画としてはこれは明らかに失敗作デス。謎解き映画であることを考慮したとしても、台詞があまりに解説口調すぎ。おかげて映像よりも字幕を追っかける方で大忙し。僕なんかはまがいなりにもオカルティックな知識が多少あるからいいものの、その方面の知識がない人にはチト難しかいのでは?と、ちょっと心配になりながら観た。そしたら、案の定、勇んで映画館に足を運んできたと思われる若者たちの何割かは、上映開始後20分に爆睡。う〜ん、なんか、ヌースレクチャーの初日みたいだな(笑)。

 要は、この作品、大枚のお金を叩いて映像化した意味があまり感じられないのだ。ベストセラーに乗っかった便乗商法の典型デス。マグダラのマリアがイエスの妻であったという話は「キリスト・最後の誘惑(M・スコッセシ監督)」などでもテーマになったことがあるので、今更驚くことでもないが、この作品(原作)はそうしたスキャンダルをより俗っぽく描いたので当たったんだろう。いわゆる王家の血脈とかいうやつ——イエス・キリストの血筋がメロヴィング朝の末裔に引き継がれており、その御方は今でも生きている——。日本にもあるよね。こういう類いのそそる話。南朝系の天皇の血を引くフニャララ天皇というのがいて、それをずっと守っている家系も存在する——。まあ、それが本当の話だとしても、僕のようなタイプは、そういうのはカンベンしてと言いたくなってしまうんだな。

 イエス・キリストは「家族を憎めない人間は、わたしの弟子にはなるな」とまで言った人。グノーシス主義の過激派だ。直系だの純血など、そんなコテコテのユダヤ的な情念に対しては徹底して反抗したはず。それが何で今さら血脈なんだ?それじゃあ、選挙で教皇を選ぶローマ・カトリックの方がまだましじゃないか。

 キリスト教は一つの巨大な虚構装置だ。西洋中心の歴史概念はすべてこのキリスト教という最大のペテンの上に築かれてきている。青年イエス・キリストはグノーシス主義者だったと思われるが、キリスト教自体は違う。彼らはイエスの権威を纏った権力集団である。連中がやってきたことを事細かに見てみるといい。布教・聖戦という大義名分のもとに世界の隅々までに軍隊を派遣し、力で民衆を支配する。十字軍、イエズス会、コルテス、ピサロ・・・そして、重要なことは、現代も本質のところではそれは何も変わっていない、ということだ。やり方こそスマートになってはいるものの、「無限の正義」をひけらかすかの帝国の精神構造は昔のローマ・カトリックそのものではないか。世界は未だにユダヤ・キリスト教の中に潜む男のロゴスによって支配されているのだ。

 この作品で一カ所だけ光ったところがあった。ラストシーンだ。ルーブル美術館の前のピラミッドの地下深く、無数の芸術作品に囲まれて眠るマグダラのマリア像。それが最後に大写しにされる。これは象徴表現としてはかなりグーだ。ヌースをしこしこやっているわたしとしては少しジーンとした。聖母マリアではなく、マグダラのマリア。これが肝心な点なのだ。今まで、キリスト教をモチーフとした映画では、十字架の上に磔にされたイエス像か、幼きイエスを優しく抱く聖母マリア像しか登場しなかった。しかし、ここにきてついにマグダラのあの女がスポットライトを浴び出したわけだ。これは、本当に画期的。ピラミッドの下に眠る乙女イシス。月の知識の象徴。芸術の原動力。まさに眠れるグノーシスである。

 イエスの復活はマグダラにかかっている。マグダラこそが復活するイエスの母なのだ。こうした映画が世界中で大ヒットするということは、ひょっとすると多くの人の無意識はすでにマグダラの目覚めを直感しているのかもしれない。彼女はたぶん絶世の美女だぞ。誰が彼女のハートを射止めるか。頑張ろ!!

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2006/04/07

ナイトウォッチ

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 「タルコフスキーとウォシャウスキーを掛け合わせたような映画」という宣伝文句に惹かれ、ついつい足を運んでしまったのだけど、見事、撃沈。まぁ、アメコミを原作とした最近のハリウッドものに比べれば、意欲的な作品と言えなくもないけど、作品の質としてはやはりB級の域を出ていない。
 
「マトリックス」と似てるところと言えば、主人公が意味もなくグラサンをかけ、ロングコートを羽織っているところ。しかし、さすがロシアというべきかスタイリッシュな感覚がグローバルスタンダートにはほど遠い。話の内容も、「マトリックス」というよりもロシア版「コンスタンティン」と言ったほうがよさそうだ。

 物語は光と闇の戦いをテーマしたもので、1000年前に一度休戦状態に入っていた光の軍勢と闇の軍勢が、最終戦争に突入するために再度、戦闘を開始するというもの。映画のタイトルとなっている「ナイトウォッチ」は闇の監視人という意味で、休戦条約違反をした闇側の異種(能力者のようなもの)を取り締る役目を持っている。こうした悪霊退治モノには、普通、無敵のスーパーヒーローが登場してハチャメチャの殺陣を披露して見せるのだが、この作品の主人公であるナイトウォッチは1人殺るにも命がけ。かなりとろい。それに加えて、演じている役者もあまりパッとしないものだから、自然と作品のコントラストが弱くなる。あと、気になったのは脚本のギャグセンス。ユースカルチャーの作品ということで、ところどころに気の利いたジョークが織り交ぜられているのだが、ロシア語がギャグに向いていないのか、それともわたしがギャグに向いていないのか、笑いのタイミングがどうも難しい。

 その一方で、笑うべきではないところでついつい笑いが出てしまう。一番受けたのは「災いを招く乙女」というやつ。「災いを招く乙女」とは、人間だろうが、動物だろうが、植物だろうが、出会うものすべてに死をもたらす空恐ろしい存在。その女の頭の上にはいつも渦が巻いている。何と住んでいるマンションの上空でも竜巻のような渦が巻いている。その渦に吸い寄せられるように無数のカラスが寄り集まり、挙げ句の果てには上空を飛行中の旅客機までも墜落させてしまう。彼女の出現が闇と光の最終戦争の前兆となり、やがて世界は滅亡を迎えるというお話なのだが。。。うーむ、なんだなぁ。彼女と光の軍勢や闇の軍勢との関係がよく分からない。ここにまた主人公の人間ドラマが絡んでくるものだから、焦点がボケボケで、このストーリー構成のまずさがこの映画を今ひとつインパクトのないものにしている。

 ただ、映像センスはなかなかのものだった。何でも監督さんはロシアのミュージックビデオ界出身ということで、リズム感がいい。多彩なカメラワークと凝ったカット編集、それと(おそらく)ローテクのデジタルエフェクツ。チェコの映像作家シュヴァンクマイエルっぽい技法なんかもあって、東欧的というか、東方的な暗澹とした色使いがダークファンタジーという売り文句にピッタリとはまっていた。ただ、タルコフスキーという宣伝文句は止めて欲しい。万一タルコフスキーとの共通点があるとすれば、ロシアのポロアパートが放っているあの独自のカビ臭いアウラぐらいのもの。とにかく、劇場に足を運ぶ必要ナシ。興味がある方はレンタルDVDを待て。

 それにしてもエンディングにかかっていたテーマ曲、かなりかっこいい。これロシアのバンド?

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2006/02/25

ミュンヘン

a_munich_hiスピルバーグの最新作「ミュンヘン」を観に行く。一言で言うと、計算され尽くしたリアルで覆い尽くされたウソ映画の傑作。つまり、この映画はフィクションとして観るならば満点に近い。しかし、ファクション(事実をもとに再構成した物語)として見るならば欺瞞に満ちた作品である。彼の映画作りが天才的なのは誰の目にも明らかなのだから、もちろんこの批判はかなり次元の高い位置での批判である。

 全く個人的な意見だがスピルバーグにはこうした政治的な作品は似合わない。「シンドラーのリスト」然り。「プライベート・ライアン」然り。自由、平和、愛。。彼がどのようなメッセージを出そうとも、映画がうますぎてわたしにはすべておとぎ話のようにしか感じられないのだ。いや、おとぎ話ならまだいい。ヘタすると罪悪に見えてくることもある。可哀想だが、これはビッグネームが背負わなければならない宿命だ。かつてのP・マッカトニーもそうだったなぁ。

 一流アーティストは政治問題に関わることはできない。関われば殺される。それがわたしの持論だ。政治に口を出せるのは二流、三流。理由は簡単。影響力がないからである。冷静になって考えて見ればすぐに分かる。イスラエル-パレスチナ問題をテーマにした映画を、今、世界で一番売れっ子の監督が本気印で撮れるはずがない。スピルバーグだって命は惜しいし、人間関係だってある。当然、意見を自重するところや表現を曖昧にするところが出てこざるを得ない。実際問題として、この映画には米政府関係者やイスラエル当局がかなり口を挟んでいるだろう。イスラエル本国の公開ではシャロンの参謀が宣伝担当になっていると聞いた。シャロンだよ。シャロン。映画は一見すると、ニュートラルスタンスで撮られているかのように見えるが、裏では極めて計算高い構成が張り巡らされている。例えば、テロリスト側の殺戮シーンは何度なく出てくるがイスラエル側の殺戮シーンは1シーンも出てこない。数では圧倒的にイスラエル側が勝っているにもかかわらず、だ。

 スピルバーグの政治的信条は知らない。しかし、芸術的行為というものは情動を制御したその瞬間に全生命力を失う。作る側の人間にはそういう覚悟が必要である。才能や技量はその次に来るものだ。一方、政治的行為とは無意識のコントロールである。だから、本来、政治と芸術は真っ向から対立する類いのものだ。神的暴力を絶えず飼いならそうとする神話的暴力。そして、神話的暴力から絶えず逃走しようとする神的暴力。それが政治と芸術の健全な関係というものだ。結果、政治に飼いならされた芸術はもはや芸術的なものではなく政治的なものとなる。その意味でこの作品は極めて政治的な作品なのである。

 さて、最終的にこの映画からどのようなメッセージが出されたか——皆さん、殺し合いはよくありません。報復の連鎖は止めましょう。これだけだ。もちろん、それが悪いというのではない。問題は世界一流の表現者がイスラエル-パレスチナ問題に関してこの程度の批判しか行えないという、そのいかんともし難い文化状況なのだ。本作品は早くも本年度アカデミー賞受賞候補に上げられている。スピルバーグさん、受賞式では黒いタキシードを来て、奥方と一緒に赤い絨毯の上をフラッシュライトを浴びて歩くのかい?そりゃないだろう。

 スピルバーグには徹底した娯楽作品を作って欲しい。個人的には「激突」のような作品を望む。頼むから政治から手を引いてくれ。ヌース理論を映画化してくれよぉ。。

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2006/02/12

シンデレラマン

img20050918「シンデレマン」という作品をDVDで観る。実をいうと、この作品で主役を張っているラッセル・クロウとレネー・ゼルウィガー、双方ともわしの好きな俳優ベスト5に入る。作品の内容は、ハリウッド作品お決まりの家族愛ものというのは十分に承知していたが、二人の演技を観たかったので、借りることに。

 物語は1920から1930年代にアメリカに実在したプロボクサー、ジム・ブラドックの半生を描いたものである。この時代は、ご存知の通り大恐慌時代で、アメリカ国内の失業者数は1000万人以上にも上り、多数の人が理由もなくホリエモン状態を食らっていた苦節の時代であった。体調不良や度重なるケガのため、試合で生彩を欠くジムは、ある日突然にプロボクサーのライセンスを剥奪される。波止場で日雇いの荷役夫として重労働の日々を送るものの、愛する妻と幼い3人の子供たちとの生活は極貧を極める。そんなジムにある日、再度、リングへのお呼びがかかる。果たして、ジムはこの千載一遇のチャンスを見事ものにできるかどうが——物語はそのように進んで行く。

 監督のロン・ハワードは多作の老練監督で、最近ではTV映画「24」の製作に参加したり、同じくラッセル・クロウ主演の「ビューティフル・マインド」でアカデミー賞監督賞を受賞したりもしている。まっ、いわば一流さんだ。若かりし頃の作品には「コクーン」や「バックドラフト」等の話題作はあったが、どちらかというと、最近の作品の方が質が確実に上がってきている感じがする監督さんである。この夏の話題作「ダヴィンチ・コード」もこの監督さんだったんじゃないかな。。。

 さて、こうしたベテラン監督さんの作品であるがゆえに、作品自体は実によくできていた。落ち着いたカメラアングル。しっかりとした心理描写。それに見合った役者さんたちのケチのつけようのない演技。泣きのツボを1mmと外さない脚本と演出。もちろん、わたしも製作者たちの術中にはまりウルウル、ウルウルのしっぱなしだった。ラストシーンも「ロッキー」のような「えいどりわぁ〜ん」のような決めの一発があるわけではなく(笑)、実話らしくごく自然に淡々と編集されている。それでいて泣けるわけだから、作品の充実度についてはケチのつけどころはない。が、しかし、がしかしだ。やっぱり何か物足りない。これだけの役者とセットと物語の実在性を使って、どうして、今もなお、アメリカン・ドリームなの?という素朴な疑問が脳裏から離れんのです。 

 今の時代、映画は言うに及ばず、音楽やコミックやゲームなど、エンタメカルチャーは至るところに氾濫していて、僕らのナルシシズム回路はもうすり切れるほどピストン運動させられてしまったじゃないの。。ハリウッドだってそんなことは百も承知のハズ。しかし、ハリウッドはやっぱりいつもハリウッドなんだよな。ハリウッドにハリウッド以外のテイストを期待しようとているわしもアホだけど、わしは大学の映研が作るような安っぽい実験映画は実のところあんまり好きではなくて、制作費たっぷりの、ゴージャスでグラマラスで、かつブットビの逸品を期待しとるんだよね。
 嗚呼、今となっては「2001:space odyssey」や「時計仕掛けのオレンジ」や「地獄の黙示録」がほんま懐かしいです。最近のハリウッドは、どうして、あの手の変化球を投げてくれんのだろ。「イージーライダー」以来、根っからの映画好きで、中学生の頃からハリウッドを追いかけてきたわしだけど、そろそろ潮時かもしれんね。。アメリカ製品には、もう何を見てもブッシュの演説と同じ嘘臭さしか感じなくなってしまったよ。。ごめんなさいね。ラッセル&レネーさん。

でもハリウッドの名誉のために言っておくと、連中はバカじゃない。無茶苦茶,優秀。大衆に受けなければならないという制約の中で、いかに実験的なことをやるか。。やっぱり、これって大事なのかも。。エンタメの中にいかに規制の価値を揺さぶる劇薬を仕掛けるか。。アカデミズムの中に閉塞した学者の先生たちにはこうした観点が皆無だからなぁ。。やっぱ、エンタメは捨てるべきじゃないな。。

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2006/01/15

有頂天ホテル

hotel昨日は息抜きに街に出た。「有頂天ホテル」という映画を観賞。2〜3ケ月前に「笑いの大学」という作品をDVDで観て、日本映画界にもしっかりした脚本家がいるんだなぁと思っていたら、何とこの人、今や超売れっ子の三谷幸喜さんだということ。で、三谷さんの新作が封切られるというので、昨夜の観劇とあいなったわけである。

 わたしはいつも映画館に足を運ぶのはナイトショーなのだが、今回は1800円の正規料金を出しての入場。つまらんかったら映画館のシートにはなくそでも付けて帰ってこようと思ったが(失礼)、幸い作品は素晴らしく他人に迷惑をかけずに済んだ。三谷幸喜という監督さん、好きなジャンルではないが、とても才能があるんだなぁ。と改めて感心した。ポスト伊丹十三候補だな、こりゃ。

 この映画、普通の日本映画と違うのはカメラがよく動くこと動くこと。それも長回しのシーンがやたら多いということ。ワンカットワンカットが長く、その上、ストーリーの流れの中でいろいろな登場人物が絡み合うので、役者さんたちにかなりの緊張感が漂っているのが分かる。しかし、そのテンションが作品全体にピカピカした艶を与え、それぞれの役者さんたちの演技にもとてもいい影響を与えているように思えた。ただ、ウェイター役の川平慈英だけがチト力み過ぎ。普段から力んでいるキャラなのに余計力むものだから、台詞がカラ回りしていて芝居の流れにうまく乗れていない。でも、後の俳優さんたちの演技はおおむねみんなよかった。脚本や演出がいいとほんと役者も皆よく見える。役所広司は言うまでもないが、大物演歌歌手の役をやった西田敏行の存在感が結構すごかった。わぁ、こいつ、うまいわ。。登場して来て、台詞の第一声だけでそれが分かる。あと、オダギリジョー。いい味出してます。随分と笑わせていただきました。

 この作品は、あるホテルの大晦日の夜の数時間の出来事をコミカルタッチに描いたものだが、ほぼリアルタイムで23人の登場人物をめぐる物語がメリーゴーラウンド方式で展開されていく。様々なシーンにきめ細やかな伏線がほどこされており、こんな凝った構成は日本映画には本当に珍しい。三谷談によれば、かの米映画の名作「グランド・ホテル」を下じきにしたというが、テンポの早さとパースペクティブの切り替えの手法は、わたしの好きなポール・T・アンダーソンの「マグノリア」にヒントを得たのではないかと思われる。あと大ヒットTVドラマ「24」も少し入ってるかもしれない。23人の登場人物、誰が主人公というわけでもない。一人一人がすべて主人公であり、また脇役でもあるような、まさにモナドロジー・ムービーと呼べる作品である。欲を言えば、最後に何か仕掛けが欲しかった。画面のテンションが最後まで張りつめているので、あっと驚くようなドンデン返しがエンディングにあったならば、作品終映後ももっと余韻が残ったかもしれない。しかし、しかし、よく作ったものだ。。劇場にまた足を運びたくなるようなパトス的磁力に溢れたコメディ作品である。何はともあれ、日本映画が好きな方は是非、ご覧あれ。

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2006/01/06

ポスト・ヒューマンボディーズ

nsp051105bNHK衛星放送で立花隆最前線報告「サイボーグ技術が人類を変える」という番組をやっていた。去年放映された番組の再放映である。カフェ・ネプの方でも話題になっていたやつだ。第一話は「人体と機械の融合」、第二話は「脳をどこまで変えるのか」というタイトル。昨日と今日の二日にわたって興味津々でTVを見た。
 
 第一話では、落雷事故で両腕を失った男性に装着された人工の腕や、病気で完全に視力を失ってしまった女性が人工の眼で光を取り戻す様子が紹介されていた。身体の一部を機械で代替するいわゆるサイボーグ技術は、一昔前ならSFの世界の話だったのだろうが、近年のITとロボット技術の驚異的な進歩もあって、ここ4〜5年で突然変異的な発展を遂げてきているらしい。こうした技術が今、現実にあるということに想像していた以上の驚愕が走った。

 第二話はある意味もっとすごかった。こちらは身体改造ではなく、意識改造である。脳への電気刺激によるメンタルマニュピレーション、感情操作技術の紹介だっだ。番組ではうつ病患者の脳に電極を埋め込み、そこに微弱な電流を流すことによって悲しみの感情を抑制する現場が紹介された。研究者の話では、近い将来は、神経強迫症、統合失調症といった精神病の治療のみならず、食欲中枢やその他の感情中枢への適用も可能になるだろうということだった。cg25——それが悲しみの中枢の登録名である。

 コンピューターが登場してきた時点で、身体と機械の境界が曖昧になっていくことは予想していたが、ブレイン-マシン・インターフェイスのテクノロジーがこれほど早く実現しようとは。。しかも、この分野にはおそらく軍事技術への応用を先頭に豊富な研究資金が流入してきているはずだ。今後の進歩は分刻みと言っても大げさではない。立花隆はこういった一連の技術を目の当たりにして、それを「人間の進化」と言っていたが、確かにそれは今までの人間のイメージを劇的に変化させる事件には違いない。

 人間主体はいままで宗教、哲学、思想など、いうなれば人間の中に組み込まれたソフトウェアが人間を変えるものだと信じてきた。しかし、この番組を見る限り、ソフトウェアの進化に見切りをつけ、ハードウェア自体を別のものに入れ替えようとしているように思える。この先にあるのはやはり身体、総入れ替えの技術なのだろうか。身体と機械の境界をまずは曖昧にし、それから一気に機械的身体への変身を図る——ポストヒューマンボディーズ。未来社会はクローン人間とサイボーグが二大種族としてこの地球上を闊歩する。そんな破局的イメージが脳裏をかすめる。

 番組の中でも多少触れられていたが、こうなるとますますわたしたちの心の在処が問題となってくるのは必至だ。身体脳と心の脳とは言うものの、心は本当に脳の中にあるのか?いや、もっと別の表現で言い換えよう。未来は本当に脳の中にあるのか?いや、そもそも、こんな世界の実現が本当に未来と呼べるものなのか?人類まるごと、揃って存在の外部へ出ようとしてなはる。。こんな恐ろしい世界、うち、はっきり言って、ようつき合わんて。

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2005/12/25

亡国のイージス

gnbd7259「亡国のイージス」という日本映画をDVDで観る。うぅぅぅ………絶句。この映画の内容についてはもう何も言う気がおこらない。聞くところによれば、原作者の福井晴敏氏には若い世代に熱狂的なファンがいるという。小林よしのり氏の「戦争論」にしてもそうだが、あの9.11の事件以降、日本にも実にキナ臭い言論が増えてきた。イラクへの自衛隊派遣。平然と進む憲法改正論議。国家意識の希薄を自分ごとのように嘆く国家マニアの連中は、今の軟派な国状がよほど気に入らないらしい。

 わたしは日本語しか話せないコテコテの日本人だが、日本国民としての自覚はほとんどと言っていいほどない。もちろんご先祖様や日本人が築いてきた文化には心から敬意を払うが、日本という国家にはケツを向ける。日本人と日本という近代国家は別物だ。平和ポケ日本。国歌斉唱、国旗掲揚もままならない学校教育。結構なことじゃないか。こうした日向ぼっこのような平和を獲得するために皆一生懸命働いてきたんだろうから。人と人が殺し合う世界よりはいくらかはマシだろう。この際だから、この平和ボケの余勢をかって、国歌も国旗も全面リニューアルして太陽系歌、太陽系旗を日本人の手で作ったらどうだろうか。そして、あらゆる行事でその歌を歌い、その旗を振るのだ(できれは「てのひらに太陽を」のようなメロと歌詞がいい)。これは間違いなく世界規模のニュースになる。ボケボケ日本人。ついに末期症状か!!ってね。そうすれば、韓国も中国も少しは気の毒に思ってくれるかもしれない。

 なぜ、国家にはケツを向けるのか。理由は簡単だ。国家は個体化を疎外するものだからだ。どのような大義、名目があろうと国家権力による統治は人間の抑圧を生む。国家主体とは個体主体を生み出すための原器ではあっても、決してそれらを再統合させるための役割を持つものではない。国家主体とは、個体主体に成りきれない、つまり、個体化への中途段階にある意識を保護する役目がその本来の仕事ではないのか。個体同士における本当の絆は市民的生活の中にあるのであって、政治的生活の中になどない。また、国家はその市民的生活を守るためのものではあっても、決して統括すべきものではない。

 バクーニンやマルクスといったかつてのアナーキストたちは、国家を「おめでたい痴呆状態の画一化」として定義していた。国家は自由と能動と独立心を疎外する。国家民主主義もまたしかり。完成された真の民主制においては国家などは必要ない。だから、政治家や政党が口走る「日本国の民主主義」などといった言葉を決して信じてはいけない。民主主義とは個体化の宣言なのだ。議会制度もまったく同じである。それこそ「痴呆状態の画一化」のいい見本となっているじゃないか。時はすでに21世紀。そろそろ国家という幻想から離れたいものだ。となると、目指すべきは「霊性の道における和合」ということになるのだろうが、残念なことにスピリチュアルな世界にも国粋主義者を宣言してはばからない連中がたくさんいる。霊と国家が結びつくとロクなことはない。かつての日本国然り。ドイツ国しかり。今のアメリカ国だってある意味そうだ。旧い父の呪いはどの国家にも及んでいる。それは国家自体が旧い父の亡霊だからだ。いい加減で旧い父には勇退してもらいたい。——お父さん、さようなら。

 この映画の冒頭で、「イージス」とはギリシア神話に出てくる無敵の盾のことであるというナレーションが入る。この盾とは、元々はゼウスがアテナに与えたものである。アテナとは芸術と建築と聖戦の女神でもあり、その語彙そのものは「自ら生まれ出し者」の意だ。要は「イージス」とは、個体化からやがては存在自身の母胎へと回帰していく魂に与えられた知の盾なのである。決して国家を守るための盾などではない。むしろ国家を消滅させていくための戦いにおいて用いられる盾だ。真の意味での「亡国のイージス」とは何か。僕らはもっと思慮深く考えるべきだ。

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2005/09/20

ファンタジーとノスタルジー

img370e6bf1298357「チャーリーとチョコレート工場」という映画を観に行った。主演がジョニー・デップということと、TVのCMスポットで流された映像センスがよかったので、ついついつられて映画館へと足を運んだ。くぅー、しかし、外した。いくぷんたがの外れたシュールな映画を期待していただけに見事に外してしまった。プロダクション・デザインや音楽は楽しめたが肝心の物語がつまらない。どうしてこれだけの制作費をこんなつまらない話につぎ込むのだろう。ファンタジー映画が親子の愛をテーマにするなんて最悪だ。誤解しないでほしい。家族愛にいちゃもんをつける気はさらさらない。しかし、最近のハリウッド映画に必ずと言っていいほど盛り込まれている、この親子の絆というテーマは、わたし個人としてはいい加減に食傷気味なんだよな。ファンタジーの世界にまで、こうもギトギトに家族主義を持ち込まれては、ファンタジーではなくなってしまうじゃないか。

 そもそもファンタジーとは妖精や魔女や異世界の話である。在りもしないと思われるそうした幻想の世界に人はなぜ心惹かれるのか。それはあり得ないがゆえに人々にとっては絶大な希望となるからだ。あり得ることは希望には結びつかない。というのも、希望はいつの時代でも絶望の反動として機能するからだ。現実から乖離していればいるほど、幻想が人を引きつける威力は増す。現実を押し進めている人間世界の法則性を超えたところに人間は夢や希望を見いだすのである。その最高峰は、宗教では神と呼ばれ、哲学では真理と呼ばれ、芸術では美と呼ばれる。誰もそれらの素性を知らない、いや、誰もそれらの正体を知り得ない、という意味で、それは現実へと変換されることが不可能なものたちである。しかし、その不可能なものを絶対的な価値として夢見続けている人たちは、世界中にいまだに数多く存在する。こういった夢見の人々を、このブログの名にちなんでケイブ症候群と名付けよう。ケイブ症候群とは女なるものが持つ秘密の花園の中へ入りたがる者たちのその症状名である。原郷への回帰願望。。。そう考えると、ファンタジーというものは、そもそもその根底に常にノスタルジーを孕んでいるものと考えることができる。——ボクちん、おうちに帰りたい。おうちはとてもあったかくて、優しいパパとママがいる。これが人間のパパとママなら、ノスタルジーはあまりに残酷じゃないか。家のない子、親を知らない子たちには帰るところがない。家族主義は孤児の存在を振り返らない。そこがダメだ。

 事情は、ケイブ症候群の人々にとっても同じだろう。人間にはパハとママはいるのか?帰るべき原郷=ホーム・スィート・ホームはあるのか?神の国。千年王国。シャンバラ。常寂光土。何でもいい。本当にそんな故郷があるのか?もし存在しなければ、人間はすべて生まれながらの孤児だってことになる。孤児であることを認めたくない気持ちは分かる。しかし、一方では、孤児であることを豪語する者たちだっている。ここは、やはり、どちらの立場も尊重すべきだろう。

 ——よくよく考えてみると、これは子供向けの映画なのだ。なんで大人のわたしがカッカしている?。しかし、観客は満員だったが、子供の姿は数えるほどしかいなかったぞ。………問題は二重に複雑なんだな。おい、一体どうなってる、世界。世の中は子供のような大人と、大人のような子供だけになってしまったぞ。そーか。いい意味でも、悪い意味でも、もうパパも、ママも、帰る家も無くなったんだな。オレらはみんな同じ孤児だ。いや、みんな孤児なら、孤児じゃない。なっ、そうだろう?

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2005/07/29

いいSF映画がない。

p300199ilands934SF映画に目がないわたしは、常時、新作のSFものをサーチしているが、今月初め、公開と同時に観に行った「宇宙戦争」があまりに期待ハズレだったので、今回は、最初から期待薄の「アイランド」に、それこそ全く何の期待もせずに機械的に足を運んだ。

 監督はマイケル・ベイ。映画好きの人であれば、あの「アルマゲドン」や「ザ・ロック」の監督さんと言えばおなじみだろう。ベタベタのハリウッドアクションものを撮らせたら、右に出る者はいない、いや、誰も出たくないのかもしれないが、とにかく、ビルや車がぶっ壊れるCGを多用したド派手なアクションものを十八番とするB級大作ものの監督さんである。「アルマゲトン」にしろ「ザ・ロック」にしろ、理屈抜きで見れば楽しめるのだが、ベタベタなCGアクションに加えて、ブルース・ウィリスとか、ニコラス・ケイジとか、これまた脂質たっぷりの男優さんがセットでくっついてくると、かなりコレステロール度が高くなり、ついつい日本茶は出ないのかぁ!と叫びたくなってしまうものだ。しかし、今回のこの「アイランド」、主役がどんな危ない目にあっても絶対に死なないという不自然さは相変わらずだが、ベイ監督作品としてはかなりいい出来のように思えた。まず役者の選出がなかなかグーだったのではないか。共演のユアン・マクレガー、スカーレット・ヨハンセン。この主役コンビのアッサリ度がドラマの展開に軽快さとスピード感を与えていたし、その他の脇役陣もなかなか渋かった。

 ストーリーの内容は近未来のクローンビジネスを題材にしたものだが、印象としては「マトリックス」や「トータル・リコール」「ブレード・ランナー」を掛け合わせて立方根を取ったような内容である。自分をクローン人間と知らず育った主人公が、あるとき事実に気づき、仲間のクローンたちを幻想の牢獄から救済する。いわゆる自由への逃走ものだ。テーマ自体への深い掘り下げはなかったが、美術や小道具などへの配慮が行き届いていて、舞台としてのトータル感は結構あった。ただ、これはどうひいき目に見てもSF映画とは呼びにくい。やっぱり、ベイ監督お得意のド派手なアクション映画である。アクションものが好きな御仁は映画館に足を運んでも損はないと思う。無理な相談なのかもしれないが、個人的には、ジョージ・ルーカスの劇場デビュー作である「THX1138」やマイケル・ラドフォードが撮った「1984」のような、硬質な雰囲気をもう少し入れて欲しかった。ラストは結構、カタルシスがあるかもね。。

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2005/06/22

ソレルズのエコー

 昨日、NHKの衛星放送で「ストリート・オブ・ファイヤー」という青春映画をやっていた。この映画、まぁ、映画としてはとても一級と呼べる作品ではないのだが、音楽をライ・クーダーが担当していたということで公開当時はかなりわたしのお気に入りだった。中でも楽曲的に優れていたのは映画の中でソレルズという黒人コーラスグループが歌う「あなたを夢見て」という曲(実際にはダン・ハートマンの曲。)。ソレルズがこの曲をパフォーマンスするシーンは全盛期のミラクルズやテンプテーションズも真っ青なぐらい本当にいかしていた。久々に観てまた感動を覚えてしまったのであった。

 しかし………ここからが本題。実をいうと、この映画にはわたしの遅かりし青春時代の切なきノスタルジーも覆い被さっている。なぜなら、この映画は、当時、わたしが死ぬほど恋い焦がれていた女性との初デートで観に行った映画だったからだ。とはいえ、付き合い始めて間もなくわたしは例のチャネリング騒動に巻き込まれ、精神病院に叩き込まれるハメになる。もちろん、この恋の結末は無惨な物であった。別に彼女が悪いというのではない。気違いのレッテルを貼られ、社会的に去勢された男には、もう一人前に女は口説けない………。そうした愚かな幻想に当時のわたしは支配されてしまったのだ。結果、手も握ることなく、キスもせず、もちろんセックスの関係もないまま、彼女は思い出の人となっていく。ただ、ありあまる恋愛と性愛の欲望の残滓だけが、わたしの過去の記憶全体を薄い皮膜で包むかのようにして、今でも霞のように漂っていることは素直に認めなければならない。ソレルズを久々に観た感動にも恥ずかしながら告白すると、その薄いヴェールがかかっていたのだ。

 人生、人それぞれに様々な恋愛体験をする。成就する恋もあれば、破局する恋もあれば、最初から成就不可能な恋もあるだろう。しかし、それらに一体何の違いがあるというのだろう。恋愛体験において最も大事なことは、耳を澄まして、わたしへの呼びかけの声を聞き取ることではないのか。そして、その声に応答すること。もちろん、そのときどきの特定の相手の仕草や身振り、表情、まなざし、声が孕む魅惑的なエロスの香りに浸ることも重要だ。だが、しかし、そうしたものにはいずれ倦怠がやってくる。「わたし」を引きつけて止まない磁力の本質はその奥にある、存在からの呼びかけの声なのである。この声はナルシスが決して聞こうとしなかったエコーの声そのものだ。エコー………反響。失恋においても、恋愛の成就においても、このエコーは絶えずなり響いている。このエコーを口説き落とした者だけが真の結婚を遂げられる。世界には女も男も一人しかいない。だからこそ、わたしたちは愛の物語を共有できるのだ。………と強がりを言っておこう。

I Can Dream About You〜♪

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2005/05/20

これぞハリウッド映画の神髄

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「キングダム・オブ・ヘブン」という映画を観て来た。別に観たかった作品ではない。うちの奥さんがイスラム好きなので、何の気なしに同行しただけだったが、得てして、こういうときには面白い作品にブチ当たるものなのだろう。この作品、びっくりした、とまではいかないまでも、なかなかいい映画だった。
 作品自体は十字軍とサラセン軍の戦いを中心に展開する歴史スペクタクルものなのだが、何よりも、グラディエーターで再びハリウッドに歴史絵巻ものブームを作ったR・スコット監督の映像手腕が見事だった。主人公の心理描写や、作品の主題の表現には難があったが、この作品は純粋にスペクタクル作品として楽しむべきだ。やはり、R・スコットはこの手のものを撮らせたら今はピカ一な監督だろう。ヴォルフガング・ペーターゼンの「トロイ」やオリバー・ストーンの「アレクサンダー」よりも数段、素晴らしい出来映えだった。こういう巨費を投じたハリウッド大作の逸品は是が非でも映画館で観るべきだろう。特に後半のサラディン率いるサラセン軍が聖都エルサレム奪回に向けて攻撃を仕掛けるシーンは超圧巻。今までに観たどの歴史スペクタクルものよりも迫力があったように思う。

 物語の筋を説明すると長くなるので控えるが、とにかく、この映画を観る前に十字軍の歴史について少し調べておくのが賢明。映画の舞台は第2回十字軍と第3回十字軍のちょうど間の時期が設定されている。あと、イスラムの英雄サラディンについても少しチェックしておくといいかもしれない。個人的には主人公のバリアン(十字軍の勇敢な騎士ゴッドフリーの息子)よりも、サラディンの方がはるかに存在感があった。あとライ病に冒されたエルサレム王の役をエドワード・ノートンが演じているのだが、映画を見終わってgoogleで検索をかけるまでそれに気づかなかった。ノートン恐るべし。

 ヌース的なネタはあまりないが、台詞のやり取りで二ケ所ばかり印象に残る部分があったので少し触れておこう。一つはこの映画の主人公であるバリアンがサラディンに問うシーンだ。「あなたにとってエルサレムとは何か。」サラディンは答える。「それは無だ。」さらに、少し間を置いてから付け加える。「そして、すべてだ。」と。このシーンのサラディンが無茶苦茶カッコいい。「無でありすべてだ。」と一気に言わないところがニクイのだ。もう一つは、同じくバリアンと恋に落ちるエルサレム王の娘シビラがバリアンをベッドに誘うときの言葉がなかなかだった。「東洋では光は人と人の間を遮るものと言われているのよ。」そう言って、ろうそくを吹き消し、バリアンに腕を回す。西洋では光は神だが、東洋では光はむしろその逆の性格を持っている、ということだろう。光を対象として見ているうちは、西洋の神しかいない。光が見ることそのものになったとき仏が現れる。そこから合体が始まるってか。まっ、そういうことかな。

最後に余談だが、バリアン(オーランド・ブルーム)に弓を一切引かせなかったのは正解だった。指輪物語の第四部ではない。

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2005/04/23

コンスタンティン

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 キアヌ・リーブス主演の映画「コンスタンティン」を観てきた。予想していたよりもかなりいい出来だった。キアヌの演技も力が抜けててよかったし、SFXの控えめな使い方も好感が持てた。何といっても一番気に言ったのは、登場してくる天使や悪魔の描き方である。C・ウォーケン主演の「ゴッドアーミー」を彷彿とさせるスタイリッシュな天使像、悪魔像はなかなかのものだ。中でも、ティルダ・スウィントンが演じた大天使ガブリエルが実にいい。彼女の快演が普通であればB級幻魔大戦モノで終わりがちな作品の質を1ランク上げていたと言っても過言ではないだろう。彼女に免じて★★★★を上げよう

 さて、この映画、スタイルだけではなくストーリー展開にも一捻り、二捻りぐらい入れてる。だから、単なるエクソシストもののように聖霊万歳、悪魔退散という簡単な構図では話が進まない。普通、ガブリエルは処女懐胎をマリアに告げにくる受胎告知の大天使として有名だが、この作品の中では、ガブリエルはルシフェルの息子マモンと密約を結び、人間界にマモンを引き入れようとする黒幕として描かれている。速い話、善VS悪という単純なイデオロギー対立の世界観はこの映画ははなから持っていないということだ。このマモンを人間界に生誕させるために必要とされるものが、映画の冒頭で登場してくるロンギヌスの槍である。ロンギヌスの槍とは、ゴルゴダでイエスが処刑されるときにその脇腹を突いた槍のことだ。この聖槍の存在はアーサー王の聖杯と並んで、ヨーロッパの代表的な秘宝伝説となっている。かのヒットラーも血眼になって、この槍を探し求めたのは有名な話だ。まぁ、もっとも、ヌース的に見れば、これらの秘宝は単なる象徴、仮儀にすぎない。神秘学的な解釈を普通にたどれば、これら聖槍と聖杯の結合によって対立物の一致が起こり、賢者の石ヘルマフロディートスが生成されるというストーリーになるのだろうが、重要なことは、それらのシンボルが何を意味するかということである。参考までに、聖槍と聖杯をヌース理論的に解釈すると次のようになる。

・ロンギヌスの槍………男性原理………反定質の力………ロゴス
・聖杯………女性原理………反性質の力………コーラ

ヌース的に言えば、聖槍と聖杯の結合は、ロゴスのコーラへの流れ込み、もしくは、コーラによるロゴスの吸引のイメージとなる。これは宇宙的受胎の意味であり、すなわちいつもわたしが騒いでいる「ヌースの発振」のことだ。このヌースの発振はロンギヌスの槍が聖杯に突き刺さったときに起こるが(エヴァンゲリオンでは月に刺さる槍として描かれていた)、このときこの槍を杯に刺す役割をするのがガブリエルだと考えると面白い。当然、この行為には影があり、それは反ヌース的なものをこの地上に出現させる。。。

映画の話に戻ろう。ガブリエルがマリアの胎(このマリアが実は双子だったことも面白かった)に聖槍を突き刺そうとしたとき、コンスタンティンによって召還されたルシフェルがそれを阻止する。ルシフェルとはマモンのオヤジである。古き魔王ルシフェルはそれなりに古い掟を守り、人間界に勢力を延ばそうとしたバカ息子のマモンを地獄に連れ戻していく。結局、ガブリエルの悪企みは失敗し、ガブリエルは翼をもぎ取られ人間に失脚する。。。

 さて、この原作者、よほどの愛煙家なのか、それとも嫌煙家なのか。喫煙がいかに体に悪いかということを、随所でメッセージしてくる。ルシファーでさえ召還できる能力者がタバコの吸い過ぎで肺ガンにやられて死ぬという設定は、なかなか風刺の効いたギャグには違いないが、宗教と科学が完全に引き裂かれ、それらの関係を再構成させることに全く興味を喪失してしまったアメリカニズムの今を感じさせた。。

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