7、差異と反復

ヌーソロジーにおける差異と反復という概念について書いてます。

2007/02/03

差異と反復………14

この連載で挙げた人間の外面と内面の概念はヌースがいう次元観察子ψ3とψ4のみだったが、ここから始まる差異と反復のプロセスは、ヌース理論をよくお知りの人にはもうすでにおなじみのように、とりあえずは次元観察子ψ13〜14という7段階の構成を持って(実際にはさらに巨大な観察子も存在する)、ケイブコンパスというツールでもって下図のような形で示される(図はψ9〜10まで)。現在、執筆中の新著では、このケイブコンパスのシステムが作り出す無意識構造の風景を、プラトン座標という立体地図を用いて、物理学のみならず、歴史や芸術、さらには精神分析、哲学、現代思想、宗教、神話、神秘学等を縦横無尽に横断しながら徹底的に探査する内容となっているので楽しみに待っていて欲しい。。。ということで、結びに入ろう。

「差異の必然的帰結とは、個体化は、権利上、異化=分化に先立つものだと言うこと、あらゆる異化=分化は、先行的な個体化の強度的な場を前提としていることである。」ドゥルーズ「差異と反復」(p.367-370.)

  ドゥルーズが執拗に繰り返す〈異化=分化〉と〈差異化=微分化〉という互いに対峙する理念の二成分は、ヌース理論におけるこの〈人間の内面〉と〈人間の外面〉のトポロジックな位相関係にきっちりと対応している。内面は分断的、断片的なパラノイアの王国であり、外面は無境界で、連続的な離接作用を持ったスキゾフレニアックな草原地帯である。トポロジーの用語でいえば、これらは非コンパクト化とコンパクト化に対応させることができるのかもしれない。∞が無限大として開いているか、それとも無限小と等化されて閉じて連続化しているか。直線的か、円環的か。角張っているか、丸みがあるか。鋭角的か、曲線的か。束縛的か、開放的か——等々。

 ヌース理論では人間はその本性自体が性的倒錯者であると絶えず説いてきた。〈わたし〉と〈あなた〉も、〈過去〉と〈未来〉も、〈原因〉と〈結果〉も、ひょっとして〈男〉と〈女〉も。。。みんな本来あるべき姿とは逆さまになっている、そう語ってきた。それらは、ここでのドゥルーズの言い回しを借りれば、「あらゆる異化=分化は、先行的な個体化の強度的な場を前提としている」という内容とほぼ同じ意味を持つ。つまり、「先行的な個体化の強度的な場」とは魂の生産が行われている場であり、ここは物質がこの世界に登場する以前に、物質よりよりリアルな何者かとして作用していた場だった、もしくは、場となるところではないかと考えられるからである。この場は少なくとも通常の因果律的な反復(あれが原因でこうなった。こうなったのはあれが起ったからだ——等)が起っている場所ではない。物質に先行した精神が活動してていた場所であり、精神によって物質は創造されてきたのだ。しかし、このことは、必ずしもヌース理論が従来のプラトニズム的な議論、すなわち観念論VS実在論、観念論VS唯名論のような水かけ論を、再度、持ち出すことを意図しているわけではない。ドゥルーズにしてももちろんそうだろう。単純な言い方になるが、ドゥルーズは、それらの関係の差異、つまり観念的なものと実在的なものの差異を明確にすることによって、この両者がバロック的な襞形成の運動のもとにダイナミックな生成活動を行っている様子を彼独自の概念創造の中に構成しようと試みているのである。だから、ドゥルーズにおいて語られるべきは〈悟性=内面〉でも〈感性=外面〉でもなく、またカントの構想力、綜合力といった曖昧な概念のことでもない。〈悟性-感性〉を相互につねに交通させていくシステム、また、それら互いの差異と反復を司るより奥裏のより実存的な機構、実体のダイナミズム、力動的な生産を生産していく〈流れ〉としてのマシニズムの世界を人間の思考に出現させようとしているのだ。そして、そこにある機構こそがドゥルーズのいう《理念=イデア》のイメージなのである。そんでもって、おまけに、ドゥルーズは「君自身がそれなのだ!!だから、それになれ!!」とはっぱをかける。わぁお、そんな御無体な。。。その精緻な思考、イマジネーションにはほとんど圧倒されてしまいそうになるが、その骨格的ビジョンはヌース理論と極めて似ているのだ。

 ドゥルーズのいう「強度的な場」とは、わたしたちが実際に対象と触れ合うことのできる、もしくは、対象として生成して生きる現場そのもののことだ。そのような現場は、現にここに生きている〈わたし〉そのものと区別することができない「生」そのものの風景であると言ってもいい。主人公がいて、舞台があって、物語が進行していくのではない。物語こそが主人公であるような物語。赤い花がそこにあるから花が赤いのではなく、赤があって、赤い色が花という形態を通して自らの姿を露にしている…そして、それはとりもなおさず、わたし自身が赤そのものに変身しているからである、といったポイエーシスの思考。。。某詩人風に言えば、「持つ(所有すること)」ではなく「なる(生成すること)」の思考。「わたし」が「御飯を食べる」のではなく、「御飯を食べる」が「わたし」している——使い古された言い回したが、強度の風景、人間の外面の風景とはそういうものである。

 現代科学は時空という場が人間の発生以前に誕生したものと考えてきた。僕らはそろそろそれを過去の神話として葬り去る必要がある。客観的な時空は、ヌース的に言えば人間の内面にあるψ8に相当する領域だが、これはあくまでもψ7(人間の総体の精神)の反映として出現してくる場所にすぎない。ψ7があってそれゆえψ8があるのであり、決してその逆ではないのだ。常々言ってるように、はじめにψ7=人間精神ありき、なのである。ψ2→ψ4→ψ6→ψ8という偶数系観察子の連結で表される人間の内面の指標は、ドゥルーズの言葉で言えば、〈異化=分化〉のプロセスにおける最も基盤となる階層性を意味すると考えていいだろう。客観としての一つのモノの見え姿-ψ2。客観としての一つのモノ全体-ψ4。客観としての無数のモノ全体、もしくは一人の観測者(物質的身体)-ψ6。客観としての無数の観測者(物質的身体)-ψ8云々…というように。それら各々の領域における存在者の配位、配置関係によって、空間的、時間的な測度、尺度が成立し、諸々の存在者は人間の内面空間なりの力のピュイサンス〈累乗〉とセリー(系列)を組織し、物質的な差異なき差異の場を構成しているのだ。それらは月並みな言い方をすれば、魂の射影としてバラバラに散乱させられた虚像の世界でもある。ここに生まれている内面なりの力のピュイサンス〈累乗〉とセリー(系列)は、〈異化=分化〉を行うための縦軸と横軸となり得るものだ。種々の存在者の分別や分類、系統の整理などは、この二つの軸を交互に交差させることによって、理性(言語)の名の下に厳粛に行われる。もちろん、その作業に外面認識が直接参加することはない。外面は遅れてきてやってきた分裂症者として抑圧され、秘密の小部屋に監禁される。男子は体育館へ。女子はそのまま教室に残れ。気をつけ。前に習え。左向け左。回れ右。ぜんたーい、進め!というわけである。モノを統制する物理法則、人を支配する法律。軍隊を統制する規律。そして、それらの諸々の法を遵守するように命じる内在に深く入り込んだ絶対者の目。それが僕らが崇めてきた神だ。そんな司令長官のような神を君は信用するのか?

 さぁ、魂のレジスタンスを開始しよう。旧い神にはそろそろ退散してもらうのだ。永遠回帰の車輪は今、このとき、この瞬間も回り続けている。それに乗るか乗らないか、その選択はもちろん君の自由だが、君が真に自由を望むならこの話に乗らない手はない。反復不可能なものなど新しくやってくる民衆の辞書には存在しないということを全世界に見せつけてやろうじゃないか。宇宙の創造は今から始まるのだ。

 若干、力み過ぎだけど、おしまい。

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2007/02/02

差異と反復………13

●運動量の量子化
px → -i(h/2π)・∂/∂x
py → -i(h/2π)・∂/∂y
pz → -i(h/2π)・∂/∂z

 量子の世界は「差異と反復9」で挙げた回転運動であるe^iθをベースとする波動関数ψ(r,t)(r=x,y,z t=時間)で表される。粒子の運動量p(の確率)を知るためには、上に示したように波動関数ψを位置座標(x,y,z)で微分して、-i(h/2π)を掛けることで取り出せる。古典力学では単なる物理量としての運動量(質量×速度)であったものがが、どうして、量子力学ではこのような演算子へと置き変わってしまうのか、今のところそのことについては誰も明確に答えることはできていない。ただそうすれば量子世界の実験結果とうまく符合するからそのようにしている、という程度のものだ。しかし、空間認識を単純な3次元認識から、自他の差異を考慮したキアスム認識へと変えると、この量子化という操作が単なる数学的技法ではなく、厳然と存在する現実的な空間構造に基づいて要請されてきたものではないのかという推察が生まれてくる。つまり、古典力学の範囲では観測対象は単に人間の内面認識で構成されたものだったのだが、量子力学では物質の本質をミクロの極限にまで遡ったことによって、ついに人間の外面と内面が絡み合う観測者(主体)の実存の場である4次元空間(4次元時空のことではない)の構造にぶち当たってしまったのではないか、ということである。

 一方、位置演算子の方を見てみよう。運動量演算子が微分で表されるのに対して、粒子がどのへんにいるかという確率を知るための位置演算子はそのまま、

●位置の量子化
 x → x
 y → y
 z → z

というかたちで横滑りに置換される。これは当たり前と言えば当たり前の話かもしれない。物理学が対象の「位置」と呼んでいるものとは内面認識そのものを支えている概念だから、ここにi軸がダイレクトに関わることはないし、またi軸が関わらなければ微分も起こらないだろう。こうした見方で、光子(複素平面上の単振動)とは一体何かと考えると、当然それは、自他間が持っているψ3-4、ψ*3-4という3次元空間自体に潜在しているキアスム構造の中を反復している意識(空間をイメージし象るための想像力)なのではないかということになってくる。

 以上のような考え方を持って、複素平面をもう一度見つめてみよう。すると、量子力学における運動量の量子化とはψ4-ψ*4(複素平面上の実軸)という人間が持った3次元空間の概念を90度回転(微分)させて、ψ3-ψ*3という外面に接続させるための、まさに差異化の物理学的表現のように思えてくる。このことはe^iθ上において実空間側は微分されると虚空間側に反転する、ということの意味でもあるのだろう。言葉ではとても難しく聞こえてしまうが、これはとても単純なことを言っていると考えていい。すなわち、空間認識の視線を左右方向(客観的視座)から、奥行き(主観的視座)に向けてみろ、ということだ。前に説明したように、空間認識の視線が奥行き方向に向くことによって、そこには射影空間が持つ「内と外の捩じれ」の性質が顕在化する。内部と外部の関係が自他で相互に反転しているとするならば、その捻れは、自他間でイマージュや言葉を行き交わさせている交通空間のカタチの在り方と言えないこともない。そこで、君と僕はつながっているよ、というわけだ。

 ψ4-ψ*4軸(実空間)からψ3-ψ*3軸(虚空間)への反転。この反転によって僕らか宇宙と呼んでいる外延空間の広がりは、そのままプランクスケール大の点的な球空間の中に直結する。つまり、主体が定位している純粋知覚の場においては4次元という方向が直立し、そこから見ると宇宙半径とプランクスケールの世界は同じものに見えてしまうということなのだ。前回、ψ3とψ*3とはそれぞれマイナスとプラスの点電荷のことだと何の断りもなしに言ったが、どうして、ψ3が点状の対象として見えるのか、今回の内容で少しは理解していただくことができたかもしれない。実際、場の量子論の中では運動量の確率密度は電荷密度と同じものと見なされているようだ。

 ψ3から見て無限大と無限小が同じものに見えるならば、ψ3にとってはψ4もまた、微小領域の振動として把握されているに違いない。なぜなら、ψ4-ψ*4軸がψ3-ψ*3軸へと反転した時点で、今度はψ3-ψ*3軸がψ4-ψ*4軸へと反転していることが予想されるからだ。その意味で、自他間における主客認識のキアスムが、差異を知らない人間の内面認識にとって光子という粒に見えたとしても何の不思議もない。ちなみにOCOTたちが語り伝えてきている幾何学はこの複素数平面に始まる複素n次元空間の幾何学の可能性が高い。それはドゥルーズが常々語っていたイデア=高次元多様体の世界のことでもある。

90度とは何ですか?

反転する力のことです。

正方形とは何ですか?
 
位置を変えていくための方向性の相殺です。

方向性の相殺のためには何回の反転が必要なのですか?

3回です。位置の交換、位置の等化、位置の変換。
(シリウスファイル)

 こうして、僕らは次のステージにおける差異、つまり、ψ3とψ4の差異であるψ5とは何なのかを考える必要が出てくる。なぜなら、ψ3-4を反復させている力の正体はそれらを等化した精神にあるだからだ。

お〜い、早くやめろぉ〜っ。って声が聞こえてこないでもないので、次で締めますかね。

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2007/02/01

差異と反復………12

 何がそんなに重大なのか——モノを中心にして「わたし」が回転したときに見えているモノの背景正面(天球面の内壁)が現存在としての人間(主体)の位置の萌芽であるといったことを思い出してほしい。それが今、モノの中心点と同一視されてしまっている。このことをどういう風に考えればいいのか。。すぐに実感するのは難しいかもしれないが、それは、主体(モノを見ている「ほんとうのわたし」)の本当の位置は、実はモノの中にあるということを意味している、ということだ。人間の外面においては、モノの内部と外部という区別は全く意味を持っていない。それは、ψ3の位置としてのモノの背景面が、このようにモノの内部と外部を等化(同一視)しているからである。つまり、差異の場は、3次元認識的に言えば、微小領域に縮められて見えてしまっているということなのだ。

 3次元空間上の無限小と無限大が180度捻られて、その結果、無限小=無限大、無限大=無限小という、今までの空間認識上あり得ないと思われていた奇跡的な連結が認識に浮上する。当然のことながら、この反転認識によって、今度は全宇宙が点状の小さいな球体の中に叩き込まれているという事態が起こる。この事態を目撃したとき、君は生きながらにして死ぬ者となっていると言っていいのかもしれない。もっと大げさに言えば、死してなおも生きることのできる「無礙」(むげ)なる空間へ出たのだとも言えるのかもしれない。空海がいうところの「一即多」「相移即入」なる重々帝網の世界(華厳的パールネットワーク)がそこに現れるというわけだ。部分が全体を映し出し、また、全体が部分の中に収まるあのライプニッツが語ったモナドのランドスケープが、理性の中に朧げながらも出現してくるわけである。

 こうした認識は4次元認識の萌芽と言ってよいものだ。モノの中と外を自由に行き来できる4次元人間の話を君も聞いたことがあるだろう。君はこの時点ですでに4次元の扉を開いている。人間の内面認識では君はモノの外にいると感じているはずだが、人間の外面が顕在化を起こしてくると、君(主体)はモノの中にいるとも言えるようになるのだ。内面認識では宇宙は広大無辺なものに感じられているだろうが、外面認識では逆に宇宙空間はモノの内部に存在しているように見えてくる。当然のことながら、このような空間認識が生まれてくると、見るものと見られるものなどといった今まで僕らが持っていた頑な主客二元論的な区別は消失する。見るものとは見られるもののことであり(クリシュナムルティ)、僕らはモノの内部からモノの外部を見ている(ベルクソン)のである。

 そして、このことの発見はいよいよ物質が思考を孕む、あの宇宙的妊娠の意味を持ってくることになる。つまり、思考(ロゴス/精子)が初めて物質表象の内部の空隙(コーラ/卵子)に接触してくるということだ。存在の円環におけるオメガとアルファの結節という言い回しで、僕がいつも話しているものとは、実はこの観察(主体)における無限大と無限小の連結のことなのである。

 モノの背面にある奥行き方向が作る3次元の広がりと思っていたものが点的な球体に縮むということは数学的に言えば、(x, y, z)が(dx, dy, dz)に変換されるということでもある。これは微分の意味に他ならない。ここでドゥルーズの〈差異化=微分化〉という言葉が浮かんでくる人もいるかもしれない。ドゥルーズは内在面としての主体の場を強度の場(知覚が受ける強さの場の意味)と考え、そこが微分化された領域であると考えていた。その著「差異と反復」の理念の章の中でドゥルーズはさらりと言ってのける——微分dxとは理念(イデア)である——と。ドゥルーズの微分概念の借用はその手の専門家から厳しい批判を受けてはいるが、微分が内在面への接触であるというドゥルーズの主張にヌース理論は全面的に賛同したい。ちょっと偉そうだが、ただしそこには条件が欲しい。その条件とは今までの話の経緯からも分かるように、「- i」をくっつければ、という条件である。内在面が強度の場である限り、そこには実の3次元空間ではなく反転した空間としての虚空間、それもマイナスの虚空間が同席していなくてはならない。これを記号で表せば(-idx. -idy, -idz)ということになるだろう。この表記はそのままψ3の位置を抉り出すための数学的表現になっていることが分かるはずだ。ここにプランク定数を2πで割ったものh(-)を掛けて、微分記号を偏微分記号に変えてやれば鬼に金棒となる。というのも、これは量子力学においては運動量の量子化の手続きそのものを意味することになるからだ。つづく。

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2007/01/27

差異と反復………11

 前回説明した磁場と電場のイメージは本質部分を分かり易く簡略化したものだ。電場も磁場も時間とともに変動しているわけであるから、正確には、4次元時空との関係等も持ち込んで説明しなければ納得のいく説明とはならないだろう。そのためにはマクスウェル方程式や電磁場の量子化のプロセスなど物理学的な詳細との照合が必要となるが、このへんは僕の物理数学的理解が浅いためまだはっきりとウラは取れていない。より具体的な検討は以前、ヌース会議室の方でφさんのアドバイスなども受けながら行ったことがあるので、詳しい議論に興味のある方はそちらを参照してほしい。

※ヌース会議室/【4171】マクスウェル方程式と星型八面体→ http://noos.ne.jp/forum3/c-board.cgi?cmd=one;no=4171;id=noos

ヌース的に最も重要な問題となるのは、この複素平面上の振動として表される電磁場が見方によってはどうして光子という粒に見えてしまうのか、というその理由である。ヌース理論は科学理論ではない。精神=物質、物質=精神という世界観のもと、物質と精神の間の差異と反復を見出すための理論であり、またその思考的実践でもある。だから、精神構造の中に見出されて行く種々の差異の在り方がそのまま物質世界の反復性として見えてくる必要がある(電子のスピンであったり、イオン交換であったり、DNAの転写であったり、黒点周期であったり、昼と夜の繰り返しであったり、寝-起きであったり、セックスのピストン運動に至るまで)。またそれが「観察子」という概念が意味するところのものでもある。観察子概念はいずれかのヘルメスの箴言「上にあるが如く下にかくあり」というかたちで、高次元多様体と物質世界の二而不二の関係を無数発見して行くことになると思う。そのためには、高次元のカタチを単なる抽象概念として思考してもあまり意味がない。そもそも概念(conception)とはconceiveする(孕む)ことの意から来ているものだ。conceiveというからには、それは女性的なものでなければならない。つまり、知覚的、感覚的、身体的である、という意味だ。その意味でも、思考が物質を孕むためには、物質の第一起源とも言えるこの光子のカタチを僕らの感覚の中で思い描くことのできる想像力が絶対不可欠となる。光子が持った波動性と粒子性というこのアンビバレントな表象を僕らの実際の感覚に即したイメージで矛盾なく結びつけることが果たして可能なのか。そのイメージ作りに関して、ここで少し触れてみたい。

 まずは知覚の話に戻ろう。知覚正面が射影空間であるということは、僕らが実際に触れているリアルには3次元的なマクロもミクロも存在しない、ということを意味している。それは空間知覚の発達途上にあるとされる幼児期の子供たちがモノの大きさや距離というものをうまく理解できないことからも言えることだ。マクロとミクロという尺度概念によって象られた空間認識はあくまでも人間の内面の意識の形成によって培われてくる概念の産物であり、発達心理学的に言えば、人間の内面の意識は外面意識の発達の後に出現してくるものなのである。これは数学的に言えば、射影空間の方がユークリッド空間よりも本源的な空間であるということと全く同じ意味を持っている。つまり、最初に射影空間ありき、なのである。射影空間がなければユークリッド空間も生まれてはこない。そして、この射影空間が僕らが奥行きと呼ぶ方向の中に存在するものであることはすでに説明した通りだ。

 ここで、前回の話の中で奥行き方向を虚軸に対応させたことを思い出して欲しい。そして、そこで説明した「- i 軸」の見えの様子を再現してみよう。「- i 軸」の方は奥行きの中でも、目に見えているモノの中心点と背景正面の方に延びているであろうと思われる直線に対応させた。さて、この直線は実際の知覚にはどう見えているだろうか。今まで何度も言ってきたことだが、それはどうあがいても点にしか見えないのが分かる。つまり、無限遠方と無限小はそこでは同じものとなっている、ということだ。実際にそう見えるということは、それが「リアル」なものの見方であるということだ。そこで、そのリアル状態をキープしたまま注意深くモノの周囲を回ってみるといい。すると、人間の内面認識で3次元空間の無限の広がりの先に見えていた天球面もまた、すべて、モノの中心点と同一視されていることがそれとなく感覚に上がってくることだろう。つまり2次元射影空間を構成している光学中心(射影線のすべてが一点で交差するところ)と天球面は知覚においては全く一致してしまうということである。今までも何度か言ってきたことだが、このことが極めて重大な意味を持っていることに僕らは気づく必要がある。つづく。

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2007/01/25

差異と反復………10

 複素平面における実軸と虚軸が作る4方向にそれぞれ3次元球面モドキをかませたわけだが、このことの具体的な意味を説明していこう。

 まずは虚軸に自他それぞれの外面としての3次元空間をかました意味だが、理由は極めて単純なものだ。知覚が生まれている奥行き方向は「見えない(虚)」からである。これは虚軸の数学的定義とも実はぴったりと合っている。

 今、左右方向に数直線を想定してみよう。数直線全体に「-1」を掛けると、左右のプラスマイナスの符号が反転することが分かる。これは数直線を180度回転させたということに他ならない。ここで「-1」を「i×i」と考えてみよう。すると必然的に数直線にiを掛けるという操作は、90度の回転になることが分かる。「i」を二度掛ければ当然、180度となって「-1」を掛けた状態と同じになる。これらのことを目の前でイメージしてみればいいのだ。90度回転して「虚(見えない)」となるような直線は奥行き方向しかないことはすぐに分かる。知覚が介入してくる方向を虚軸の方向と考えるのがいかに心理的に自然か皆にも感じ取れるのではないだろうか(下図参照)。


Real_axis_rot


まぁ、ここではそういった理由から、「わたし」がモノの周囲を回ったときにできるモノの背景方向にある奥行きが作る3次元空間が常に「モノの背景方向」になる、という意味で一本の虚軸(- i )に代表させているわけだ。これは自己が一つの対象をその周囲全体から認識しているときの背景空間の全体の意味を持つことになる。この空間は次元観察子で言えばψ3であり、無限遠としてのψ3の位置そのものは僕らがマイナスの点電荷と呼んでいるもののことである。一方の(+ i )側の虚軸は、自己から見た他者にとってのモノの背景空間への方向となる(こちらはプラスの電荷の本質)。

 自分の意識の働きの中を探してみれば分かると思うが、僕らは他者が見ている空間を想像する能力を持っているはずだ。例えば、モノを挟んで他者と対峙し合ったとき、他者に何が見えているのかおおよそイメージできるだろう。それは、おそらく、「わたし」が見ているモノの裏側と「わたし」の顔と、「わたし」の背後の風景である。今度はその状況のまま、モノを中心に自他ともに180度の対峙関係で回ってみるといい。そのとき他者側の知覚に形作られているモノの背景としての3次元空間がψ*3の意味となる。僕らがこうした空間の有様をイメージできる(他者側の知覚が実際に見えるということではない)ということは、意識構造にはそのカタチが存在しているということでもある。早い話、わたしに見える3次元、あなたに見える3次元空間、そして、また、わたしに見える3次元空間………というように、ここでも意識が空間構造として反復しているのである。ヌース理論ではこの意識の往来を電場の+と−の間の振動の本質的意味と見なす。この反復は複素平面で言えばsin振動(縦軸振動)に当たるものである。ここでの差異は何かと言えば、それはおそらく2つの対峙する客体位置の反復ということになるのだろう。これは3次元空間そのものでもあるのだが、それについても説明しておこう。

 客体空間としての内面の反復の方の描像は簡単だと思う。単に、通常の3次元空間のイメージを作り、それが縮んできて、0点で交差し、反転して無限遠まで膨張し、また、そこで反転して、0*点にまで縮んできて………というようなイメージを作ればいい。それが3次元の振動であるということは容易に分かるはずだ。こちらの振動が実軸上の振動(cos振動)に対応している。ただ、問題は、何度も言ってるように、等化を先手に持った意識側にはこの中和側の振動は見えるが、中和側を先手に持ったものには見えない、という点である。人間の顕在意識は中和側だから見えない。ψ4においてはψ1(モノの外部)とψ2(モノの内部)の差異が見えなかったことを思い出そう。これは、モノの内部に空間が同一化させられているということでもあった。この結果、内面側では、ψ4とψ*4も同一化してしまうことになる。つまり、2つの主体からは客体空間側は同一の3次元空間に見えてしまうということだ。より正確に言うと、ψ4-ψ*4は無限小と無限大での2つの空間の連結(これによってS^3を作る)が見えず、単なるR^3としてしか見ることができないということである。このことは、僕らの認識に即して言えば、主体は自他として2つあるのに、客体は1つにしか見えない、ということを意味している。一つのパイを巡る自他における所有闘争の萌芽がすでにここで生まれているわけだ。そう言えば、OCOTはこう言ってたっけ。

 磁場とは人間です(シリウスファイル)

 このことは実は物理現象上にも明確に現れている。それは電場にプラスマイナスの電荷があるのに対し、磁場にはNやSといった磁荷(モノポール)が存在しないということだ。だから、ヌース理論は次のように予言する。

 人間の空間認識に反転認識が生まれればモノポールが発見される。もしくは、モノポールが発見されたときは、人間の空間認識に反転認識が生まれたものと解釈できる。

 ヌース的文脈で言えば、モノポールの出現は「進化への顕在化の対化」が生み出された、ということを意味するわけだ。これは、いつも言っている宇宙卵の卵割のことである。このNOOSの発振による反転の顕在化は人間が所持しているモノ概念を木っ端みじんに解体していくことになるだろう(ヌースでは「形質の崩壊」といいます)。いよいよ、脱-表象化の空間領域(モノのイメージが一切存在しない世界)へと人間の意識が上昇を開始するということだ。ヌースの頑張りも多少は関係するだろうが、いずれにしろ、それはあと10年もかからないのではないかと思っている。2013年にくればまさにビンゴ!!なのだが。。おっと、話が横道にそれている。悪いクセだ。話を電磁場の構造に戻そう。。。つづく。

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2007/01/23

差異と反復………9

Yi
 あっ、忘れてた。複素平面に話が移る前に、もう一つだけ確認しておかなくてはならないことがあった。それはモノと空間の差異によって生み出される現存在の方向は大まかに言って二つある、ということだ。これは前々回話した2次元射影空間の性質を確かめてみると直観的に分かる。射影空間自体は球面上の対蹠点を同一視することによって作られるが、それは結果的に半球面のかたちをとることになる。すると、射影の方向を球面のオモテ側から取るか反対側から取るかによって、方向性が逆の二枚の2次元射影空間が生まれるわけだ。

 これを実際の知覚の現場に即して言えば、物体の背景正面には方向性が正反対となる二種類のものが存在しているということを意味する。それらが何に対応するかはすぐに分かるだろう。そう、わたしの知覚正面とあなたの知覚正面である。普通の3次元認識では、この両者は同一の球空間(宇宙)の内壁のように見えているが、射影平面的(外面認識的)に見れば、それらは表裏の関係が互いに逆になっている。つまり、前回話した物体界面と同様に「わたし」と「あなた」に知覚されている天球面もメビウスの帯状に捻れの関係にあるということなのだ(上左図参照)。

 実際に、モノを挟んで「わたし」と「あなた」が対峙している様子を想像しながら、この表裏の捻れを確認してみよう。すると、あなたにとっての知覚正面がわたしにとっての知覚背面(「わたし」が背中側に感じている面だという意味。「わたし」の知覚正面の裏側と考えてもよい)となっていることが分かるはずだ。要するに、「わたし」にとっての外面は「あなた」の内面になっており、それとは反対に「あなた」の外面は「わたし」の内面になっている、ということである。ヌース理論では、観察子に見られるこうした捻れを持った双数的関係のことを「キアスム」と呼んでいる。「キアスム/chiasme」とはフランス語で交叉配列(修辞法の用語)、交叉などの意味があるが、ここで用いたのは、メルロ・ポンティのいう「転換(交換)可能性/Chiasme-Reversibilite」を強く意識してのことだ。

 ※ポンティのキアスムについて深く知りたい方はこちらへ→ http://www.pencil.co.jp/ronbun/mashimo/index.html

 ヌースでは前回も言ったように主体と客体の萌芽の場をψ3とψ4という次元観察子で表現するのだが、これは他者側からの認識も考慮すると、ψ3-ψ4、ψ*3-ψ*4というキアスムの関係で表現されることになる。つまり、自他が共棲していると思われるこの空間には内面の3次元空間が二つ、そして外面の3次元空間が二つ、合計4種類の3次元空間が重畳させられているということなのである。この空間は僕らが客観的3次元空間と呼んでいるものとは全く別物である。

 それら四つの空間の意味合いは後に回すとして、今、これら相互の関係性を抽象的な位相平面で表してみるとしよう。それぞれの空間は3次元なので、それらを球面状に丸めて、そのそれぞれの軸に当たる部分を四つに分岐した軸に割り当てると、直交する二本の軸で表すことができる。縦軸は外面を表し、横軸は内面を表していると思えばいい(下図参照)。

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かなり恣意的な配置ではあるが、これがヌース理論が解釈する複素平面の本質的な意味となる。つまり、複素平面とは実(内面)の3次元空間の相互反転双対と虚(外面)の3次元空間の相互反転双対の直交関係を表していると考えるのだ。この四つの空間の区別をイメージするためにはおおよそ次のような方法を取ればいい(下図参照)。

 1、まず、モノの中心を原点に置き、モノの手前側の方向(わたしの後方=他者の前方)にある無限遠方をiと見なす。
 2、その反対に、モノの背後側(わたしの前方=他者の後方)に感覚化されている無限遠方を-iと見なす。
 3、わたしから見てモノの左方向に伸びる直線の無限遠方を+1と見なす。
 4、同じく、わたしから見てモノの右方向に伸びる無限遠方を-1と見なす。

 ん?それじゃ、単なる平面にしか成らないだって。その通りだ。ここでそれぞれの軸が球空間を作るように横方向と縦方向の回転を行なってみるのだ。モノを中心に絶えずモノが見えるようにして左右方向と、上下方向にグルっと球面を作るようなイメージで回ってみればいい。上下方向は体操選手でもなければ実際には回れないが、とりあえずイメージだけしてみよう。

 普段、僕らは客観空間の中で空間の方向性を認識しているので、こうした四つの方向性の区別は回転の中で意味を失ってしまうと考える。しかし、身体側(知覚側)を中心に考えるとたとえグルグル回転を行なったとしても、それらの方向は決してそれら固有の意味を失うことはない。なぜなら、身体の前方はどう回転しようが常に前方であり、そこで形作られる球空間はあくまで前方の集合としての球空間だからである。後方もまたしかり。当然、左右にしても同じである。こうした考え方で空間を捉えれば、僕らはこの空間に潜む4つの三次元空間の区別をはっきりと認識することが可能になる。(ちなみに、ヌース理論では、単なる客観的な空間の3次元性を「核質」と呼び、身体を介して介して方向づけられた3次元性の空間を「反核質」と呼ぶ。くどいようだが、これらは全く違う空間である)。

 ふー。これでどうにか電磁場と意識の関係の話に進めそうだ。 つづく。Complex_plane_yi


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2007/01/22

差異と反復………8

 3、その抽出された概念を被造物の根源的要素とも言える光子と結びつけることはできないか。

 さて、ここからが問題の核心に入ってくることになる。ヌース理論とは一言で言えば、意識と物質の統合理論である。統合というからには、それは意識の理論ではあってはならないし、また、物質の理論であってもならない。また逆に、それは意識の理論でなければならないし、かつ、物質の理論でもなければならない。この双方の要請を満たすためには、当然、その思考対象として物質と意識を仲介するための第三の新種の概念が必要となる。それがこのブログでも時折顔を出している「観察子」というヌース理論特有の概念だ。観察子が「観察」という意識的要素と、「子」という粒子的要素を併せ持った名称になっているのもそうした動機付けがあってのことだと思ってほしい。要は、物質構造も意識構造も観察子から成り立っている——そうした考え方のもとに全く新しい宇宙生成論を作り上げたいのである。

 今までの論旨の運びを振り返ってみよう。

 まずはハイデガーが提起した存在と存在者の差異を創造者と被造物の関係と見なした。そして、その関係は被造物の世界では空間という「一」とモノという「多」の関係として現れているのではないかと仮定した。そこで、被造物世界における存在と存在者の差異は空間とモノとの差異として見なされるのではないか、という推論を立てた。そして、この空間とモノの差異を幾何学的に追いかけてみると、結果として、反転した3次元空間の存在が要求されることになった。反転した3次元空間の実質的意味は射影空間の性質を通して、知覚が成立している視野面そのものの在り方であるということが予想できてきた。知覚が立ち上がっている場所はいまだ自己が生まれる前の純粋知覚の場であり、ここは未だ剥き出しの無意識の主体の位置ではないのかという予測を立てた。哲学的議論からすれば、この場所は第一の内在面とも呼べる場所であり、ハイデガーのいう「現存在」たる人間そのものの萌芽の場所となっている。とまぁ、こんな感じになるだろうか。

 このことから、最初に見えていた空間とモノは当然、現存在たる人間が見ているものであるから、本当は、現存在=という差異が先に存在しており、その後、空間とモノという対化が反復のもとに観察に晒されている、ということになる。つまり、外面の3次元が先手で、内面の3次元は後手なのである。差異がまず存在し、その後反復がくる。なぜなら、差異という回転力がなければ反復という振動が起こり得るはずがないからだ。反復は差異の下次元的射影である。このへんの事情は「差異と反復1」に描いた図を見ていただければ一目瞭然だろう。

 君が目の前にモノと空間を認識しているとき、意識はその両者の間を反復している。そして、その反復力の大本となっているのは、それを見つめている君自身の存在なのだ。右行ってぴょん。左行ってぴょん。右行ってぴょん。左行ってぴょん。それに飽きたら上行ってぴょん。下行ってぴょん。下に見えるは、左右のぴょん。あ、ぴょん、ぴょん、ぴょん。おっとさんが呼んでも、おっかさんが呼んでも、ききっこなぁ〜しよ。井戸の周りでお茶碗かいたのだぁ〜れ?

 悪ふざけはこのくらいにして、いよいよ核心に触れなければならない。それは、今まで話してきた差異と反復の幾何学的鋳型をもとに、この構造をどのようにして光子(電磁場)と結びつけるのか、ということである。電磁場は場の量子論によれば、複素平面上の単振動として表せることが分かっている。つまり、電磁場も差異と反復の構造を持ち合わせているわけだ。では、電磁場においては一体何が差異で、何が反復しているのか——まずは、その様子を複素平面上の円運動からチェックしてみることにしよう。 つづく

(今回でこの連載は止めようと思ったけど、トーラスさんからの激励があったので、もちっと続けますたい。)

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2007/01/20

差異と反復………7

単に3次元の広がりとしてしか認識されていないこの空間には反転したもう一つの3次元空間が重畳している。一つは客体の場(人間の内面)となり、そして、もう一つは主体の場(人間の外面)となっている。これがヌース理論がこの十数年の間言い続けてきていることだ(前者が次元観察子ψ4、後者がψ3に対応する)。

 この二つの空間を可視的なイメージに置き換えることは可能だ。それには下図に示したよう正六面体のフレームワークを紙の上に描いてみるといい。この正六面体を3次元立体として見ると二種類のものがイメージできるはずだ。そして、それらは相互に反転していることが分かるだろう(ネッカーの立方体)。対象認識にはこうした2つの空間の存在が暗躍しているのだ。

 このような描像を用いて対象界面をイメージしてみると、そこには対象の内壁と外壁が同居している様子が朧げながらも浮かんでくるのではないかと思う。つまり、反転した空間を考慮に入れると、モノと空間の境界面はその内部と外部それぞれの同一性を無効にするような形で存在させられているということになる。つまり、内部=外部、外部=内部という関係を成立させているということだ。内部と外部の向き付けが不能な面。。こうしたイメージはあのおなじみのメビウスの帯が提供してくれるのを僕らは知っている。実際に、前回紹介した2次元射影空間RP^2の切り口は縁のないメビウスの帯になることが幾何学的には分かっている。

 つまるところ、僕らの対象認識においてモノの内部と外部を差異化させているのは、このメビウスの帯的な空間の捻れなのだ。これは別の言い方をすれば内部方向と外部方向を等化している力、つまりヌースでいう「最小精神」のカタチである。その等化に反映されているのが中和としての3次元空間だ。内部と外部の間に捻れがあるにもかかわらず、それが見えないと、その捻れ自体が境界のように見えてしまう。それがおそらくモノの界面の現出に潜むからくりである。トポロジカルな言い方をすれば、モノと空間の境界面とは4次元空間における2次元の結び目と言えるのかもしれない。僕らが慣れ親しんでいるのはひものような1次元図形の結び目だが、この結び目を作るには最低3次元の空間が必要になる。ひもの結び方を知っている者にとっては、結び目ができていようとそれは単なる一本のひもにすぎない。しかし、結び目が何か知らない者にとっては、それは奇妙なこぶのように見えてしまう。それと同じで、モノ概念は2次元の結び方を知らない3次元意識だけに存在するものなのだろう。

 メビウスの帯の場合、捻りとは帯の幅方向の180度回転に当たるが、3次元空間の場合、捻られたのは無限小と無限大方向相互の180度回転である。このとき、人間が3次元認識の中で「点」と呼んでいたものは、無限大の球面(平面)のようなものに置き換わる。つまり、無限小と無限大の対称性が形作られたということだ。そこが背景正面としてのψ3の位置である。当然、その捻れが見えていないものが反映としてのψ4の位置となる。ψ4はψ3が持った捻れをψ1とψ2の境界のようなものに感じ、等化という回転(捻り)の働きが裏で暗躍しているがゆえに、ψ1(無限大方向)とψ2(無限小方向)の間を反復してしまうのだ。

 こうして、等化=差異、中和=反復というヌース理論の文脈からの「差異と反復」の最も基本的な鋳型が幾何学的に構成されたことになる。ということで、次で終わろうかな。。長くなってしまった。。

Necker

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2007/01/19

差異と反復………6

とても回りくどい言い方になってしまったが、前回言いたかったことはただ一つ。モノの外部と内部の差異の幾何学的描像はS^2ではあり得ないということである。そのことは実際に知覚されているモノと空間の関係を素直に見つめれば少しづつ分かってくる。過去三冊のヌース本にも繰り返し書いてきたことだが、知覚されている世界は3次元空間ではなく射影面であるということを忘れてはならない。射影面(2次元射影空間)とは下図に示したように、球面S^2上のすべての対蹠点(たいせきてん)が同一視されるような空間のことである。点Pnは光学中心となる点Oを境に反転して点Pn*と同一視される。これらの射影線の集合をひとまとめに見れば、2次元射影空間の構造には相互に反転した二つの3次元空間が存在しているということが分かる。

 このことは、目の前にモノがあるとき、そのモノの見え姿としての表面(これを物体正面と呼ぶことにしよう)と、モノを図として支えている背景としての面(これを背景正面と呼ぶことにしよう)は、実は同一の面の反転した現れだということを意味している。この反転の様子を実際の感覚に上げてくるのは簡単だ。目の前の球体がどんどん縮んで行く様子を想像するといい。そして、その球体がついには0点まで縮んで、そこでオモテとウラが反転し、今度はどんどん膨張していくさまを思い描けばいいのだ。すると、背景正面に当たる面が、もともと物体正面と呼んでいた面と同じ側の面となっていることがすぐに見て取れるだろう。つまり、知覚空間上におけるモノの内部と外部の差異とは、射影空間の構造を通して見れば、相互に反転関係にある3次元空間同士の差異となっているということなのだ。この3次元空間の相互反転関係の認識はヌースの世界へと入っていくためには極めて重要なものである(「人神」ではタキオン空間として説明したものだ)。

 前回書いた、モノの内部がただ単に膨張していく空間のイメージを思い出してみるといい。その描像では、モノの背景正面はそのままモノの内壁と同じ面にしか対応してこないことが分かるだろう。つまり、モノの内部がモノの外部を呑み込んでしまっている同一化の状態とは3次元認識そのもののことを言っているわけだ。しかし、知覚野の空間を射影空間として見ると(というより、事実、射影空間としてしか見れないのだが)、背景正面はモノの外壁と同じ面であり、モノの外部としての空間は反転しているのである。そして、この反転した空間の内壁において僕らは図としてのモノを受け取けとり、知覚世界自体のランディングを可能にさせていると言っていい。しつこいようだが大事なところなので、もう一度、別の言い方で、モノと空間の間にある幾何学的イメージを明記しておこう。

 モノを象っている外壁面とモノを取り囲んでいる空間の内壁面は同一の面が反転したものである。

 今、おそらくみんなの頭の中でじわじわと浮上してきているであろう場所のことをヌースでは「人間の外面」といい、そこで働いている意識のことを人間の外面の意識という。一方、背景正面をそのままモノの内壁が膨張したものと見なし、両者を同じ面として見ている認識を人間の内面の意識という。こちらはおなじみの3次元の空間認識である。たぶん、みんなは今までこのような仕方で空間を二つに区別したことはあまりないはずだ。というのも、通常、僕らは人間の外面領域に全く気づいていないからである。その意味でヌースがいう人間の外面の意識とは無意識の場と呼ぶことができる。しかし、それが意識化されたからには、それはもう無意識の場ではないとも言える。これからは、そこは、ほんとうの君がいるほんとうの場所として感じ取られてくることになるだろう——。

 さて、これでようやく、モノの内部と外部の差異を云々する準備が揃った。まだつづくよ。

2dprojection_1

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2007/01/18

差異と反復………5

 というところで、純粋な幾何学的概念としてモノと空間の境界を見つめてみることにしよう。

2、1で見出された差異を幾何学的な概念として抽出することはできないか。

話を分かり易くするために、とりあえずモノ概念を球体に還元させてイメージすれば、空間とモノの境界は常識的には3次元空間に埋め込まれた2次元の球面としてイメージすることができる。このとき球面の外部側とされるところが空間とされる場所であり、内部側がモノだ。内部側は文字通り球面によって内包された領域であり、外部は同じく文字通り外延空間として現れている。そして、この境界となる球面S^2が目下のところ差異として想定されたイメージである。問題はこの差異がどこからもたらされてくるのか、ということだ。というのも、そこに現れの世界としての第一の差異の本性があると思われるからだ。

 さて、ここでまず問題としたいのは、境界面は本当に3次元空間R^3内に埋め込まれた2次元の球面S^2なのか、ということである。単なる球面という概念でほんとうにモノの内部と外部の差異が成り立つのだろうか。例えば、次のような状況を考えてみよう。君がガス会社の社長だったとしよう。君は技術部から新しく完成したガスタンクの完成記念式典に招待される。技術者たちは君を稼働前のガスタンク内部に案内し、その概要について説明を行う。「このタンクは直径100メートルあって、球体型のタンクとしては世界一の大きさを誇ります。」君はそのガスタンクの内壁を見上げ「ほう、すごいねぇ〜」と驚嘆の声を上げる。そのとき事務員の女の子が「記念品です」と言って、純金でできた直径10cmほどのガスタンクのミニチュアモデルを持ってくる。「ほほう、外側のデザインもいいんだねぇ〜。」と君は満足げに微笑む。ミニチュアを見るときは君はもちろんモノの外部にいて、モノと空間の差異が見えている。しかし、実物のガスタンクを見るときは君はその内部にいて、ガスタンクと空間の差異は見えない。そして、そこがガスタンクの内部であるという認識は君がガスタンクの外部を知っているから言えることだ。。ということは、どんなに巨大な空間であれ、君がその外部に出ることができるならばそこはモノの内部と呼べる領域になる。巨大な直径の球空間をイメージしていけば、地球だってモノの内部に入れることが可能だ。いや、太陽系だって、銀河系だって、モノ概念としての球空間の中に放り込むことができるわけだ。そうやってそれを内部と見ている君の外部の視座はどんどん後退し、やがてすべての内部は宇宙と呼ばれる半径137億年の巨大な球体の内部に収まってしまったとさ。めでたし、めでたし。。。。ん?しかし、そのときの外部ってどこだ。

 何をいわんとしているかお分かりだろうか。つまるところ、僕らはモノの外部を空間として認識してはいるものの、そこに対応させている概念は、結局のところ、モノの内部としての空間でしかないのではないかということだ。しかし、現実として知覚空間上にはモノの内部と外部という差異が存在している。このことを一体どのように考えればいいのか。

 要は単なる大きさの差異のみで空間を概念化しているのがまずいのだ。というのも、距離や面積や体積などを支えている尺度概念にはモノと空間の差異が存在していないからだ。何度も言っていることだが、尺度概念というものはもともとモノの内部表象から派生してきている。だから、尺度によって空間の大きさをイメージすると、必然的に空間の広がりに対する認識は、モノの内部にあると目される3次元的なかさばりの表象と同じものになってしまう。尺度概念への依存は、結局、モノの内部がモノの外部を寝食して、モノの内部に同一化させている思考状況と言えるのだ。

 僕らが一般的に所持している3次元の空間認識は、実のところ未だモノの中でしかなく、そこに外部は存在していない。モノの外部が存在しないということは光が存在しないということでもある。そして、光が存在していないということは3次元的な思考は知覚に何一つ接していないということでもある。当然、そのような認識には差異がない。こうした差異なき意識状態をヌースでは「有機体」と呼ぶ。有機体は「位置」を持たない。「位置」とは哲学的に言えば実存のようなものだ。

 では、逆に「位置を持つ」ということはどういうことなのだろうか。そのあらましを次に紹介しよう。僕らは「位置」を持つことによって初めてモノと空間の差異を云々できるようになるのだ。——つづく

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