4、日記風エッセイ

日常感じたことの雑記です。

2009/11/10

お詫び——

今週土曜日に開催予定のNOOS LECTURE 2009 IN 福岡 第4回の告知をすっかり忘れていました。
このブログを通じてレクチャー情報を心待ちにしていた方には大変、申し訳ないことをしたと反省してます。

通常、レクチャー案内は以下の4通りの方法で発信しています。

1、レクチャーに参加していただいた方へのメールと郵送による案内
2、ヌースアカデメイア・ブログでの案内
3、ヌーソロジー・ロッジでの案内
4、本ブログcave syndromeでの案内

今回は異例中の異例とでも言うのか、過去の参加者宛のメールと郵送による案内だけで、定員のほとんどが埋まってしまいました。
それで、すっかり安心してしまったのか、僕自身、上に挙げた3番と4番の手続きを完全に失念してしまっていました。

すでに定員の20名は埋まってしまっているので、今更、告知しても意味がないのですが、今後、このような失態を繰り返さないよう自分への戒めも兼ねて、敢えて第4回レクチャーの開催要項をUPしておこうと思います。

 尚、ヌースアカデメイアのイベント並びに活動状況の正式な情報は「ヌースアカデメイア・ブログ」にて行っています。こちらのブログは基本的に1週間に1回、更新を行っていますので、ヌーソロジーの動向にご興味がある方は、こちらのブログのチェックもおすすめします。あと、Ricardoさんが管理されているヌーソロジー・ロッジの方とも連携を取りながら、今後、スムースな情報告知ができるような体制を取って行きたいと思っていますので、何とぞ宜しくお願いします。今回は本当に申し訳ありませんでした。

●NOOS LECTURE 2009 IN 福岡 第4回

 こんにちは、半田です。第3回目まででようやくヌーソロジーが展開する次元観察子という概念の地図の紹介が終わりました。今回からはいよいよ次元観察子の世界そのものの中へ皆さんをご招待したいと思います。次元観察子とは空間の中に潜んでいるわたしたち自身の魂の構造体と呼んでいいものです。この構造体が意識にありありと浮上してくることによって、今までわたしたちが常識として持っていた世界や「わたし」の意味合いは大きく変貌を遂げて行くことになります。次元観察子の顕在化は意識に極めてドラスティックな興奮を与えていくことになるでしょう。お楽しみに。

第4回テーマ 人間の内面と外面
人間の空間認識は世界を3次元と見るのが癖になっています。次元観察子の中に入っていくためにはまずはこの3次元世界の二つの極限である無限大と無限小の壁を越えなくてはなりません。ここに生まれてくるのが4次元空間の認識です。人間は世界と観測者としての「わたし」の関係を客体と主体に分けて見る習性を持っていますが、この主客分離をさせているのが人間の内面と外面という4次元における二つの方向性なのです。今回はヌーソロジーの重要なキータームである「反転」という概念を使いながら、この人間の内面と外面という概念について詳しく解説を行っていきたいと思っています。(『2013: 人類が神を見る日/アドバンスト・エディション』をテキスト代わりに使用すると思いますので、お持ちの方はご持参下さい)
 
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2009/11/06

『BETWEEN TIDES 生命の音楽 第二章』

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 年末に東邦大医学部の大野さんとの対談の企画が持ち上がった。主催してくれるのはアーティストの日比野さん。去年の暮れも日比野さんのコーディネートでマヤ暦の日本への紹介者でもある高橋徹氏との対談を行ったが、今回はその第二弾ということらしい。題して——BETWEEN TIES 生命の音楽 第二章——。

 大野さんとはもう10年以上の付き合いになるが、渡瀬恒彦似のナイス・ミドルで、飲み屋にいったら確実にモテモテのタイプだ。その点ですでに劣勢なのだが、さらにヤバいと思われるのは今回の対談の内容がおそらく「生物界」においての生命力を中心とした話になるのではないかということ。コーディネーターの日比野さんも、大野さんもシュタイナー思想にかなり詳しい。シュタイナー思想における生物観とヌーソロジーにおける生物観は極めて酷似しているのだが、いかんせん、ヌーソロジーは未だ素粒子近辺をうろついていて、単なる素粒子から一体いかにして生物という自己組織化の能力を持った物質のシステムが生まれてきたのか、その論証については、まだまだ具体的なビジョンが立ち上がっておらず何とも心もとないのだ。要はヌーソロジーはまだまだ青臭くて生物の話が苦手だということ。ひぇー、どげんしよう。。。

 昔、僕はよく、単なる物質世界と生物世界の関係を「火と土」と「風と水」の関係に喩えて話していた。つまり、火と土は鉱物的世界(無生物と言ってもよい)の象徴で、その火と土の世界に風と水が加わることによって生物の場が誕生するのだと言ってきたということだ。ここでいう火と土はイデアの力と言ってもよいのだが、この両者の力はある意味、線形的で、直線的な生成活動として現れる。鉱物の結晶などがそのいい例だ。この働きの場は地殻や地球内部で想像されるようにケイ素と熱(火)の力で成り立っている。
 生物にとって、まぁ、動物に限って言えば、この火と土の現れは「骨」だ。骨はカルシウムという鉱物を主成分として、あたかもロウソクから立ち上がる炎のような形態を持って動物の体躯を支えている。

 ならば筋肉や内蔵を生成させている力の淵源はどこにあるのか——それが風と水で象徴されるロゴスとパトスではなかろうかと考えるわけだ。これらはイデアという通底器に沿って動いている精神と心のようなものである。この風と水が再びイデアを求めて運動を繰り返していくことによって、その間、経験する逡巡、矛盾、落胆、理解、歓喜、慟哭、憎悪、安寧といった情動の数々が生き物の原型を作っているという感覚が僕の中にはどうしてもある。

 イデアはロゴスとパトスを生んだ。何のため?
 それはイデア自身が新しいイデアとして自らを再生させるため。
 それ以外に一体、何の進化があろう?

 まぁ、こんな抽象的な感覚しか実感としては感じていないから、とても論理立てて生物について話せるような知識も技量もない。しかし、大野さんの持った生物に関する博識な知識と日比野さんが持った女性アーティスト特有の鋭い感性にシュタイナーの世界が加わり、その連合隊にヌーソロジーが玉砕覚悟で体当たりすれば、何か新しい生命の飛沫が飛び出してくるかもしれない。また訳の分からないことを吠えまくるかもしれませんが、お時間がある方は是非、遊びにいらして下さい。きっと今まで聞いたことのない生物観が三者の間で爆裂すると思います。

この対談イベントに関する詳しい情報はこちらへ→『BETWEEN TIDES 生命の音楽 第二章』
 
 

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2009/10/25

アイ アム ア コック

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 今日はずっとアニメーション特訓をやっていた。ソフトの進歩はすごいなぁ。素人でも二日で教材用のアニメが作れてしまう。使い慣れればかなり有効なツールだ。ヌーソロジーは表象は扱わないのだけど、表現にはやっぱ凝りたい。コンテンツ自体が新しいので、それに見合ったやっぱビジュアルやサウンドが必要なんだなぁ。まぁ、お金がたんまりあればいろいろなアーティストに発注をかけるのだけど、今は貧乏所帯。しこしこ自分なりに作っていくしかない。

 といいながら、休日だというのに今日は嫁さんと全然、遊んでやれなかった。ということで、罪滅ぼしに夕食でも作ってやろうという気になった。我が家は土、日の夕食は基本的に外食なのだけど、今日は天気も悪いし、嫁さんも若干、体調が振るわないということで、必殺調理人kohsenコックが(cockじゃないよ、cookね)晩飯を作ることに。

 メニューは豚肉チャーハンときゅうりとホタテのマヨネーズ和え、そして、中華タマゴスープ。

 見てくれは悪いが、味は抜群。何を隠そう、わしは20代の頃、吉祥寺のとあるレストランパブで調理人をやっていたのであった。嫁さんはイタリアンの天才だが、わしは昭和風喫茶店メニューの天才なのだ。チャーハン、ケチャップナポリタン、カレー、エビピラフ、まったりメニューなら何でもござれ。

 ということで、ごちそうさまをして、洗い物をして、ようやく一服の時間。

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やっとカメラが動いた。

今日は昼からずっとCINEMA4Dと睨めっこ。
何とかカメラを動かしたいと思い、七転八倒。

マニュアルを見ればいいものの、意地を張って最初の1時間は直観で。。
無理。絶対、無理。
どうやっても動かないので、結局、マニュアルを見て動かしました。

今からヌーソロジーもアニメを使って解説できるようになるばい!!

うひょ。
 

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CINEMA4Dに挑戦

昨夜からCINEMA4Dなる3Dソフトを触り出した。
というのも、NOOS LECTURE 2009のシリーズがいよいよ次回から次元観察子のイメージワークに入るからだ。
このイメージ化さえ伝達できれは今回のレクチャーはまぁ及第点をつけられると思うのだが、この伝達が恐ろしいほど難しい。
そこで、何とかイメージワークの補助ツールとしてアニメーションを使おうと考えた次第だ。

しかし、いかんせんマニュアルを読むのが嫌いなタチなので、悪戦苦闘している。
今日一日にかかってできたのが下のクリップ程度。
ただフィギアが回っているだけに見えるかもしれないが、
これでも立派なワークショップ用のツールになっているのだ(笑)。

明日はここからカメラを動かすテクニックを覚えて、何とか、いろいろとクリップのバリエーションを考えて行こうと思っている。
でも、途中で投げ出すかもしれないな。3Dソフトは面倒くさくてたまらん。
 
 


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2009/10/13

NOOS LECTURE 2009 IN 福岡 VOL.3

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 10月10日午前10時半頃。会社オフィスに出向く。よし、今日はレクチャーだ。頑張るぞぉ〜と、コンピュータにスピーカーをつなぐ作業をしているとき、腰骨当たりににプチッとまた例のあの嫌な鈍い音が。。。案の定、プチギックリ腰に。レクチャー中は根性で何とか事なきを得たが、明けて三日目の今日、症状が悪化しているぅぅぅ。。まだ歩けるけど。。ってなことはさておいて、

 第三回レクチャーに参加していただいた皆さん、今回もどうもありがとうございました。スタッフ合わせ総勢26名。またもやアカデメイアオフィスは満杯で熱気に溢れていましたね。今回のテーマは「人間の無意識構造と次元観察子」。かなり厄介なテーマでしたが、何とか概要は伝えられたかな。。

写真はこちらへ→ヌースアカデメイア・ブログ

 今回はどういう話をしたかというと、ずばり無意識の解説。

 ヌーソロジーというのは物質と精神の接合を意図している思考体系なんだけど、この接合箇所が一体どこにあるかと言うと、それは20世紀以降の哲学が「無意識」と呼んでいる場所なんだね。無意識とは言ってみれば、人間の意識を裏で支配しコントロールしている人間には意識化不能な意識のこと。ヌーソロジーの目的はこの無意識を流動させている海底の怪物を何とか幾何学的にサルベージし、そこに立ち現れた空間構造を現代物理学がいうところのゲージ対称性や超対称性の世界と何とか接合できないものかと考えているわけ。無意識構造と超対称性……ここにちりばめられている知識は、まぁ、いうなれば、現在の人文系と科学系の学問状況の最先端の内容とも呼べるものばかりで、当然のことながら、僕ごときの素人が詳しく立ち入れる領域じゃないんだけど、しかし、この橋渡しのアイデアを世の中に提出することがヌーソロジーの存在意義だと考えているので、執拗に続けていくしかないのよね。

 今回はフロイトがなぜ精神分析なるものを立ち上げたのか、その話から切り込ませていただきました。フロイトはその後発展していく心理学の基礎を築いた人物なんだけど、実に一癖も二癖もある人物だというのが僕の感想。彼の脳裏にはユダヤ的精神を殲滅することが目的にあったのではないか。精神分析を通じて、ユダヤ民族の血脈に流れている神への奴隷的精神、つまり集合意識的規模のエディプス・コンプレックスからユダヤの精神性を解放しない限り、自分自身の魂の解放はないと考えていたのではないか——そんな感じを持ってます。

 ユダヤの精神性は現在の次元の人間全体の精神の核となっている。OCOT情報はそう伝えてきている。科学が父なる神を殺し、それによって生み出された技術資本が際限なく母なる自然を陵辱している様を見れば、人間自身が「父を殺し、母を犯す」というあのオイディプスの悲劇を背負った張本人であることは想像に難くない。そして、殺したはずの神も、人間の理性=科学がいくら発達しようとも、おまえにはほんとうのことは分かるまい、と枕元に亡霊となって呪いの言葉を囁きつづける。

 まぁ、そういう話の流れで、人間の無意識構造について4時間ばかり舌足らずの話をしました。これでようやくヌーソロジーのキモである次元観察子の中に入って行けます。さぁ、次回からが現地案内。これがまた大変なんだよね。頑張ります!!

●第二回レクチャービデオ発売!!!!

 NOOS LECTURE 2009のレクチャーライブDVDシリーズVOL.2『ヌーソロジーのグランドデザイン』が本日発売になりました。
 ご注文されたい方はこちらへどうぞ→NOOS ACADEMEIA SHOP

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2009/10/08

満員御礼

連絡事項です。

ヌースレクチャー2009 IN 福岡 第3回はおかげを持ちまして申込者が定員に達しました。どうもありがとうございます。
これから申し込みを行おうと思っていらした方には大変申し訳ないのですが、会場の方の都合もあり受付の方を締め切らせていただきます。
尚、今回のレクチャーシリーズは毎回DVDに収録していく予定ですので、参加希望の方で定員枠に入れなかった方は、DVDの方をご覧になっていただければ幸いです。

第2回レクチャーのDVD、VOL.2は10月13日に発売となります。
今回の第3回の収録分VOL.3は11月16日の発売予定です。

詳細はこちらへ→ヌースアカデメイア・ブログ

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2009/09/29

ヌースレクチャー2009 IN 福岡 第3回

 レクチャーを再開して、あっという間に第三回目となりました。今回は10月10日の土曜日。昔で言えば「体育の日」。2000年から「ハッピーマンデー」とかいう訳の分からない制度ができて、体育の日は10月の第二月曜日となったそうな?ということは、3連休の初日になるのかな。

 第一回目を助走、第二回目を踏み切りとすれば、ようやくこの第三回目からヌーソロジー空間への本格的突入になるといった感じです。今回のテーマは「人間の無意識構造と次元観察子」。

 「無意識」というのは意識が無いということじゃなくて、人間に意識化されることのない意識といったような意味。フロイトはG・グロテックに倣ってこの無意識のことを最初Es(エス)と呼んだけど、このEsというのはドイツ語では「それ」っていう意味がある。つまり英語で言えば「It」だ。グロテックは『エスの本』の中で、この無意識=Esについて次のように書いている。

——人間は、自分の知らないものに動かされているというのが僕の意見です。人間の中には「エス」という何やら恐るべき力があって、それが、人間のすること、人間に起ることのすべてを支配しています。「わたしは生きている」という言は、条件つきでしか正しくありません。それは根本原理の小さな皮相な現象しか言い表わしていません。人間はエスによって生かされているのです。(『エスの本――無意識の探究』)

 よっしゃ決めた!!今回のイントロ部分はこれで行こう。人間のすること、人間に起こることすべてを支配している無意識という名の意識がある。果たして一体、この構造はどこに隠れているのか——それはミクロの素粒子世界の中だぁ〜と声高に叫ぶのがヌーソロジーなのだが、いかんせん今の段階では同調者ゼロ。無意識の構造とやらを論理立てて説明するのも難しいし、ましてや素粒子構造自体を数学的に理解するのも素人には至難の業。この両者をつなごうとする発想すらおそらく今のところ世界のどこにもない始末。とほほ、先は長いっす。50年先の未来を感じてみたい方は是非、参加してちょーだい。

 ということで、第三回レクチャーの詳細です。

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2009/09/25

アニメーションが作りたい

最近は一月のうち一週間がまるまるビデオ編集で潰れている。何事も作り込むのが好きなタイプなので、編集をやっていても何かとギミックを使いたくなるのだが、ビデオの場合は何と言ってもアニメーションを挿入したくなる。
 まぁ、今のところアニメーションを使って説明する内容はまだ登場してきていないのだが、第三回目当たりからは反転認識の描像が登場してくるので、アニメーションが使えれば分かり易くなるのになぁ……とついつい思ってしまう。空間の反転は4次元での出来事だ。言葉と2次元のホワイトボード上でその世界を伝達していくのは毎度のことながら至難の業なんだよね。
 
 今、手元にある3DソフトはShade10.5とMAXSONのCINEMA4D、そして人物専用のPoser6.0。CINEMA4Dは優れたソフトなんだけど、使い方が難しすぎて当の昔にギブアッブしている。残る選択肢はShadeのみってことになるんだけど、これまたなかなか腰を落ち着けてマスターする暇がない。あと、反転を表現するテクニックもおぼつかない。。ん〜、何とかならんものか。

 そうそう、あと2Dのアニメーションもブチ込みたいなぁ。。ケイブコンパス上の意識の流動を2Dのアニメーションで表すことができれば、complication(併せ含み)、implication(巻き込み)、explication(繰り広げ)、といった意識の運動のイメージがそれなりに表現できると思うんだけど。。

 まぁ、地道にやるしかないな。
 
Cxs
 

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2009/09/18

ヌースレクチャー2009シリーズ DVD販売開始!!

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ヌースレクチャー2009IN福岡のシリーズも順調な滑り出しを見せている。予定通り、レクチャーの模様を収録したDVDの販売をスタートさせた。興味がある方はこちらへ→ヌースアカデメイア・Shopサイト

 ほんとうのところは、昨年の1月に『人神』のアドバンスト・エディションの発売と同時にレクチャーをスタートさせたかったのだが、私的な事情でかなり遅れを取ってしまった。今回はレクチャーを福岡で開催するということで、DVDの企画も一緒に進行させることにした。日本全国に散らばる以前からのヌースウォッチャーにもヌーソロジーの現況を是非、把握してもらいたいからだ。ただ、DVD企画と言っても悲しいかな低予算の制作費。手持ちのDVカメラでレクチャーの様子を撮影し、それをこれまた手持ちのソフトで編集し、DVDビデオに焼き付けただけのものだ。まぁ、プロの制作会社のデキ映えには遠く及ばないが、僕が直接、編集しているので、ヌーソロジーの内容だけは十分に伝達できるんじゃないかと思う。

 今回のレクチャーシリーズはとりあえず全12回を予定しているが、手前味噌な話、今回のライブビデオシリーズはかなり密度の濃い出来上がりになるのではないかと思っている。というのも、ヌーソロジー自体の内容がここ数年で極めてタイトにシェイプアップしてきているし、また、ヌーソロジーの全体像というものが、このレクチャーシリーズで多くの人に理解可能となる予感をいつにも増して強く感じているからだ。

 チンプンカンブン、ワケノワカメというのが今までの一般的なヌーソロジー評だったが、おそらく今回のシリーズでは「なるほど!!」という声がたくさん聞けるのではないかと期待しているのだが。。。あまいか(笑) 。。

 ヌーソロジーは宇宙論の体裁を取ってはいるが、その本質は本来の自己-他者の奪回作業である。プラトン風に想起、プロティノス風に「帰還」と言い換えてもいい。その意味で言えば、未だ誰も「ここ」にはやってきていない。「ここ」を奪回し、「わたし」を奪回し、そして「あなた」を奪回していくこと。このレクチャーシリーズを通して、そうしたかつて存在したと思われるほんとうの「ここ」の世界風景に対して、かすかなビジョンでもいいから多くの人にイメージさせることができれば、このレクチャーは大成功と言っていいだろう。

 第一回目の前半のテーマは「2012年問題」。ヌーソロジーは「2013年」以降に人類がどのような変容を遂げるかというビジョンを具体的に語っていくものなので、巷を騒がしている「2012年」という年にはあまり関心がないのだが、ただ、一部には2012年の到来に怯えている人たちも多々おられるようなので、去年FM東京で話した内容を気持ちより具体的に、あくまでもジャーナリスティクな視点からこの「2012年」問題に対するコメントを試みた。

 後半は第二回のテーマ「ヌーソロジーのグランドデザイン」の予告編的な話になっている。久々のレクチャーで、まだエンジン全開とはいかないが、徐々にギアを上げていくつもりだ。お楽しみに。

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2009/09/15

ヌースレクチャー2009 IN 福岡 第2回

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 土曜日は新しく始めたレクチャーシリーズの第二回目。今回も関西や遠くは北海道から熱心なヌーシストの皆さんが集まってくれた。参加者の皆さん、どうもありがとうございました!!

 スタッフを入れて総勢21名。僕のオフィスでやるにはこのくらいの人数がちょうどいいのかな。前回は30名の大所帯となったのでスシ詰め状態だったけど、今回は席がゆったりとした分、リラックスした雰囲気で会を進めることができた。

 第二回目のテーマは『ヌーソロジーのグランドデザイン』。ヌーソロジーの全体構造について4時間の長丁場でいろいろと話していった。先日、買ったばかりのブレゼン用ソフトKey Noteを喜び勇んで使ってみたのだが、操作の方法が分からず、途中、すべてのネタを暴露するという大失態を演じてしまった。あと、彼岸と此岸をヒガンとコガンと言ったり(コカンと言わなかっただけマシだけど、かなり恥ずかしい…)、襟もとに付けているピンマイクが何度も外れたりと、ちょっと締まりがなかったな。。
 
 さて、レクチャー内容の方だが、概ね次のような三部構成で話を紡いだ。

 1、タカヒマラ(Cave Universe)について
 2、ヌーソロジーと古代神秘思想
 3、観察子(パラティロン)の全体構造

 今回の話のポイントはやはり「結び目」かな。途中、古代エジプトのプタハ神の話とかを簡単にしたんだけど、創造は結びとして行われたってこと。何の?つまり、君と僕との。僕がプレアデスなら、君はオリオン。そして、その結び目がシリウス。シリウスとはモノのことだ。。そんな話を4時間かけてしました。古い契約は解除して、新たな契りを作り出すこと。物質とは君と僕との間にある結び目である。この結びの力こそが愛として語られなければならない。だから、愛には二つのものがある。一つはかつて物質を結んだものたちの力としての愛。そして、新たな結び目を作るために古い契約関係を反古にしようと人知れずゲリラ戦を展開するレジスタンスとしての愛。

 どちらの愛を選ぼうともそれは自由。また、両方とも選択することもできれば、両方選択しないこともできる。僕は欲張りだから迷うことなく、新旧双方の愛を選択する。。——重力と3つの力の統合も、こういう概念を背景に持って語られれば、もっともっと面白くなるんだけどなぁ。何とか接続させたいね。

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2009/09/01

twitterなるものを始めました。

Twitter
甥っ子のススメで、最近、twitterなるものを始めた。
最初、使い方が全く分からなかったが、思考の足跡をメモる道具としてはかなり使えそうな感じもする。

単にメモるだけであれば、テキストエディットやスティッキーズで事は足りるのだが、
このツールの味噌は他人も閲覧可能であるということかな。。。
勢い、人に見られるのであればタイトな表現を心がけるようになる。
結果、思考が整理され、メモとして有用なストックが貯蓄されていくというわけだ。
ブログではついつい長文になりがちな内容も、不思議とtwitterではコンパクトなフレーズで収まることがあるような、ないような。
「つぶやき」を文字にすると、思考のエッセンスだけが泡のように上がってくる。いや、単なる灰汁かもしれんが。。

あと、読書中のメモ書きとしても使えそう。
読書の最中の意識というのは逝ってみれば化学反応の真っ最中のようなもの。
そこには融解熱や凝固熱など、様々な働きを持った熱量が生じている。
テキストの解体、コンテキストの構築。そういった化学反応の現場を文字化しておくことは、
思考の足跡のマーカーとしてはかなり有用だ。

さらに言えば、フォローしている人のコメントも的外れでなければかなり有り難い。
思考が持ったリニアルな流れに、ひょいっと、クリナメンを与えてくれるからだ。

何はともあれ、暫く使ってみよう。

ヌーソロジーの発生の現場に興味がある人は、フォローしてみてね。

半田広宣twitter→http://twitter.com/kohsen

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2009/08/18

第2回レクチャーの開始時刻の変更

8月11日に告知した次回のヌースレクチャーの開始時刻が変更になりましたので、念のため、訂正箇所を含めて再度、開催要項をアップしておきます。

第2回「ヌースレクチャー2009IN福岡」開催のご案内

●日程  2009年9月12日(土曜日)
●時間  レクチャー ・・・ 13:00~17:00
    
     2次会(希望者のみ) ・・・ 17:30~20:00
●場所  ヌースアカデメイアオフィス(株式会社ヌースコーポレーション内)
     〒815-0074 福岡県福岡市南区寺塚1-26-7
●会費  レクチャー ・・・ 3,000円
 
    2次会 ・・・ 希望者のみ。

 今回の開始時刻は午後1時です。お間違いのないようお願い致します。尚2次会は茶会か、飲食の場合は近場の居酒屋もしくはレストランを予定しています。料金は未定です。参加希望者は2次会参加希望とお書き添え下さい。(上記金額は税込です。会費は来場時にお支払いください。)

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2009/08/11

ヌースレクチャー2009IN福岡 第2回の案内です。

●ヌースレクチャー2009IN福岡 第2回

 これから福岡では月1回定例でレクチャーを開催していくことになりました。
 場所は会場を借りると必要経費もかかるので、僕の会社のラウンジでやります。
 第1回目の経験から。ゆったり話を聞くというスタイルを取ると25名ぐらいが限度かもしれません。
 参加希望の方は早めの申し込みをオススメします。

 開催日は前回の参加者に意見を聞いたところ、土曜日の希望が多かった(次の日は休みだしね)ので、毎月第二土曜日の開催を原則とする予定です。

 問題は2次会。第一回目はオープニングということもあって、お寿司や中華の出前を頼んでそのままレクチャー会場で懇親会を開きましたが、準備、後片付け等が大変だったので、今回からは軽い茶会にするか、近くの飲食店に移動するかのどちらかになると思います。
 
 ということで、以下、第2回レクチャーの開催要領を添付しておきます。お時間がある方は是非、遊びに来て下さい。


第2回「ヌースレクチャー2009IN福岡」開催のご案内

●日程  2009年9月12日(土曜日)
●時間  レクチャー ・・・ 13:00~17:00
    
     2次会(希望者のみ) ・・・ 17:00~20:00
●場所  ヌースアカデメイアオフィス(株式会社ヌースコーポレーション内)
     〒815-0074 福岡県福岡市南区寺塚1-26-7
●会費  レクチャー ・・・ 3,000円
 
    2次会 ・・・ 希望者のみ。

 今回の開始時刻は午後1時です。お間違いのないようお願い致します。尚2次会は近場の居酒屋もしくはレストランを予定しています。料金は未定です。参加希望者は2次会参加希望とお書き添え下さい。(上記金額は税込です。会費は来場時にお支払いください。)


■第2回テーマ「ヌーソロジーの全体構造」

第一回目はヌーソロジー本論には入れなかったので、今回からはヌーソロジーそのものの話に入ります。前半はヌーソロジーの全体構造について話を進め、後半はヌーソロジーの重要概念である次元観察子の解説に入れればと思っています。テキストは2008年に出た『2013:人類が神を見る日/アドバンスト・エディション』を使いますので、お持ちの方は持参して下さい。(※書籍は当日、会場でも販売しております)


参加を希望される方はinfo@noos-academeia.comまでお名前、ご住所、お電話番号をご記入の上、ご連絡下さい。

※受付締切:9月8日(火曜日)

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2009/08/04

ヌースレクチャー2009in福岡 スタート!!

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 一昨日は久々のレクチャー。福岡の場合は多くても20名ぐらいだろうとたかを括っていたのだが、なんと総勢約30名の大所帯となってしまった。場所はうちの会社の二階にあるヌースアカデメイアのアジト。さほど広い場所でもないので、全員は入り切るかどうか不安だったが、何とか椅子を用意して満員御礼、札止めとあいなった。参加していただいた方には心から謝意を表したい。特に県外から来ていただいた皆さん(長崎のTさんとOさんとNさん、熊本のUさん、広島のSサン、岡山のWさん、兵庫のMさん、京都のTさん、そして北海道のTさん)には何とお礼を言っていいものやら分からない。心より感謝です!!


 福岡ヌースレクチャーの歴史は結構、古い。スタートは1993年。九州全域の気功愛好家を束ねた『福岡気功の会』という組織があって、そこで会長をしていたY氏がNOOSの宇宙論をいたく気に入ってくださり、会の会員さんから聴講希望者を募り、その方たちの支えで開催されたのが始まりだ。途中、1年間だけお休みをいただいたが、この講座は1993年から2003年まで約10年の間続いた。

 今回、約5年ぶりのレクチャー開催となったわけだが、参加者の半数はそのときのメンバーの皆さんたちが集まってくれた。全員、気功の愛好者ということもあって僕よりも年上の年配の方が多いのだが、皆さん口を揃えて「再開を心待ちにしていた」とおっしゃってくれ、これまた頭が上がらない想いである。

 さて、肝心のレクチャーの内容の方だが、今回は第一回目ということで、初心者の方も4〜5名いらっしゃったので、ヌーソロジーそのものの内容の中には深くは立ち入らなかった。いきなり、次元観察子がどうだの、ψ3がこうだのψ4がああだのやられたのでは、普通の人は脳みそが発火してしまう恐れがある。まずはウォーミングアップ程度の話に押さえておくのがいいと判断したのだ。そのせいもあったのかもしれない。レクチャー後の懇親会では会長のY氏からはちょっと物足りなかったという辛口のコメントも聞かれた。素直に反省材料に入れておこう。

 レクチャー前半は「2012問題」についての話をした。ヌーソロジーは「2012」ではなく「2013」を標榜しているので、「2012」との違いをはっきりさせるために、マヤ暦、ホピの予言、フォトンベルト、惑星ニビル(あっ、これ話すの忘れた)、Ωポイント、タイムウェーブ理論等、2012年問題と関連が深いと思われる事項について、簡単な解説を行った。

 これら一連の2012年問題絡みのタームとヌーソロジーの何が違うかというと、ある意味ヌーソロジーは2012年問題には何ら関心を持っておらず、むしろそれ以降、世界のビジョンがどう変わっていくかということに関心を抱いているし、また、そのビジョンを詳しく描き出すことを目的にしているということだ。ここでいう世界のビジョンとは、ずばり、人間と宇宙の関係を人間がどう見ているかというそのビジョンのことなのだが、2013年以降、激変を被るのはこのビジョンだと個人的には予測しているので、今回は「歴史が自然を作ったのか、それとも、自然が歴史を作ったのか」という西田幾多郎の言葉をフィーチャーして、その激変の内容について少し話してみた。

 歴史が自然を作る。これは言い換えれば、自然が時間の中で生み出され、進化、発展を遂げてきたという意味だ。約137億年前にビッグバンが起こり、宇宙は物質的進化とともに生成活動を今も尚継続させており、その中で地球が生まれ、人類も生まれた。そして現在のわれわれがここにいる。これらはすべては時間という大舞台の中で進行してきた物語であり、その意味では人間を含めた森羅万象は時間という歴史の中でその歩みを進めてきたと言える。常識的な見地に立てば、この物語におそらく異論はないだろう。

 しかし、西田のような哲学者の魂はその逆を問う。すなわち、歴史(=時間)を作ったのは自然の方ではないのか、と。ここでいう自然とはもちろん単なる物質的な自然のことをいうのではない。古代ギリシア人がいうところのphysis(フィシス)、すなわち存在の根源そのもののことを言っている。歴史、すなわち時間というタイムテーブルに列挙された出来事の連なりなどといったものは、この存在としての自然にとってはごくローカルな出来事であり、時間もまた自然が作り出した創造物の一つにすぎないとすれば、ほんとうのところは自然が歴史を作ったのであって、歴史が自然を作ったとは決して言えなくなるというわけだ。より端的に言えば、現在の人間が持った歴史が先行する自然観は存在を忘却している(ハイデガー)ということである。

 ヌーソロジーが予見する2013年以降の大激変とはズバリこの自然=フィシス=存在からの反撃によるものだと考えていい。これについても勘違いしないで欲しい。この反撃は自然破壊が人間に壊滅的打撃を与えるとか、空から小惑星が降ってくるとか、太陽からフレアーが降り注いでくるとか、UFOが大挙して降りてくるとか、そのような物質的自然が作り出す甘っちょろい、誰しもが想像できるような変化ではないのだ。存在が歴史に対して反旗を翻してくるのだから、それは僕らの想像を絶するものでなくてはならない。だから、ヌーソロジーはその想像を絶する世界を何とか描写する術はないものかあがいていると言っていい。

 存在からの反撃とは言い換えれば「無時間」からの反撃と言ってもいいものなのだが、そういった意図をウラに持って、レクチャー後半はニーチェの永劫回帰やゾロアスター教の宇宙観とヌーソロジーの関連について、その要点を喋らせていただいた。残念ながら前半の「2012年問題」で時間を食ったために、後半の話をうまくまとめられなかったが、続きはまた次回ということで、参加者の皆さんにはご容赦を願いたい。

 懇親会のときに、これからのレクチャーの開催要領について参加者の意見を聞いた。

 1、毎月やってほしい。
 2、土曜日がいい。

ということで、スタッフとも話し合い、なるべく善処していこうと考えています。
次回の開催についてはまた追ってお知らせします。

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2009/07/29

映画『Moon Shadow』への出演

昨日まで3日間、東京に滞在。
今回のメインミッションは映画「Moon Shadow」への出演。
何でも「Red Shadow(赤影)」の続編ということで、
その撮影が東京であったのだ。

ワシの役は赤影の幼なじみで厳しい修行をともに耐え抜いた星影という役。
敵対する風魔勢力に寝返り、二重隠密として働き、最後は赤影を暗殺しようと目論む。
まぁ、言ってみればユダのような役。
鎖帷子を着て、手裏剣と撒き菱を装備して、颯爽と谷間を走り抜ける。。

んなわけねぇーだろ。
50過ぎの腹の出たおっつぁんが、忍者の身のこなしなんぞできるわけねぇーし、
タバコ吸いまくってるから50メートルダッシュを1本でもしようものなら、
呼吸困難と吐き気でそのへんをのたうちまわっちまう。
いや、ヘタすると心臓マヒで死ぬぞ。

ということで、マジモード。
「Moon Shadow」というのはNZ人の奇才?監督Ray Castelが手がけたドキュメンタリー映画。
何でも今回の皆既日食で奄美に集った人々の生態をクールに綴った記録映画だということらしい。。
中身は見てないのだけど、たぶん、テクノやトランス・バーティーのライブフィルムがメインになった作品だと思われる。

以前、レクチャーに参加してくれていたS&Bくんの紹介で今回の撮影となったのだが、
僕は奄美には行ってないので、
インタビュー形式での出演とあいなった。
インタビュー内容はもちろん今回の皆既日食について。
先日、ブログで書いたようなことをいろいろとくっちゃべってきた。

撮影終了後の飲み会では、同年代かつ双方ともに大いに怪しい、ということもあって、Rayと意気投合。楽しい時間を過ごさせていただいた。
ただ、久々の英語はボロボロのブロークン。何とか言いたいことをスラスラと喋れるようにならないものかねぇー。

S&Bくん、お世話になりました。
久々に会えて大変楽しかったです。
また何か企画があったら是非、呼んで下さいね。

Ray Castel→http://ova.jp/artist_ray.html

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2009/07/23

日食とゾーエー

 昨日は日蝕の日だった。残念ながら博多は曇り空。期待していたようなド派手な天体ショーは見られなかった。
 
 博多では約9割の部分日蝕だったそうだが、曇り空の下、残る一割の太陽光でも地上を照らし出すには十分だった。薄灰色の空の明るみがとりわけ1/10になるということもなく、さほどの大きな変化は見られなかった。しかし、日食が今、現在ここで起こっているという認識のためか、曇り空の下を照らし出している透過光が食の進行とともに微妙に変質していくような不思議な感覚があった。この感覚はなんなのだろう………?光の質感の微妙な変化。そのせいで空間の質感までもが変わっていく。多少の気温変化のせいもあったのかもしれない。大気がそれまでの緊張感を緩め、徐々にぬめっていく感じがした。そのぬめりは決して心地のいいものではなく、かすかな吐き気を伴う感覚だった。

 何かに似ていると思った。これはかつてどこかで体験した感覚だ——モスクワだ。モスクワの黄昏。もう20年近くも前になる。所用でロシア(当時はソビエト連邦)に行った。モスクワ入りしたのが夕刻でもあったせいか、やたら空港が暗かった(海外の空港は節電のためかほとんどが照明を落としている)。空港からバスで市街地に向かう途中、道路沿いに整然と並べられたナトリウム灯が共産主義が生み出した味気のない建物群を鈍いオレンジ色の光で照らし出していた。ところどころに掲げられたキリル文字のネオンサイン。日本の都市とは似ても似つかぬ情景。そのときのモスクワは僕にとってまるで異星の植民都市のような雰囲気を醸し出していたのだ。グレーがかったオレンジ色で染め上げられた街並は奇妙な湿度を漂わせ、どこか夢見の空間のようでもあった——。

 日食とナトリウム光が具体的にどのような関係にあるのかは分からない。しかし、この二つは確実に何かによって結ばれている感じがする。
  

          *     *     *     * 


 月が太陽を食らう。この現象に一体どのような意味があるというのだろう。古代人は日食を悪魔の仕業と恐れたという。それは現代人にも分かる自然な感情だ。太陽とは大地に恵みをもたらす豊穣なる生命力の象徴であり、太陽抜きで地上の生命は生きることはできない。
 その太陽の営みを月が遮る。それが日食だ。月は何のために太陽の光を遮るのか。月とて生命の母胎として地球上の生物たちに測り知れないほどの影響を与えているではないか。月はなぜ太陽の邪魔をしようとするのか。これは神学的には極めて挑発的な問いかけである。

 太陽が持った生命力と月が持った生命力。この二つの力の間にどのような差異があるのか——すぐに思いつくのはビオス(bios)とゾーエー(zoe)だ。古代ギリシア人たちは生命力には二つの種類があると考えた。ビオスはbiologyの語源ともなっている言葉だが、この言葉には個体的な生命力の意味がある。蝶なら蝶が羽ばたき、魚なら魚が遊泳する。生命力は個体において結晶化し、その生を表現し、謳歌する。
 一方、生命力の全体性を支配している力というものもある。それがゾーエー(zoe)だ。全生物は食物連鎖という形でまるで一つの巨大な多様体のようにして生きている。土の中に微生物が生きていなければ植物は存在しないし、植物が存在しなければ当然のことながら動物もまた存在することはできない。この生命の連鎖運動はビオスが持った個体化を支える力とはある意味対極的な力となっている。なぜなら、生態系全体の流動を守るために個体性が滅びることもあれば、まだ、全体性を浸食していこうと渇望する個体性もある。人間(ホモサピエンス)などはその典型的な例と言っていいだろう。

 ヌーソロジーが展開する思考図式からすると、太陽が持った生命力がビオスで、月が持った生命力がゾーエーである。その意味で、太陽-地球間への月の割り込みである日食はビオスの力を無効にしようと介入してくるゾーエーの力と深い関係を持っている。つまり、日食は生命の全体性への回帰の扉の出現とも言えるものだ(下図1参照)。
 
Photo
 
 生物において個体化を進める力のソースはおそらく太陽にある。人間においてはそれは理性(アポロン的なもの)として現れてくるのだが、この理性は医学における身体観や政治学における身体観を例に挙げるまでもなく、生命を物質や社会といった枠組の中で外部操作的に扱うことに長けている。こうした局面で思考されている身体の力はすべてビオスに負うところが大きいのではないか。国家が個体の誕生や死を登録、管理し、バイオテクノロジーが個体の遺伝子を操作、制御する。人間はビオスの力を利用し、それによって力は個体性の名のもとに囲われ、生命という大義名分のもとに人工飼育されるのだ。

 月が太陽を食らうという現象は、こうしたビオスの力から逃走しようとするゾーエー側からのカウンター(対抗)と考えられる。地球-月-太陽というトリニティー構造の中で生命エネルギーを円滑にを循環させていくためには、ビオスがもたらす個体化や制度化というエネルギーの萎縮を再度、原初的生命力であるところのゾーエーへと刷新していく必要があるからだ。個体へと凝縮を行ったものは、また、全体へと解放されなければならない。それは生と死、エロスとタナトスの間に働く呼吸でもある。生命エネルギーが持った全体性への放流は地球と太陽、つまり、物質と精神の癒着を無効にし、月に象徴される身体そのもののが持った力を甦らそうとする。身体自身は人間の理性には統御不能な無意識の海であり、そこにはデュオニソス的な情動力が渦巻いている。ベンヤミンの言葉でいえば神的暴力の坩堝である。

 グローバルスタンダードの名のもとに日ごと画一化していく社会に対して、絶えず謀反を起こそうと企てる異端分子的エネルギーはその意味で言えば、神的暴力の力でありゾーエーから迸り出るものだ。個体性にとって全体性は極めて危険な暴徒であり、反対に、全体性にとって個体性は無秩序のカオスを作り出す要因でもある。僕ら人間の生命力は今、ビオスとゾーエーの狭間で大きく揺らいでいる。太陽の時代は終わった。といって月の時代を標榜するのは退行である。のぞむべくは、日食という扉を通して、月と太陽を結ぶルートを敷設する必要があるのだ。そこに流れているものはビオスでもゾーエーでもない、第三の生命力である。その力を目覚めさせるためには、僕らは地球の結び目をほどかなくてはならない。地球の結び目とは物質のことである。


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2009/07/15

ビートルジュース

B7fb6_284_53661663abe2937c191b041b5 ビートルジュースと言ってもティム・バートンが監督したお化け映画の話ではない。オリオン座の赤い星、ベテルギウスについての話だ(ベテルギウス[Betelgeuse]は英語ではビートルジュースと発音する)。先月、ナショナルジオグラフィク誌にこのベテルギウスに起こっている異変についての記事が掲載されたらしい。曰く「この15年間でベテルギウスの大きさが15%ほど収縮している。原因は不明。」ベテルギウスは赤色超巨星と呼ばれるグループに入る巨大恒星である。大きさはちょうど木星軌道と同じぐらいの大きさあると言われていた。それが何とここ15年の間に金星軌道ぐらいの大きさまでに縮んでいるというのだ(15%ほどの縮小にしてはちょっと縮み過ぎ?)。何とも不気味なニュースである。

 天体物理の世界では赤色超巨星は質量が太陽の8倍以上もあるような大恒星が辿る次の進化のプロセス段階と見なされている。こうした星は中心部の核融合が鉄まで達するとその反応を停止させ、最終的には超新星爆発を起こすと言われている。で、今回のベテルギウスの突然の収縮騒ぎだが、これはヴェテルギウス内部の核融合が脆弱化し、今まで核融合のエネルギーによって重力との平衡を保っていた状態が星内部で崩れ出し、重力収縮が始まっている可能性を示唆している。

 それにしても15年で15%の縮小とはとても天文学的な数字とは思えない早さである。おまけに研究者の話では収縮速度は年々加速しているという。天体物理の理屈から言えば、その収縮が閾値を超えれば当然のことながらベテルギウスは超新星爆発を起こすことになるのだが、そのときの明るさは最大で満月並みだという。ヴェテルギウスまでの距離は地球から約600光年ほどしかない。果たして衝撃波等による地球への影響は大丈夫なのだろうか?——というところまでは、あくまでも科学的見地からのお話。

 実はこのベテルギウスという星、ヌーソロジーの発祥と極めて深い関係がある。1985年、僕自身、最初の超常体験を経験し、いきなり「オリオンのNOMI」と名乗る意識体からの声が聞こえてきた。その声に導かれるまま、歴史探検やら霊界探検をやらされたのだ。これは神さまのお導きだと信じて疑わなかった哀れな若造は、結果、自分自身の無意識の闇の中に潜むシャドウにボコボコにやられ、見事、発狂。しばらく廃人同様の生活を送っていた。そこで見たこと、そこで聞いたこと、それらは他の日常生活での記憶よりも遥かに鮮明に残っている。ベテルギウスの収縮のニュースを読んだとき、その記憶がはっきりと文字列として甦った。

 NOMIはベテルギウスのことを「テツ」と呼んでいた。そして、この「テツ」は現在の人間の霊的な淵源であると言っていた。分かり易く言えば、ベテルギウスという天体は人間存在全体を支えている霊力の反映物だということである。廃人同様の生活を送っていた僕は、当時、冬が到来するだびに、寒空の下、オリオン座の左上隅で赤く輝くこの「テツ」を見つめ続けていた。

OCOT情報には次のようにある。

ベテルギウスとは何ですか?

垂質の等化。

 OCOTと交信している当時は「垂質」というシリウス言語の意味をはっきりとつかめていなかったので、当然のことながら、この返答に含まれた意味も分からずじまいだったが、今では朧げながらもある程度の解釈はできる。垂質とは人間の個体を規定する空間のカタチが持った力のことである。ヌーソロジーに詳しい方は次元観察子ψ5のことだと考えてくれればいい。その意味で「垂質の対化」とは自己を規定する空間と他者を規定する空間の関係にある。観察子で言えば、これはψ5とψ*5の関係だ。よって「垂質の等化」とはこれら両者を相等しいものへと持っていこうとする精神の作用を意味することになるのだが、このことは精神分析的に言えば、人間の無意識の欲望を推進させている本源力と解釈できないこともない。つまり、人間の自己における無意識は他者の居所をもとめ、発芽を求め土中を徘徊する植物の茎のように、真の他者との出会いを欲して常時、盲目的な前進を余儀なくさせられているということだ。それは精神分析的に言えば、「他者の欲望を欲望する」欲望として現れる。ヌーソロジーの文脈においては、歴史や経済が見せてきた文明の発展、発達とは、すべてその無意識的欲望の展開の履歴と言い換えてもいい。

 他者という存在はヌーソロジーの観点からすれば、真実の自己のことである。人間の自己はこの真実の自己へと辿り着きたいとする本能のもとに、すべての意識作用を営んでいるというわけだ。OCOT情報にいう「垂質の等化」が持ったこのような意味合いは、ベテルギウスが人間存在全体を支えているというNOMIからの情報と極めて近いニュアンスを持っている。

また、次のようなOCOT情報もある。

鉄とは何ですか。

付帯質が持った力の本質。

 いつの頃からだろうか。僕はNOMIが語っていた「テツ」とは「鉄」のことでもあると思い始めていた。原子番号26番の鉄はケイブコンパス上で追って行くと、まさに、垂質の等化を行っている精神そのものの位置に当たる。

 鉄の減衰——人間という時代を築いてきた自我精神の力が弱まりつつあるのではないか——それがベテルギウスの収縮と何らかの関係を持っているのかもしれない。人間の無意識が真に他者の場所へと辿り着いたとき、すべての価値はニーチェが言うように転換を始めることだろう。否定的な精神の支配は終焉を迎え、肯定的な精神のみの、すべてにおいて「然り!!」と答える全肯定の精神のみの時代が到来することだろう。そのときベテルギウスは赤い星から青い星へと生まれ変わるかもしれない。

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2009/06/10

時は糞なり——あるヒポコンデリアックの手記

 
 
太陽をいかにして腐敗させるか。

いや、いかにして醸成させるか。

それだけが当面の問題だ。

野生の雄牛のそれのように過剰な太陽の性欲。

マテリアルという意味においても、

イデアルという意味においても、

この欲望はちと異常すぎやしないか?

太陽のゾーエーは今や貨幣という名の贋金に姿を変え、

世界を壊滅へと導きつつある。

ヤツが何を食っているかは知らないが、

(月か?それとも死霊か?)

ヤツの肛門から次々と排泄されてくるのは、

いつも贋金だ。

よく言ったものだ。

時は糞なり——。

この糞を巡って有象無象のスカトロジストたちが都市を徘徊する。


だから、オレはふと思う訳だ。

いっそのこと、この顔面から目玉をくりぬき、

太陽の中に投げ込めたらどれだけ幸福(しあわせ)なことかってな。

太陽を醸成させるにはそれしか手段がない。

だろ?
 
 


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2009/01/06

「2013:The Day God Sees God」ようやくamasonに。

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いろいろなトラブル続出で発売が大幅に遅れた英語版『人神』が、ようやく"2013:The Day God Sees God"としてamason USAに登録されたようだ。

2013:The Day God Sees God on Amason

現時点ではセールスランクは百万位台とボトムラインに位置しているが、数ヶ月後には1ケタぐらいは位が減ってくれることを祈りたい。日本でもマイナーな本が米国で売れることを期待する方が愚かしいが、ヌースの場合は特異な路線を進んでいるので、マニアックな連中には意外とウケがいいのだ。実はすでにハリウッドの大物スターが本書をゲットしたという情報もこちらには入っているぞ。。へへ。英語になるとこういうことが起こり得るから楽しい。。

 追伸 

 ちょっと厚かましいお願いですが、どなたか英語でこの本の感想を書ける方がいらっしゃいましたら、是非、レビューの方お願いいたします。ペコリ。

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2009/01/05

紀要用の原稿書き終了!!

今日から、2009年の仕事始めです。
さっそく昨年、依頼のあったM大の日本総合研究所の紀要に掲載する小論を仕上げました。
論題は「知覚正面における本性上の差異に関する一試論」です。

大森荘蔵、ベルクソン、メルロ=ポンティから1センテンスづつを引用し、
4次元時空に被投された知覚正面の状況について簡単な考察をしています。

ヌーソロジーでいう「人間の外面」の哲学的裏付けを取るには、
この大森荘蔵の「知覚正面」論はシンプルですが、とても重要な概念です。

知覚正面(大森荘蔵)→イマージュ(ベルクソン)→奥行き(メルロ=ポンティ)。
この三者を時間をキーワードにして横断させたところに「人間の外面」というヌーソロジーの重要な概念が立ち上がっています。

記憶とは脳ではなく、今みている光の中に蓄えられている——。

ってことなのかな。。。証明は難しいけどね。。

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2008/12/22

ありがとうございました。

つい、さきほど羽田発の最終便で博多に戻ってきました。
20日のイベントに足を運んで頂いた方々に改めてお礼申し上げます。
あと、高橋さん、主催者のDorisさん、ナビゲーター役の辻麻里子さんにもこの場を借りて、感謝の意を表したいと思います。

蜜蝋のろうそくの灯火のもと、
仄暗い空間の中で、
あっという間の3時間でした。
参加していただいた皆さんの眼差しもとても柔らかく、
会場全体が、何だか胎児を包み込んだ胞衣(えな)のように感じました。

話の内容はもっとディープにやった方がよかったのかな。という反省も少し。。
何はともあれ、いい聖夜が迎えられそうです。
どうも、ありがとうございました。

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2008/12/17

木偶の坊としての身体

 朝起きるとわたしは石像と化していた。
 腰を曲げることはおろか、寝返りさえ打てない。
 ぎっくり腰である。
 二人Hを満喫するわけでもなく、一人Hに耽溺したわけでもなく、
 ただただ無為としてのぎっくり腰。
 なんでやねん?

 コ : ぎっくり腰とは何ですか?
 オ : 止核精神の反映です。。

 んなわけないやろ!!
 
 20日には東京へ発たなくてはならないので、
 用心をとって、このまま安静を保つことに
 プログの更新をお待ちの皆様は暫し待機されたし。

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2008/12/06

ラジオ出演

ひょんなことからラジオ番組出演の依頼が舞い込んできました。
FM東京の「Daily Planet」という番組で、
毎週月曜日〜木曜日 20: 00〜21: 30の放送です。
出演日は今のところ水曜日(10日)と木曜日(11日)の予定です。

テーマは「2012年問題」。

おそらく、ジャーナリスティックな視点からの話を要求されると思いますが、
ヌース脳のわたしが果たして無難にこなせるのかどうか。。。

最近は陰謀論なども交じって、2012年問題がカオス状態に陥っているので、
ここは一発、喝を入れてこようと思ってます。
でもあまり難しいことは喋れないな。。。
お行儀よく、過激にやってくるつもりです。

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2008/11/04

BETWEEN TIDES(ビットウィーン・タイズ)

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 マヤ暦関連の書籍を数冊出している高橋徹氏との対談の企画が決定した。主催者の意向でなるべく少人数でやりたいということで、小田急線の狛江駅のそばにある泉の森会館という小さなホールが会場に選ばれた。日時は12月20日の土曜日、午後6時半から9時半まで。3時間の長丁場だ。高橋氏とお会いするのは実に5年ぶりぐらいだろうか。きっとスリリングなイベントになるに違いない。今から楽しみでならない。

 イベントの詳細を知りたい方はこちらのベージへ→http://www.point0.jp/symmetry/exhibition.html

 高橋氏との初めての邂逅は確か1992年だった。そのときの様子は『2013 : 人類が神を見る日』に詳しく書いたが、当時の僕にとってこの邂逅は実に鮮烈な体験だった。ニューサイエンス系の知識一辺倒だったその頃の僕に、ブラバツキーやシュタイナー、さらにはグルジェフなど、20世紀思想の地下水脈とも呼べる世界の存在を教えてくれたのが彼だったからだ。

 当時、高橋氏の研究はマヤ暦(ツォルキン)を中心としたものだったが、マヤ暦が巷でブームとなるにつれ、本人自身、マヤ関連の動きからは身を引いていったようだ。その当時,いつも「マヤ暦のメッセンジャーとしての高橋徹という肩書きは持ちたくない」と話していたっけ。彼のオリジナル研究は大陽系の各惑星周期と人間の無意識構造の発展に潜む関係性を調べることにあった。占星学に言うように、人間の無意識構造と大陽系構造の関係をまずは自明のものとし、さらにそこに、公転や会合などの惑星周期と歴史的無意識の進展関係を時間的な比率の観点に立って構造的に明らかにしようとする野心的研究だ。彼の研究が現在どこまで進んでいるのかは僕は詳しく知らないが、当時でさえかなり精緻な理論構築に驚かされたものだ。今はおそらく常人の想像力が及ばないところにまで進んでいることだろう。

 あれから20年近くの月日が流れたが、彼の思考空間にヌーソロジーの入射角からアクセスできるかどうかはまだ不明だ。素粒子空間と大陽系空間の連結のルートがまだよく見えてこないからだ。ヌーソロジーの思考が大陽系空間に出て行くためには、身体空間の射程をまずは明確に捉える必要があると考えている。身体と大地は単なる物質的なエネルギー循環だけではなく、意識的にも分ち難く結びついており、その大地が一つの球体として出現している場所が大陽系空間なのである。実存的地球とでも言えばいいのだろうか、人類全体が意識している身体空間の在り処を僕らは深く掘り下げて思考する必要がある。回転が精神の象徴であるならば、大陽系とは人類全体の身体空間の奥にさらなる深みを持つ惑星的身体が具備している精神の表現の場として出現してくるはずである。

 その意味から言えば、現在の科学的な大陽系観は矮小極まりないものに堕している。コペルニクスの地動説以降、科学の目は常に世界視線となって地上を俯瞰するものとなってしまった。この世界視線が持った眼差しは、普遍視線(地上での人間が持つ等身大の視線)の中に育まれた人間の内在野での生活をことごとく隠蔽し、ごく表層的にしか事象を捉えることができていない。物質は常にその外皮に置いて分析され、物質の内的生活など存在しないと言わんばかりに、ただただ物理化学的知識のもとに記号の帝国を作り上げているだけだ。この記号の多様性は確かに饒舌だが、いかんせん概念がない。機械的な思考だけがまるでスケートリンクの上を滑る石ころのように単純な軌跡を描いて反復しているだけだ。そんなつるっ禿のような空間に大陽系を浮かべて分析したところで、大陽系はその深み方向にある本質を決して露にすることはないだろう。

 内在野に存在するn次元多様体として大陽系を捉えること。精神に内在する差異の連動系として諸惑星の回転を捉えること。これは身体空間の延長に地球空間や月空間を感じ取り、そこに生まれてくる身体的意義を通して、諸惑星の調和的運動を思考していくことに他ならない。満月や新月とは何なのか。白道とは黄道とは?そして、太陽はなぜ核融合の場となっているのか——etc。

 こうした問題まで語り合えるかどうかは分らないが、空間を思考することと時間を思考することの対称性が垣間見える場所が作れれば、まさに「BETWEEN TIDES」というタイトルにふさわしいイベントになるだろう。ぶっ飛ばしまっせ!!


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2008/09/27

英語版『人神』製本完了!!

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 やっと『2013: 人類が神を見る日』の英語版——2013: The day God sees God——の印刷が上がってきた。版元はnatural spirit International Publication。ナチュラルスピリット社の米国の事業所である。

 本の出来はとてもいい。ハードカバーで250ページ。日本版が365ページだったから、100ページほど短くなっているが、サイズはその分大きい。表紙デザインは今年2月に徳間書店から出た『2013: 人類が神を見る日/アドバンストエディション』と同じだか、英語タイトルは白抜き文字で周りにはレッドメタルの箔押しが施され、かなりクールな仕上がりになっている。さすがzatoさん(伝説の雑誌「zavtone}のチーフデザイナー)という感じだ。

 この翻訳本の出版はこのzatoさんと翻訳を担当してくれたカナダ在住のAkemiさんなしには語れない。zatoさんが2000年頃、バイリンガル雑誌だったzavtoneに『人神』の英語訳を第4章ぐらいまで掲載してくれ、その翻訳文を読んだAkemiさんが、もっといい翻訳をした方がいいとアドバイスをくれて、自ら、一年以上かけて翻訳にチャレンジ。その元原稿にネイティブのエディターが手を入れ、ようやくテキストは完成。しかし、今度は編集作業でいろいろな行き違いが生じ、装丁デザインや印刷でもトラブル続出。なんだかんだで、プロジェクト開始から2年以上の月日を費やしてしまった。

 しかし、難産の甲斐あって、ほんとうにいい本に仕上がりました。ナチュスピの今井さん、春山さん、そして、zatoさんにAkemiさん、ほんとうにありがとうございました。この場を借りて深くお礼申し上げます。

 この本が米国の書店に並んだら、今度は米国ツアーだな。向こうのニューエイジに日本発のcool spiritualismとしてのnoosologyをブチかましてきます。。。。って、わし英語できたっけ?

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2008/07/05

ブルックヘブンから本当のヘブンへ


 最近、Sさんという素粒子専門の研究者の方からメールをいただいた。何でも、1998年から2004年までアメリカの国立ブルックヘブン研究所で陽子・陽子衝突の実験などに実際に携わっていたそうだ。『シリウス革命』や『人神/アドバンスト・エディション』を読んで、ヌース理論の素粒子解釈にとても関心を持ったという。
 メールの中には「今後、素粒子の質量や寿命、構造関数などについての定量的予言能力を持てば、ヌース理論は急速に市民権を得ていくでしょう」という旨のことまで書いてあった。僕としてはちょっとした驚きだった。世の中は僕が思っている以上に変化を求めているのかもしれない。これほど柔軟な態度でヌース理論に接してくれる研究者もいるのだなぁ、とこちらが関心しているところだ。

 ゲージ理論研究者の砂子さんのときもそうだったが、こうした専門の研究者に応援メールをいただくと、正直言って、ほんとうに嬉しい。別に権威が欲しいからではない。僕自身、世界の変革は物理学者たちの頭の中を変えない限り不可能だと思っているからだ。物理学は量子論以降、すでに物の理を説く学問から空間の理を説く思考形式に変移している。しかし、その空間の理が何を意味しているか分からないために、仕方なく、旧態依然とした物質概念をそこに重ね合わせている。もうじきだ。あと、ちょっと。そこに意識を盛り込むアイデアが導入されてくれば、物理学は空間という媒介を通して意識の学問に変わることができるのだ。醜いアヒルの子が白鳥に変身する日。そのとき、意識と物質はめでたく婚礼の儀式を執り行なうことができるだろう。これがヌース理論が解釈するペンテコスタ(聖霊降臨)だ。そのとき、世界のあらゆる場所に、世界のあらゆる街に、世界のあらゆる部屋に、聖霊たちが舞い降りてくる。その聖霊とはほかでもない。次元上昇を始める僕たち自身の魂のことである。なんちゃってね。

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2008/04/11

だるまさん

先々週より愛用のPowerMacが突然クラッシュ。
Leopardを入れてから、ずっと調子が悪かったのだが、
騙し騙し使ってきたのが、まずかった。
いきなり、立ち上がらなくなったのだ。
サポート・センターといろいろすったもんだした挙げ句、
結局、すべて初期化するはめに。。

タイムマシンというやつでデータのバックアップはしていたので、
最悪の事態は免れたkのだが、
初期化後、Leopardを再インストールしようとしたが、入らない。。
再度、サポートに問い合わせ。
しかし、サポートセンターも原因がよくわからないと言う。
Power Mac G5はMacの現行の一連のシリーズで使われているintelのプロセッサーじゃないので、
Leopardと相性がよくないのかもしれない。

結局、Tigerを再インストールして応急処置をした。
しかし、今度は、タイムマシンのデータが読み込めない。。
メールデータも、フォントも、完全にコピーされない。。
製作中の広告データも文字化けでダメ。。
うぐぐぐ。。
こりゃあ、ストレス溜まるわ。

そんなこんなで、ブログも一時的にお休みしている状態です。

あと一週間ほどでLeopardの新しいディスクがサポートセンターから送ってくる予定なので、
Macが正常化次第、また、ブログ、アカデメイアサイト、の活動を再開します。

それにしても、コンピュータは機械じゃないな。
これはもう完全に身体だ。
コンピュータが使えなくなると何だか手足をもぎとられたような感覚に陥ってしまう。
もちろん、私生活ではPCを先手に人生を送っているわけじゃないが、
仕事は完全にお手上げ状態。。

まぁ、ヌースの世界にどっぷりはまる口実にはなるのだが(^^。。

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2008/03/21

カフェネプ復活

Angelic

ボクの現実から見ると、人間の文明の進歩というものは、
まるで廃墟の積み重ねのように見える。
ボクたちは何とかこの廃墟のガラクタを片付けたいと思っているのだけど、
人間たちが作り出す文明の進歩によって巻き上がる強風が翼を煽って
邪魔をするので、なかなか思うようにいかない。
(ある天使のモノローグ)

天使的に生きようとするのはとてもしんどい。
もちろん、天使的という言葉を当の本人が使った時点で、天使的ではなくなっているというのは百も承知だけど、やっぱり、天使的に生きようとするのはしんどい。

そんな理由もあって、
今から、約2年前の2006年2月28日に、
ヌースアカデメイアの談話室「カフェ・ネプチューン」を閉鎖した。

閉鎖=クローズすること、連続性を断つこと、鉄の鎖で門を閉ざすこと………嫌な言葉だなぁ。
あらゆるものは呼吸を行なっている。
あらゆるものは交換を行なっている。
あらゆるものは書簡を交わしている。
同じところ、同じもの、同じこと、の中にクローズすることは、やっばり、あらゆるものからの逸脱を意味するんだな。。。
ヌースは双子の天使の眼差しの交差の中に育っていくものなのだから、
やはり、そこには語らいが必要だ。
あらゆるものを媒介する水の精神を大地に蘇らせること。
水引だ——。
そこで、また考え方を変えた。

本日から、カフェ・ネプチューンを再開します!!

ヌースアカデメイア日本語フロントページの「ATRIUM」から入れます。
今すぐカフェネプに入店されたい方はこちらをクリック→[Cafe Neptune ver.2.0]

4、日記風エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/06

ヌースアカデメイアの半田です。

Hi昨日はサイトの方にUPする「ごあいさつビデオ」の撮影を行った。場所はオフィス内にある僕の部屋。
最初は4~5分ぐらいの簡単な「こんにちは/よろしく/じゃあまたね」的ビデオにしようと思っていたのだが、話しているうちに、何か話がいつものレチャー風に。。あわわ、いかん、いかん。難しい話は初っぱなは禁物。横道に逸れるなよ、こうせんくん。ありゃま。気がついたら15分以上話してました(^^)。

それにしても、オーディエンスがいないところでのモノローグはやりにくいなぁ。人間はやっぱ他者がおらんといかんね。あんなこんなで15分の丈になったものだから、結局、締めが必要になっちまった。。。で、ニューヌースアカデメイアのマニフェストを朗読することに。。あ〜ん、こんなことなら練習しておけばよかった。。。

ってなことで、ビデオメッセージ、見てやって下さい。

半田広宣ビデオメッセージ001
(※ビデオメッセージをご覧頂くにはQuickTimePlayerが必要です。)

サイトの方からは日本語フロントページの「profile」をクリックすると入れます。
僕としてはこちら側から入って、BGサウンドをそのまま流しながら見てくれるとうれしいかな。。
話のリズムのなさをビートが補ってくれてるからね(^^

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2008/01/30

ヌースアカデメイア新公式サイト、オープン!!

Academeia_top『2013 : 人類が神を見る日/アドバンスト・エディション』が刷り上がってきた。表紙のタイトルがでかすぎるのがちょっと気になるが、とにかくおめでたい。本が刷り上がってきたときのインクの臭いや、各ページの紙のエッジの手触り……これは何度経験してもいいものだ。
 今回の本はベージ数をいたずらに増やせなかったので、限られたページ数の中でヌースの基本概念をどうまとめるか、その点にかなり苦労した。3次元モデルを使っても説明しにくい4次元空間を2次元上の紙媒体で挙行するというのは、毎度のことながらヌース本の宿命でもあるのだが、やはり何度試みても難しいものだ。

 追補原稿はオリジナル版の内容と今後のヌース理論の展開を考慮した上でトランスフォーマー型ゲシュタルト構成の基礎部分に絞った。今後、この追補部分に沿って様々なテキストや映像コンテンツをサイト上で公開しながら、ヌース理論が提唱するハイパーな世界観をゆっくりと世の中に浸透させて行ければと思っている。インタビュー映像や3Dアニメーションなどもいずれ登場してくることになると思うのでお楽しみに。。

 というとことで、長い間休止していたヌースアカデメイアの公式サイトが『人神』再版に合わせて本日オープン。
 制作責任者はスタッフのdieforくん。建築家志望の弱冠25歳の若者だけあって、クールなインテリジェンスを感じさせる出来上がりになっている。

 ヌースアカデメイア公式サイト→http://noos-academeia.com/index.html

 新サイトオープンに伴い、旧NOOS ACADEMEIA公式サイトはそのままアーカイブとして残されが、今後は上記のアドレスがNOOS ACADEMEIA公式サイトとなるので、新サイトをちょくちょく覗いてみたいと思われる方は、ブックマークの再登録のほど宜しく。

 何はともあれ、リスタート。若い骨のある連中がたくさん集ってくれるサイトになるといいなぁ。

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2008/01/18

新『人神』カバーデザイン

Cover_new_edittion

 一昨日、東京出張から帰福。今回は徳間書店の本社に顔を出して、T編集長と入稿前の最終チェックを行なった。今回の再版版はページ数を減らすために、オリジナル版より一回り文字が小さくなっている。これも第二部として書き加えた「トランスフォーマー型ゲシュタルト/ベーシック・プログラム」のページ数が予定をはるかにオーバーしてしまったからだ——。

 最近は本当に本が売れないらしい。単行本はビッグネームでも5万部いけばいいところで、ほとんどの出版社は文庫本で食いぶちをつないでいるそうな。出版社としては本が分厚くなるのはそれだけで読者が手を伸ばしにくくなるし、価格的に高くなれば一層、手は縮こまる。結局のところ、いいところは何もナシ。

 最初は40〜50ページほどの増補予定だったのだが、いざ書き出してみると、とてもそんなもんじゃ追いつかなくなってしまった。ヌース理論の場合、レクチャーでもそうなのだが、空間概念の変更を扱う理論なので、部分的に紹介しても「何じゃ、こりゃ?」とか「訳わからん」とかいうレスポンスしか返ってこない。そこにある程度の説得力を持たすためには、何かしらの全体像を俯瞰して見せないと、にっちもさっちもいかなくなってしまうのよね。結局、書き上げてみると、もとの本にして150ページ近い増頁になってしまった。文字のポイント数を下げ150ページをどうにかこうにか120ページにまで凝縮。それでも「第一部(オリジナル版)」と合わせて450ページ以上はゆうにある。こりゃ、あかんばい。。あわわ。

 その結果かどうかは知らないが、カバーデザインのタイトルロゴは無茶苦茶「分り易そうな」本に見せようというネライなのか、ご覧の通り、ほとんど小林よしりんの「ゴーマニズム宣言」のようなコミック本の乗り。最初は「えっ………」と絶句してしまったが、何度も眺めていると、これっていいかも。。。って気になってきた。

 原稿に書かれた文字は今頃、印刷会社の輪転機の中をグルグルと回っているところだな。回れ、回れ、ヌースよ回れ。この『人神/アドバンスト・エディション』の波及力は今までのヌース本の中では一番のものになる予感がする。。。。なるといいなぁ。。。なるかなぁ。。。ならないか。。。(^^)

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2008/01/10

第弐号機、完成!!

Ncg1_2 コイル巻きで難航していたNCジェネレーターの弐号機がようやく完成した。
 昨夜は早速、試運転。こりゃきれいだべ(スタッフの大法くんによる撮影)。。
 初号機と弐号機の大きな違いは、「七の機械」と「八の機械」という愛称の違いが示すように、ヌース理論でいうところの等化をψ7まで顕在化させたか、ψ8の中和まで顕在化させたかの違いである。現時点の推察ではψ7とψ8の次元はそれぞれ物質の基盤となっている陽子と中性子と深い関係を持つと考えている。要はNCジェネとは原子核のカタチの中に僕らの認識を潜入させるフォローアップ・デバイスなのだ。うひ。

 陽子や中性子は決して仁丹の粒を小さくしたような「物体」ではない。それはたぶん宇宙全体の輪郭が高次の幾何学性として3次元上に射影されて現れたものだ。超ミクロの球面鏡のようなものと言っていいのかもしれない。。ミクロとマクロは4次元空間で繋がっている。そして、そのジョイントとなっている4次元空間というのがほかでもない、僕ら人間の知覚野だ。

 点と天の間を橋渡しする知覚野としての「わたし」。もちろん、この4次元の通路である「わたし」はたくさん存在してるけど、こやつらはこやつらで今度は5次元で全部つながっている。意識はそういった空間の中を縦横無尽に駆け巡り、グルグルと追いかけっこしている。この機械は、その一連の運動経路を電子に丹念になぞらせて、一つの幾何学的運動体として人間の空間に表現したものだ。イデアの形を掘り起こし、それを削り出すこと——だから、これはイデアの彫刻と言ってもいい作品なんだな。。

 「八の機械」の完成で、とりあえずマトリックス部分は彫り上げた。これはイデア空間の入口がパックリと口を開いたことを意味するんだけど、ずっと覗き込んでいると何か次元ミキサーみたいに見えてくるんだな。材料は言うまでもなく「わたし」と「あなた」。そしてスパイスとして善と悪を少々。材料になってこの中でかき混ぜられてみたい人は是非、『人神/アドバンスト・エディション』を読んでみよう。おいしいお好み焼きが焼き上がるといいげと。。

 結局、本の宣伝したかっただけなのねんのねん。コウセンちゃん。

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2008/01/08

新年のごあいさつ

God
 年末、年始と『人類が神を見る日/アドバンスト・エディション』の校了に追われていた。10年のタイムラグがある二つの原稿をスムーズにジョイントさせるのはなかなか難しい。このアドバンスト・エディションでは約百ベージほどある付録原稿を「第二部」として付加しているが、内容のほとんどは、旧『人神』ではごくアバウトにしかイメージできていなかった4次元知覚について書いている。ヌースでいう次元観察子のψ1〜ψ8までの詳細な解説だ。んでもって、タイトルはその名もズバリ「トランスフォーマー型ゲシュタルト・ベーシックプログラム」。うへぇー、プログラムなんかされたくないよぉー、という言葉も聞こえてきそうだが、2013年以降開かれてくる新種の空間を覗いてみたい人は是非読むべし。

 そう言えば、年末の28日に福岡気功の会の会長、山部嘉彦氏の主催で福岡ヌース同窓会があり、そこで3年ぶりにミニレクチャーを行なった。そのとき、この付録原稿の内容の障りを少しだけ披露してみた。反応は上々。昔よりもはるかに分かりやすい、無茶苦茶、面白い!!そういうことだったのか!!といったような感想があちこちから聞こえてきた。

参考→http://www.f-homeservice.jp/article/13228817.html

 ほっ。よかった。よかった。依然、牛歩の歩みではあるのだが、ヌース理論は着実に成長している。。。

 それにしても、久々にレクチャーをやってみて分かったが、ヌース理論が提案する4次元認識は3次元認識とは隔絶の差があるなぁ。。。こやつらははっきり言って同居不能だな。全く別棟の住人。要は比較できるものではないということ。人間としての「わたし」は「わたし」でいい。否定する必要はどこにもない。「わたし」は何も変わる必要はない。毀誉褒貶の社会生活の中で平凡な自我として普通に泣き笑いしていればそれでいい。4次元認識として生まれてくる新たな意識は自我から切り離された全く別の生き物であり、それはおそらくすべてのペルソナを引っぱがした純粋な思考物体だ。実存的なもののみが獲得していく新たなる空間の領界。イデアとはそういう類いの空間の中に構築されていくものでなければならない。左手に自我を、そして右手にイデアを。もしほんとうにイデアというものが意識に発現してくれば、世界はおのずと姿を変えて行く。それまでは水の中の鏡像を楽しもう。それが次元両生類の生き方だ。

 何はともあれ、2008年、おめでとさん。

(上写真は「人神」英語版の表紙)

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2007/12/17

八の機械、到着!!

 八の機械、到着………と思いきや。
 
 今日は午前中に「人神」のリニューアル版の第一回目のゲラ校正を終え。午後からNCジェネレーターver,1.1(通称、八の機械)の駆動部の搬入作業を行なった。総重量100kgをゆうに超えるステンレスの塊を4人がかりで反応室へ運び込み、さて、コイル部を装着と思いきや、なんといきなり機械がショート。テスターで調べてみたところ、なんとコイルの内部がやられてしまっていることが判明。。。。コイルを巻くときに巻き方が途中で分からなくなって、再度、巻き直しをやったためにどうもポリエステルの皮膜がどこかで禿げ落ちて、コイルフレームと接触してしまったようだ。。うぐぐ。。また一からコイル巻きのやり直しじゃ。泣きが入る。

 しかし、せっかくの搬入日に機械の性能を見れないのも癪だ。ここはコイルなしで一発試運転するっきゃない。いやぁ〜快調、快調、モーターもかなりでかいのに変えたので、回転が早いこと、早いこと。それにダイオードの数を増やしたせいもあって明るいこと、明るいこと。コイルが装着されれば、このダイオードにはヌース化された電流が流れ込むことになる。。とにかく、じっくり攻めるべ。

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2007/12/14

コイル巻き

 来週、NCジェネレーターの弐号機(ver,1.1)が出来上がってくる。初号機(ver,1.0)よりも出力も高く、垂直軸回転のrpmも初号機の3倍をゆうに超える性能を持っている。遠心力によるブレを防ぐためにかなり重さも増しているが、安定感があり、かなりの高速回転でもなんとか行けそうだ。初号機は「七の機械」というニックネームをつけたが、その路線で行けば今度のやつは「八の機械」とでも言えばいいのだろうか、とにかく、これでヌース理論でいうところのψ1〜ψ8までの次元観察子をすべて等化することのできる装置が完成することになる。

 この弐号機には新しいコイルを装着する。このコイルが曲者で、導線の巻き方を一つでも間違えれば共振力は望めない。かなり複雑な巻き方なので、まずは頭の中で何度もトレースし、次にタコ糸でシミュレーション、そして本番という段取りを組む。というのも、銅線は極めてもつれやすく、一度もつれてしまうと、切れてしまう恐れがあるからだ。スタッフのT君、D君にも手伝ってもらってどうにか三人掛かりでコイル巻きを終了。来週の搬入が楽しみだ。

 「8」という数はヌース的に言えば、あらゆる存在の母胎となるキーナンバーである。古事記に登場する「八尋殿」や空海の胎蔵界曼荼羅の中央に位置する中台八葉院、さらにはドゴン族のシリウス伝説もこの「八」という数字を巡って展開する。ヌースでは「7」は精神の象徴数、「8」は付帯質(物質)の象徴数として考えるが、その意味で言えば、ようやくジェネレーターの方も両輪が揃ったことになる。装置の次元が「8」番目の位置に到達したことで、実験結果にもより期待が持てるかもしれない。

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2007/12/08

Starting Over

ようやくブログを書く気分になった。
ふと、カレンダーを見ると今日は12月8日。
ジョン・レノンの命日じゃないか。。。
今日は、「Starting Over」を流し続けよう。
再出発だ。

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2007/07/08

今後のプラン

_dsc2405昨日、今日と武蔵野学院大の高橋学長を福岡にお招きして、今後のヌースの展開について話し合いを持った。9月には「人神」の英語版が米国で出て、続いて10月〜11月には「人神」のリニューアル版が徳間から出版される。それに合わせて、ヌースアカデメイアのサイトをバイリンガルでリニューアル・オープンする予定だ。オープン時のコンテンツは、とりあえず、旧アカデメイアのコンテンツの中から重要と思われる記事を再編集して構成するに止まるが、更新時には3DアニメーションやVideoコンテンツをふんだんに用い、より分かりやすい理論解説を心がけようと思っている。すでに社員のdieforくんが専任スタッフとして制作に当たってくれているので、ポシャることはまずない。

 僕の方は、それに並行して、現在、頓挫している「THE NOOS(ヌース理論本論の本)」の執筆を完遂しなくちゃならない。こちらが曲者だ。執筆を開始して早3年が経過した。しかし、まだ納得いくように書けていない。本論ということでの力み過ぎが原因だ。読み直しても面白くないのだ。とにかく納得がいくまでリライトを繰り返している。う〜む、こうなったら徹底的にやってやる。。

 これらの作業が一段落して、武蔵野学院大とのコラボに入ることになるだろう。この2日間の学長との話し合いで、とりあえずは大学の出版局から「THE NOOS」の内容をさらに掘り下げて解説する小冊子全集(何冊になるかは分からない)を発刊していこうということになった。計画通り行けば、ヌースに接するアイテムが飛躍的に増加することになる。

 高橋学長としては、ご本人が政治思想の専門であるということから、どうしてもヌースを思想のシーンに引っ張り出したいようだ。しかし、コテコテの思想のスタイルを取ると、クローズしてしまう。さてさて、ヌース理論がどのようにお行儀よくメイクアッブされて、学問の場に登場してくるのか、その化け姿が今から楽しみだ。

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2007/07/01

ブログ再開!!

 4月5日から約3ケ月。久しくブログを空けた。理由はいろいろある。ヒジョーに忙しいので、近況を伝える短めの書き込みが多くなるかもしれないが、とにかく、再開だ。

 この秋に「2013: 人類が神を見る日」の英訳本が米国で出版されることはすでに以前話したが、いよいよ英訳も上がり、現在ブックデザインの煮詰めに入っている。ディレクターはzavtone元編集長のzatoさんに依頼した。なかなか面白い展開になりつつある。

 米国出版に合わせて、徳間書店からも10年ぶりに「人神」がリニューアルして再版される。T編集長の話では何でも徳間の超知シリーズに入れたいとのこと。以前から書き続けているコアな「THE NOOS」の方はちょっとお休みして、現在はこのリニューアル版の方の加筆作業に取り組んでいる。まぁ、ちょっと助走をつけて、本丸をド〜ンとぶちかまそうという算段なのだが、このリニューアル版だけでも100ページほどの増ページになるかもしれない。

 とにかく原点に帰ろう。原点に戻って自分のサウンドをかき鳴らすこと。

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2007/03/22

客員研究員

P1000175
 ヌース理論が大学でも活動の場を持つことになった。今週の月曜日に、武蔵野学院大学の客員研究員の任命を受けたのだ。あっという間の出来事だった。きっかけは、今年の1月半ば届いた一通のメールだった。差出人は武蔵野学院大学の学長であるT氏。なんでも、最近、ヌース理論の関連本3冊を読み、その思想内容に大変共感を持ったということで、今後のヌース理論の活動にいろいろと協力させて頂きたいという申し出だった。正直、嬉しかった。ヌース理論は出自が出自だけに一般的にはまだ白い目で見られがちである。大学を拠点とした活動など、まだまだ先のことだろうと思っていたからだ。

 最初のメールから二週間後には、T学長は激務の時間の間を縫って福岡に来られた。食事を供にしながらヌース理論の将来の展望を大いに語り合った。T学長は大学という場を通して、世間一般に広くヌース理論を啓蒙していき、かつ、一方で、アカデミックな世界にも徐々に進攻させて行きたいとお考えのようだった。現在のヌース理論にどのくらいの力があるかは分からないが、僕はこの提案を躊躇することなく受け入れた。波がやって来たときには乗れ。万が一、溺れたときは、とことん溺れろ。それが僕のポリシーだ。

 ただ、僕は難解なものを分かり易く啓蒙していくというスタイルはあまり得意ではない。同時にアカデミックな表現に関しても専門的な教育を受けたことのない僕にはどこまで表現できるか未知数ではある。だから、現時点でのヌース理論が大学という場で何をやれるのかは分からない。しかし、10年後には確実に何らかの芽が育っていることだろう。それだけは自信と確信がある。

 東京都内にある学園本部で授与された客員研究員の任命書には次のような文面がしたためられていた。

——貴殿は独自の宇宙観や人間知覚の把握更に古代から現代までの先哲の思想を広く網羅した「ヌース理論」を展開しておられます。心や精神を重視する時代の中で今後益々貴殿の思想哲学を打ち立てる理論の場は広がることと推察いたします。つきましては右の職務に任命し大学という学術の場で活用を深めて頂くことをご期待申し上げます。

 この場を借りて、T学長のご厚意に対して衷心よりお礼申し上げたい。

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2007/03/11

レクサスの男

 近くのmakiiという店に買い物に出かけた。makiiは24時間営業の店で、東京でいうならkinokuniyaのような高級スーパーだ。まぁ、スーパーほど大きくないので、高級コンビニといったところか。夜中、ヌースをやっていて腹が減ったりすると、オレはmakiiに出かけて、サンドイッチやいなり寿司などを買ってくる。もう10年以上も通っている常連客だ。

 そんな常連のオレが今日はしくじってしまった。いつものように買い物を終え、車を出すときに、傍に停車していた別の客の車にぶつけてしまったのだ。ガツッ。鈍い音がして、しまったと思って車を降りてみると、オレの愛車の黒のBMWの右前方部分が、横に止めてあった白い車の左後方を大きく傷つけている。白地に黒だからよけい目立つ。うぐぐっ…やっちまった。白い車のケツの部分のロゴを見ると、、LEXUS。。。よりによってレクサスかよぉ〜。。周囲を見回したが幸いなことに目撃者はいない。その間数秒だっただろうか。悪魔と天使がオレの左脳と右脳の間で何やらささやき合っていた。

——おい、逃げちまえよ。あのくらいの傷、どうってことねぇ〜ぜ。あんなデカイ車をラインを越えて停めてるヤツの方が悪いんだよ。ありゃ高級車だろ。金もかかるぜ。な、逃げちまえよ。

——どんな些細な悪も、アンタの魂を濁らせる。どんな些細な一場面もアンタの人生全体の縮図だ。ここでフケたら、アンタは人生のあらゆるヤバイ局面で逃げ癖を身につけちまうことになる。そんな、しょっぱい人生はいやだろ、なぁ、コウセンさんよ。

オレは迷わず天使のささやきの方に一票を投じた。

 店に再度入ったオレは、一目散にレジへと向かい、店員にレクサスの客を探してもらった。すぐに高そうなスーツに身を包んだ紳士風の中年男性が出てきた。まさにレクサスの男然としている。

「すみません。車をぶつけてしまいました。」
「え〜っ、どこにぃ〜!!」

駐車場に案内したオレは詳しく状況を説明して、レクサスの男に平身低頭、謝った。

「しようがないよ。それにしてもあんたいい人だねぇ〜。今まで何度も当て逃げされてるけど、あんたみたいに謝ってきた人は初めてだよ。」

 オレの謝り方がよほど潔かったのか、レクサスの男は被害者のはずなのになぜか妙に機嫌がいい。その笑顔を見て、なぜか加害者のオレまで気分がよくなった。

「事故証明取れば、保険で修理費は出るから、とりあえず警察を呼んだ方がいいな。」
「はい、わかりました。」

 オレはすぐに携帯で警察を呼び、事故の記録を取らせ、無事、一件落着。警察が来ている間も、その中年男性と警察官とオレは終止、和やかに談笑を続け、世間話に花が咲く。

「ねぇ、おまわりさん、わたしとこの人どちらが若く見える?」

 免許証の見せ合いっこをして、オレと互いに同じ年だと分かったレクサスの男は、上機嫌で若い警官に話しかける。

「こっちの人ですかね。」

 一寸の躊躇もなくその警官はオレの方を指差した。自分の若々しい容貌によほど自信があったのか、レクサスの男は、急に口を閉ざした。

「僕はいつもジーンズですから。。」

 そうやって、フォローしたが、レクサスの男はちょっと悲しそうな顔をして「修理の金額が分かったら、また連絡するから。」と言って、そそくさと車に乗り込んだ。オレは車が見えなくなるまで頭を下げ続けた。

 傷つけた車はレクサスの中でも高級クラスだ。かすり傷でも軽く二十万ぐらいは請求が来るだろう。お金は保険で降りるが、たとえ、自腹で払わなくてはいけなかったとしても、この出来事はオレをハッピーな気分にさせてくれたに違いない。生きることにおいて最大の美徳は「正直であること」。それを再確認させられた夜だった。

※オレってこんなにイイ奴なんだぜぇ〜、という類いの話にもし聞こえたら、すみません。レクサスのお方、わたしの不注意のために時間を使わせて申し訳ありませんでした。

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2007/03/01

「260」の夢

 昨夜、久々に数字の夢を見た。「260」の夢だ。

 映画「CUBE」に出てきたような純白の立方体状の空間に膝を抱えて座っていると、突然床に穴が開いた。下を覗き込むと、火山のマグマのようなものがぐつぐつと煮えたぎっている。ところどころ黒く岩石が交じっていて、その一つ一つに「20」と番号が振ってある。

「なるほど、地球の内部は20でできているってことだな。20がオレたちの存在を支えている。。。」

 オレはさも当たり前のように合点し、再び、部屋の隅に座り込んだ。すると、シューっと音がして床の穴は閉じ、閉じるその瞬間、一個だけ弾き出された岩石がゴロン、ゴロンと床を転がっていった。そして、カベにゴツンとぶつかった瞬間、それは水晶の髑髏に変わった。真っ白い無機的な立方体状の部屋の中で、√2エッジラインに沿って向かい合うオレと水晶の髑髏。。。その額にはあの「20」という数字が刻み込んである。

沈黙に耐えられなくなったオレが先に口を開いた。

「アンタか、神は。」

「そうだ。」

「何でここにきた。アンタの居場所は地下のはずだろ。」

髑髏は首を横に振った。

「上を見てみろ。」

髑髏に指示されて、上を見上げると、今度は天井に大きな穴が開いていた。中を覗くと、漆黒の空間に巨大な銀河が渦巻いている。

「あそこに行く。」

髑髏は無表情に言った。

「地球から銀河に渡るというわけか。」

「そうだ。13を作るためにな。」

「20を持って、13に着手。。260か。」

オレは無表情に聞いた。

「そうだ。260だ。」

「じゃあ、オレはいくつなんだ?」

「今まではゼロだった。今は1だ。」

「つまり、アンタの20によってオレの1が支えられているってことか。」

「まぁ、そういうことだ。とにかく、下に20、上に13。それを忘れるな。」

髑髏はそう言って、ゆっくりと浮かび上がり、銀河の渦の中に消えていった。


〈ヌースからの解説〉
 僕ら人間の意識システムを背後で支えてきた「プログラム20」はまもなく役目を終え、「プログラム13」を始動させ始めている。コード名で言えば、オリオンからアルクトゥルスへ。この無意識のプログラム・シフトによって、人間の意識はプレアデスからシリウスへとディメンションシフトを敢行し始めることになる。シリウスとは「プログラム20」へのゲートウェイである。「プログラム20」は「ブログラム13」と「ブログラム7」の両方を内包したハイブリット・トランスフォーメーションプログラムの別名である。

 さて、この夢の最も大きな教訓は何か——それは、まもなく訪れる神は天からはやってこないということである。天からやってくる神は人間を地上に生み出した神だ。そういった神は、人間を地上から地下へと封じ込めて行く。人間を星へと帰還させていく神は、天からではなく地下からやってくる。そのことをくれぐれもお忘れなきよう。

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2007/02/26

無事に戻ったかな?


 先週の木曜日の夕方から発熱。金曜日、土曜日と布団の中でうずくまっているところ、一人の若者が事前に何の連絡もなく、突然、我が家にやってきた。ヤツはミュージシャンでヌースの熱烈なファンでもある。5年程前にとある事情でヌースから泣く泣く離れ、それから音信不通となっていたが、よりによってこんなときに突然やってくるとは。。

 どうやら無一文のようだ。とにかく家に上げてメシを食わせた。オレもとても人と話ができる状態ではないので、その夜は事務所に寝床を作って泊まらせた。

 翌日、フラフラの体でヤツをうまい定食屋に連れて行き、その後、わざわざ博多まで何をしにやってきたのか話を聞いてやることに。。

 よりによってこんなにヨロヨロのときに、こんなにタフな話を持ってきやがって。。

 約6時間余りの説得工作の末、ヤツに実家に戻ることを承諾させる。そのまま博多駅へ直行。新幹線の切符を買って持たせ、ホームまで随行。電車に乗せたあと、わざと先に帰るふりをして、ヤツをホームの陰から監視。案の定、発車前に車両から降りてきやがった。「こら、乗らんか!!」オレの姿を見るなり、逃げ込むように列車に舞い戻る。その姿を見て少し安堵を覚えた。まだ奴には恥や良心が残っている。。そして、発車。列車が出たあとも、とりあえずホーム全体を確認して、一仕事終える。

 詳しくは語れないが、全くハードな一日だった。うっ、熱がすげぇ。しばらく寝る。

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2007/01/05

新年おめでとうございます。

「cave syndrome」をご覧の皆さん、明けましておめでとうございます。
 今年も部分的にではありますが、ヌース理論の現在を少しづつ紹介していきたいと思っていますので、何とぞ宜しくお願いいたします。

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2006/11/26

「2013:人類が神を見る日」 米国出版決定!!

 Book_jinkami「2013:人類が神を見る日」のアメリカでの英訳出版が決まった。順調に行けば来年の夏当たりにはアメリカでヌースがデビューすることになる。
 翻訳はカナダ在住のAさん、ブックデザインはzavtoneのzatoさん、版元はN社。日本のスピリチュアル関係の書籍がアメリカで売れた前例はないが、年間書籍売上高はアメリカの場合、日本の5倍以上あるという。ことスピリチュアル関連の図書に関しては10倍近いとも聞いた。日本でこの10年間に3万部程度の売り上げを示したこの本がアメリカでどの程度、数字を延ばすか楽しみではある。まあ、捕らぬタヌキの何とやらではあるが、部数そのものよりも、ヌース理論のような考え方が向こうのニューエイジャーにどの程度受け入れられるか、それを是非見てみたい。

 ヌース理論の思想的背景は徹底したヘルメス主義である。「上にあるがごとく、下にかくあり。」物質の世界はすべて精神の世界の影であると考えるわけだ。現在、科学はこの宇宙がビッグバンから始まり、原子、恒星、惑星、生化学物質という生成のルートを辿って人間が出現してきたと考えている。ここで展開されている進化のイメージはすべて物質的表象を用いたものだ。ヌース的思考ではこれらのシナリオはすべて精神進化の物語へと置き換えられる。つまり創造のプロセスは不可視の意識的流動の中で起こったと考えるのだ。であるから、素粒子に始まる原子、分子、物質、恒星、惑星、生物等の物質的存在もすべて意識の影である。それらがどのような意識的様態であるのか、そのすべての対応性を読み解いて行くのがヌースの醍醐味だ。そして、その読み解きの過程がそのまま新しい創造へとつながっていくと考える。その意味でヌース的な思考に入ったときには新しい創造期が始まった、とも言える。創造のプネウマの光はまだ原初の小さな小さな点滅にすぎないかもしれない。しかし、この先確実に生命樹を照らし出す発光体へと成長していくことだろう。

 時空内で流動する万物を創造した神的な精神。そういったものが存在していると仮定しよう。この精神が創造されたものの外部にいるのは当たり前である。創造は時空の外部で為されるものなのだ。言い換えれば、創造された世界とは時空を超えた場所で蠢く何らかの力能の所産でもある。だから、創造について想いを馳せるには、僕らは時空の外部に出なければならない。その時空の外部は、現代科学では皮肉にも内部空間と呼ばれている。そして、そこは素粒子の構造が記述されるある抽象的な空間となっている。 時空上の一点一点に張り付いたこの内部空間こそが、楽園への扉である、というのがヌースが10年以上も前から行っている主張である。マクロを支配する時空は素粒子においてミクロと接合している。この結節に存在させられているのが人間という存在なのだ。

 内部空間は数学的には複素数で表される空間なので、自然現象を実数でしか把握できない科学的知においては、その対応物を見出すことができないでいる。しかし、それは空間に対する認識が実数側に偏っているからにすぎない。虚空間に対応させることのできる空間は現実に存在する。いや、むしろ、その空間の方が僕らの現実と言っていいものだ。

 実空間——想像的なもの。虚空間——現実的なもの。想像的なものと現実的なものの共同作業ですべての認識は形作られて行く。内部空間の本質は僕らが「前」と呼ぶところにあり、時空の本質は僕らが「後ろ」と呼ぶところにある。前は実像であり、後ろは鏡像である。前の集合としての空間と、後ろの集合としての空間の差異が見えれば、時空と内部空間の問題は一気に解決する。水の鏡の中から抜け出すこと。想像的自我の位置から真の主体の位置へ一気に反転を挙行すること。僕らは地上にいるのではなく、天にいるのだ。

 オカルティズムの本場である西洋文化圏においてヌースの跳躍の技術がどのように受け取られるか、今から楽しみだ。

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2006/11/17

ヘッドハンターのひとりごと

Uamb人間の頭をいかにして刈っていくか。それが問題だ。頭は世界を観察するための中枢のように考えられている。brain in the pod——容器の中の脳みそ。脳は確かに精神の映し絵となるものだろうが、脳に意識の本質なんてものはありゃしない。頭蓋骨を切り開いて、自分の脳みそを皿の上に乗せる。神経の束だけは切断せずにおこう。眼球が捉える数ポンドの灰白質のかたまり。こんな白子の中にオレの魂が詰まっているなんて笑わせてくれるじゃないか。湯通しでもして、ポン酢につけて食っちまえ。

 脳が自分の脳を物質的なものとして外部に見出すとき、認識はどのようなループを持って、脳の外部と内部をつないでいるのか。意識で言う内部とは単なる容器の内部のようなものじゃない。そろそろこのクソ狭い内部から脱出したくないか。窒息しそうだ。それにしても人間はどうして自分の頭部を世界の中心に置きたがるんだろなあ?対象世界を観察する能力が観測者たる主体の定義であるとするなら、主体は観測している現場そのものの中に敷衍して存在しているのじゃないか?オレはそう思えてならないが。

 試しに周囲をグルリと見回してみろよ。今のアンタにゃ際限なく空間が広がっているように感じるだろうが、それってひょっとしておまえさんの頭の中じゃないのか?おまえさんがいる場所とその周囲に広がる無際限の空間の果てをおまえさんは区別できるのか?できるというなら、おまえさんはもう終わってる。宇宙っての巨大なフルヘルメットなんだぜ。その際限のない空間の果てを科学者たちは特異点などと呼んで気どってやがるが、それがアンタがいる場所じゃないのかって言ってるんだけどな?はるか彼方の球面が一気に点に化けちまって、宇宙そのものだったアンタがちっぽけな頭に変えられちまった。。なぁ、とるに足らない点のアンタよ、自分を点に縮めて一体何がやりたいんだ?貯金か?センズリか?ちっ、全くやってられねぇーぜ。だいたいアンタは人の目を気にしすぎるんだよ。たくさんの目がフルヘルの中心に向かって、君とか、あなたとか、オマエとか、テメェーとかいろいろ言ってくるだろ。お人好しのアンタは、そうした無数の他者の視点の交差点に焦点化された存在を自分だと思い込まされてしまっている。そんな焦点なんぞ早くバラしちまいな。あんたの居場所はもっと神聖なところにあるんだせ。科学者たちは宇宙の始まりの場所とか呼んでるけどな。ほ〜ら星空を見上げてみろよ。あの奥にな数え切れないほどの銀河を包み込んでいるシャボン玉がある。表面は虹色に輝いていてな、そりゃたいそうデリケートな膜だ。どんな人間もそこから派遣されているのさ。玉があって、点に縮んで、また玉に戻る。玉に戻ったら、玉の外に突き抜けてあっちに行くんだぜ。わかるかあっちって?そこに本当のアンタがいるよ。本当のアンタはチョーいかしてるぜ。

 時空上に散在する観測者の位置としての点。それは事実として無限遠点である。

しばらく間が空いたので、間に合わせの走り書き。。。読んでくれている皆さんには申し訳ない。。


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2006/11/10

ヌルポッド・フレーム

 Ncplato_image以前、このブログでも紹介したzatoさんが(伝説の雑誌「zavtone」の編集長)が現在、「週刊オプティカルアートZAVTONE」という楽しいサイトを運営している。携帯待ち受け画面専用のアニメーションサイトである。

 1ケ月前ぐらいにzatoさんの方からヌース理論のフィギレーション・キャラであるヌルポッド・フレーム(ヌースアカデメイアのサイトの玄関でグルグル回っているやつ)を使いたいという話があって、即OKを出した。
 このアニメーション、Shadeで作ったやつなんだけど、いかんせんデータ量が1Mぐらいあって、携帯に映せるようにするには100k以下にしないと無理。そこで、zatoさんにFlashアニメーションに変換してもらうことに。オリジナルの滑らかさが無くなってちょっとカタカタだけど、致し方無しだなぁ。zatoさんも気に入ってくれているようなので、そのまま提出することに。。

http://www.zavtone.org/mobile/nulpod.html

 さて、このヌルポッド・フレームはヌース理論に出てくる次元観察子ψ7の空間構造をプラトン立体でデフォルメしたものだ。実はNCジェネレーターのセンターコイル部分の構造はこのヌルポッドフレームの幾何学構造をベースにしている。こうしたカタチの運動体に全面、電気を流しているわけである。ヌース的思考の中では正六面体と正八面体の関係は4次元空間と3次元空間のイデアとしての関係性を持っている。特に、正六面体とそこに内接する正八面体の関係はすこぶる重要だ。これらは三次元的に見ればどちらも三次元立体の範疇である。しかし、ヌース理論の中では違う。というのも、ヌースではそれぞれの立体における立体対角線を次元の軸と考えるからだ。正八面体の立体対角線は3本。文字通りこの3本の線は互いに直交し、3次元の指標となる。一方、正六面体の立体対角線は4本ある。これらは3次元的に見るともちろん直交はしていない。しかし、そのうちの一本を視線方向の線と考えると、残りの3本の線が正八面体の3軸とピッタリと重なるような関係になる。もっと端的に言えば、正四面体における中心から四つの頂点へと結ばれた矢印を、4次元時空の基底ベクトルの等角写像として考えるのである。

 正六面体は双対の正四面体から成り立っているが、正八面体はそれら二つの正四面体が交差するところに自然に生まれる。詳細な説明はここでは省くが、このことはイデア的には互いに反転した4次元方向が見えない場合、3次元空間と時間という構造が人間の共通認識として抽象されることを意味している。正八面体に外接する正六面体の反転性を見出し、正八面体に内接する正六面体へと相転移させること。。時空を電子へと接続させること。。時間軸を虚時間軸へと反転させること。。そうすれば僕らはビッグバン以前の世界に一瞬で接続することができる。なぜならそこは特異点の向こうに存在する時空以前の世界だからである。宇宙卵の孵化という事件はここで生起する。

 宇宙は「3」の法則と「4」の法則がベースにあって律動している——と神秘学が言うように、コスモスにおける全空間の次元構造もおそらく3次元と4次元が基盤になって律動している。時空は4次元空間(虚時間宇宙)における第四番目の次元がナルシス・エフェクトにより転倒を起こして概念化されているものなのだ。この転倒から逃れ人間の認識が自らの実像を奪還できれば、時空は僕ら人間の認識から姿を消す。いや、時空によって規定されていた人間という存在自体が宇宙から消える。ヌルポッドとは、そうした超感覚的空間へと出るための一人乗り用の次元飛行装置のことでもある。

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2006/11/01

反自然主義

 現在、ニューエイジ系の雑誌「スターピープル・オブ・アース」で毎号、毎号、駄文を掲載させていただいているのだが、また、原稿の締め切り期日が迫ってきている。そろそろ何か書かにゃ。今回の特集はどうやら「環境問題について考える」ということらしい。。う〜ん、困った。はっきり言ってチョー苦手な分野だ。というのも僕自身、正直言って、普通の意味での環境問題にはとても関心があるとは言えないからだ。フリエネ研究やコスモロジー研究は問題意識からというより、ヌースを通しての自分の無意識的な欲望から突き上げてくるものであって、とりわけ現在の地球環境に特別な危惧を抱いているわけでもない。はてはて、僕の環境保全に関する問題意識はどの程度のものなのだろうか——ということで私生活をチェック!!

 合成洗剤は使わない。できるだけ有機野菜を食べる(このへんはウチの奥さんの主義だな)。ファストフードにはほとんど行かない。車はあまり運転しない。レジャーは極力控える(これは単に出不精なだけ)。おお、我ながらいい線行っているじゃないか。理由はどうあれ、結果的には極めて省エネ人間のようだ。しかし。。。出張では飛行機に乗るし、トイレット・ペーパーではパンツに糞がつかないように執念深く8回ほどケツを拭くし、タバコはスパスパ吸うし、会社の製品のパッケージには致し方なく石油製品を使用するときもある。。。まぁ、完全とは行かない。今のような文明社会で生きて行く限りどのみち誰もが自然破壊の共犯者となっている。その意味で言えば、資本主義社会の中で「地球環境を守ろう」というのはほとんどが自己欺瞞だろう。それこそ本気で地球環境を守りたいのなら、資本主義やテクノロジーと今すぐに縁を切るしかない。便利な電気製品、電子機器とすべてオサラバして、山奥に引っ込み、ブッシュマンさながら自給自足の生活を営む。これが一番。

 しかし、僕はどうもディープ・エコロジーというのが苦手なんだな。ディープエコロジーの思想背景には自然=善、人間=悪という短絡的な図式がある。生命中心主義を錦の美旗のごとく掲げ、人間中心主義に断固反対するわけだ。今や階級闘争はホモサピエンスの枠を脱領土化し、イルカやクジラ、さらには犬や猫にまで拡大してしまった。全世界の動植物よ、団結せよ!!人間中心主義の圧政にレジスタンスを!!地球上の全動植物に変わってこのわたしがお仕置きよ!!死者の名を騙る権力だけじゃ飽き足らず、動植物の霊までもが生者たちの生のために動員される。

 たとえ自然環境が守られたとしても、人間の変化への欲望が完全に阻害されるようであれば、その方向は間違っている。自然の美名のもとに「人間」があまりに軽視されていること。それが問題の本質なのだ。それは悪しき人間主義と同根だ。自然主義も科学主義もヒューマニズムも人間という現象の位置づけ自体に問題があるのだ。ヌース的に言えば、人間の本来性とは存在の結節である。人間なくして世界も宇宙もない。人工と自然、テクノロジーとエコロジーという安易な二項対立で考えるのではなく、自然と反自然、世界と創造にまで人間精神の自由度を拡張して思考すること。反自然者、再生者としての人間観が再興されなければ環境問題の解決は決してあり得ないのではないかと思う。

 ヌース理論の自然観は自然即人間なのであるからいたってシンプルである。しかし、これは単なる伝統的なアニミズムの類いではない。美しい野鳥が姿を消して行くのは、美しい野鳥のような精神の羽ばたきが人間の中から消えて行っているのであり、神々しい森が枯れ果てて行っているのは、樹木のような神々しい精神が死滅していっているのであり、ライオンや虎などの猛々しい動物たちが絶滅していっているのは、ライオンや虎のような猛々しい精神が消滅していっているからに他ならない。何のことはない。大自然に根差した生命に宿る霊性の数々は、僕ら自身の霊性の映し絵に他ならないということだ。死滅していっているものは僕らの不可視の魂の力の方なのである。

 おっと、スタピーの原稿のネタがなくなってしまう。。。なにはともあれ、環境問題は物質の問題などではなく霊性の問題として語られて初めて意味を持つ。「地球にやさしい云々」というマクロな標語を唱える以前に、隣人に対して「おはよ」の一言でも発することの方がよっぽど優先事だろう。精神が満たされていけばモノやカネへの執着は自然と消えて行く。ほんとうの問題はそうした新種の欲望の指向性をいかにして作り出すかにある。

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2006/10/30

プロッサム2

Blossam_jackこの間、このブログでも紹介したヌースコーポレーション初制作のCD「ブロッサム」が今日出来上がってきた。日頃、ヌースのサプリメントを愛用していただいている方々へお礼の気持ちを込めて制作したものだ。前回の予告ではアーティスト名をW氏として伏せていたが、今回はもう解禁だな。知ってる人もいると思うけど、W氏とはNHKスペシャル「家族の肖像」などでも有名な作曲家兼ピアニストのウォン・ウィンツァン氏のことである。ウォン氏は古くからの知り合いで、初めて会ったのは1993年だったと思うから、もうかれこれ14年ぐらい前のことになる。

 当時、マヤ暦の普及活動をしていた高橋徹氏からYaccoという女性を紹介してもらい、そのYaccoが友人のコンサートを主催するので是非来て欲しい、ということで、出向いてみると、そこでピアノを奏でていたのがウォン氏だった、というわけである。当時はウォン氏もほとんど無名で、コンサートと言っても40〜50人そこそこの集客しかなかったが、ウォン氏のプレイスタイルとの遭遇は予想外に僕を魅了した。ニューエイジ・ミュージックと呼ばれるものの中には、ただシンセサイザーを多用してスペーシーなサウンドを安易に奏でるだけのものが多い。ウォン氏は正規の音楽教育を途中でリタイアしたと聞いているが、その音を聞けば、ジャズ、クラッシック、現代音楽など様々なジャンルを通過してきたものでなければ表現し得ないセンスの厚みがあることがすぐに分かる。ライブのときは特にそうだ。ときにラベルぽかったり、サティぽかったり、急にオリエンタルなムードで一杯になったり、いきなりセシル・テイラー張りのフリージャズになったり、キース・ジャレットっぽいリフが出て来たり、本当に幅広い素養を感じさせるアーティストなのである。

 ウォン氏のメインの売りのスタイルは、あえて言うなら、宮崎アニメでもおなじみの久石譲に代表される叙情的POPスピリチュアル路線なのだが、そんな中でも個人的にウォン氏が傑出していると思うのは、鍵盤に触れている指のタッチとピアノアレンジのストイックなまでのシンプルさである。一音一音の響きをいかに大切にしているかが音色からそのまま伝わってくる。その姿勢は楽曲の組み立て方にも表れていて、ウォン氏の作る曲には無駄な装飾がほとんどない。注意深い和声の組み立て方やテンションを内声でぶつけるか外声でぶつけるか等、その曲想、曲調に合わせて実にコンパクトな和声アンサンブルでまとめあげられているのだ。派手さこそないが、贅肉をそぎ落としたとてもスリムな作りになっていて、オルゴールを聞いているかのごとく飽きがこない。そして、そのタイトな作風がこれまた独自の透明感あふれる叙情空間を作り出す。

 さて、ヌースコーポレーション初制作となったCD「ブロッサム」は、人の心の闇と光というコンセプトから立ち上がった。ヌースでいう人間の内面と外面の意識である。心の闇なくして心の光は感知できない。光は闇が受け取るものであり、闇は光が受け取るものである。そうした相補性があってこそ初めて心は成長して行くことができる。こうした人の心の在り方は植物の成長する姿と似ていなくもない。地上で燦々とした陽光を浴びて咲く花たち。かたや、土中で闇中を這い回る根たち。花なくして根はなく、根なくして花はない。花と根はほんとうのところは一心同体の生き物なのだ。どんな苦しみの中にも喜びの種子がある。どんな悲しみの中にも歓喜の天使は羽を休めて待機している。単なる慰めなどではなく、ブロッサム=花開く、ということは悲しみや苦しみの変成の振る舞いである。そんな命の在り方を僕らは日々生きている——こういった内容の短文と曲のタイトルをウォン氏に送り、それをもとに曲を書いてもらったのだ。

 とにかく珠玉の小品集(2曲入り)になってます。欲しい方は11月1日より12月31日までの2ケ月間、ヌースのサプリを買うと無料でついてきます。尚、CDのみの販売は諸事情により行っていません。詳しい情報をお知りになりたい方は下記アドレスをチェックして下さい(サイトも11月1日よりオープンします)。

http://www.noos.co.jp/ai/


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2006/10/04

ブロッサム

現在、ヌースコーポレーション初のCD制作を試みている。11月に発売になる新製品「ヌースアイ」を買ってくれたお客さん全員にプレゼントするためのCDだが、そんじょそこらの宣伝アイテムと考えてもらっては困る。単なる営業上の形式的な返礼ではなく、魂を込めて、わたしやわたしの会社のスタッフ生活を支えてくれているヌースユーザーの皆さんに感謝の気持ちを表すこと。それが大事だと思った。そこで思いついたのが、音楽の贈り物だった。それもとびきり上質の音楽じゃないといけない。単なる「おまけCD」ではなく、お金を出してでも欲しくなるような珠玉の名盤しなくてはならない。そうあってこそ初めて贈与の精神に溢れたものとなるからだ。そこでまずはコンセプトを練る。

生きる——ということ。
それは光と闇の間で揺れ動くこと。
すべての命は闇に支えられ、
世界の終わりに光の花を咲かせる。。
よっしゃ、決まった。これで行こう。
曲数は2曲。タイトルは

1、想いの糧(OMOI NO KATE)
2、光の花(HIKARI NO HANA)

とする。

全体のタイトルは「BLOSSOM/ブロッサム」。
付属のブックレットに入れる文章は僕が書く。
できれば、詩の形態をとるのがいい。

さっそく、音楽家のW氏に東京で会いコンセプトを伝える。ありがたいことに一つ返事でOKのサイン。こうなるとジャケットもとびきり美しいものが欲しい。今度は編集者のO氏と写真家のT氏に連絡を取り、居酒屋で早速、ミーティング。両氏とも快くOKしてくれた。デザインはO氏の紹介でM氏にお願いすることに。このメンバーでダサイものは作れない。仕上がりは僕にかかっている。

この1ケ月というもの、「ブロッサム」のプロデュース作業に追われていたが、ようやく今日、すべての作業を完遂。11月1日にリリース予定。お楽しみに。

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2006/09/25

新商品のコピー

 今日はヌーススピリッツの姉妹品として11月に発売する「ヌースアイ(noos i)」のキャッチコピー案が代理店の方から送られてきて、スタッフ全員でどれがいいか検討した。実を言うと、わたしはコピーにうるさい。コビーを考えて、いかしたコピーができるのは嬉しいが、コビーを考えているときの自分の脳みその在り方にはいささか抵抗がある。コビーを考えるのは楽しいが、そういう自分がイヤでもあるのだ。ヌース理論の中でも、わたしはコピー感覚を存分に楽しむが、同時に嫌悪もしている。「NC」「ヌルポッド」「アクアフラット」。これが理論用語か?まるでPC業界の商品名みたいではないか。

 昭和40年代ぐらいまでコピーはまだ健全だった。「スカッとさわやか、コカ・コーラ」「初恋の味・カルピス」「男は黙って、サッポロビール」。この頃はまだ、コピーという言葉には「複写機」の意味しかなく、いわゆる宣伝文としてのコピーはキャッチフレーズと呼ばれていた。コピーという言葉が一躍広まったのは、あの糸井重里が出てきてからだ。

「じぶん、新発見。」「不思議、大好き。」「おいしい生活。」糸井重里が西武百貨店で仕掛けた言葉のマジックは、当時のわたしにも鮮烈だった。たった数文字の言葉、それも一体何がいいのか分からない数行の文字の羅列が、企業のイメージをまるで魔法のように変えて行く。別に説明をしているわけでもない。理念を述べているわけでもない。論理的な説明は何一つなく、何の脈絡もない言葉の数片がまるで詩のような力を持って、人々の無意識の中に影響を及ぼして行く。

 糸井重里に代表される当時のコピーライターが作り出した言語センスはおそらく未だに大きな影響与えている。連中は敢えて言えば、60年代〜70年代の全共闘世代のアンチとして出てきた人種だ。真面目はやめよう。真面目な議論に真面目に参加するのはダサイ。あくまでもメタな視点に立って、物事にシニカルにアイロニカルに関わろうとすること。そして、そうしたスタンスを取る言葉の使い方に細心の注意を払うこと。あの時期流行した現代思想と同じで、言い回しの妙を競い、そのセンスを磨くことが、彼らにとっては、もっとも重要な関心事だった。そして、その流れは今でも変わっていないように思える。

 わたしが音楽ギョーカイと多少のおつきあいがあったのもちょうどこの頃だった。コピー文化の波はこのギョーカイにもモロに押し寄せていた。化粧品などの発売に合わせて、CMソングをいわゆるタイアップ商品として発売するのだ。。「君の瞳は百万ボルト」なんかがいい例だ。わたしが作っていた曲もかなりPOPな方だったのだが、担当のディレクターの口癖はそれでも尚、「あざとさ」だった。「はぁんだぁ〜、音楽でメシ食うつもりなら、あざとくないとダメよ。あざとくね。ほうら、今、流行ってる、アレあるじゃん。あのくらいあざとくなきゃ、売れねぇーのよね。おっと、ベション、ベション。」「なに言ってやがる。あざとくなったら、音楽はおしまいだろーが。大衆に迎合して何が生まれるっつーんだ。大衆を新しい世界に連れ出す。それが良質のPOPSというもんだろうがぁ〜。」と心の中でむかつくアオいわたし。と次の瞬間「あっ、この子のビーチクいいねぇ〜。」と、GOROのグラビアを見ながらニンマリしているギョーカイディレクター。「うっ、こいつら、みんな腐っとる。。。」そんな憤怒の中で毎日を過ごしてたっけ。。

 モノを売るために言葉を使う。。。その行為にまつわる快楽と嫌悪。コピーだけではなく、現在の大方の業界カルチャーはすべて、この病に蝕まれている。商品のコピーを考えるときは、その病が放つニオイの中に入らなければならない。それが商品としていいものであるか否かということは、この際、関係ない。言葉が貨幣に換算される、もしくは、言葉が利益を目的として使用される限り、必ず、こうした異臭が立ち上がる。というのも、言葉は目的に応じて使われる道具などではないからだ。モノが精神の表れだとすれば、言葉とは心の表れである。

 さて、新商品のコピー、どうしよう。。。。

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2006/09/24

The fool on the hill

一人の男が丘の上に立っている。
家が丘の上に建っている。
丘の上に別の家がもう一軒建っている。
二つの家を線で結ぶ。
男ともう一軒の家を線で結ぶ。
二つの線分には大きな違いがある。
どういう違いか?
後者には「見る」という知覚が起こっている(だろう)ということだ。

知覚が内包されている線分は4次元である。なぜ?それは丘の上に立っている男の位置(点)の中を想像すればおのずと分かってくる。そこには男が見ている世界が広がっている。その広がりは遥か遠くの風景を包み込み、大空の無限の彼方までを映し込んでいることだろう。そう。男が立っている位置(点)には無限が入り込んでいるのだ。

言うまでもなく、この空間には、そうした3次元の広がりの無限遠を映し込んだ位置が無数、存在している。知覚を持った者、つまり観測者は無数に存在させられているのだから。幾何学的に考えると、4次元空間の方向の位置は3次元空間上では無限遠としか言いようのない場所にある。だから、見られる物と見る者を結ぶ線は、3次元上のゼロ点と無限遠を結ぶ線と解釈されるべきだ。それは4次元方向に引かれた線分のイメージに合致する。そして、それがひとたび3次元上の線と混同されてしまうと、そこにあった4次元の距離には時間が出現してしまう。君たちもよく聞く話だろう。あの月までは約38万kmあり、かつ、それは約1.某秒前の世界なんだよ。と。

しかし、それはほんとうだろうか?知覚正面(前)には空間的距離と同様に時間的な距離も存在していないのではないだろうか。というのも、前においては、4次元的な距離は「縮む」という知覚現象として消費されているような気がするからだ。モノからわたしが遠ざかれば遠ざかるほどモノは縮んでいく。月の直径はとても3千5百キロもあるように見えない。せいぜい、手に持って見る10円玉と同じぐらいの大きさだ。4次元の距離はその「見え」の縮みの中にすでに現れている。だから、その空間の中に時間が介入してくる隙はないように思える。

おそらく、時間の介入は、こうした見えの縮みが忘却されている空間、つまり、1メートルは1メートル、1Kmは1Kmというように尺度が絶対視されている概念上の空間の中で起こっているのではないかと思われる。つまり、時間が有効に機能するのはユークリッド的な合同変換の世界においてのみではないのか、ということである。とすれば、夜空を見上げたとき、遠くに輝く星々が数万年前の光などといった話はちょっと眉唾ではないかと疑いたくならないか。だって、すでに星は縮んで見えているのだろうから。

 奥行きは「見る」ということが生起している空間であり、それは物理的に言えば4次元だ。そして、この奥行きには知覚的事実として距離が存在していない。これは、「見る、見える」という現象自体が光のベクトルと同じ意味を持つということを暗示している。とすれば、「見る、見える」ということは光速度状態そのものを指しているとも言えるのではないだろうか。もし、そうならば、そこには絶対的同時性が成り立っている。ここには物理的な時間が存在する余地はない。

 ここで「物理的な時間が存在しない」と言ってるのは、光の中においては一瞬=永遠という等式が成り立っている、という意味だ。一瞬=永遠。。そんな世界が一体どこにあるというのだろうか。。いや、ある。それはおそらく僕らの「今」のことである。観測者においては「いつでも今」だということである。光速度状態としての観測者はつねにこの「いつでも今」を持つ。だからこそ、人間の現実は生まれて死ぬまで、この「いつでも今の中」で展開されているのだ。いや、この「いつでも今」こそ、「死」の位置のことと考えるべきなのかもしれない。すべての人の「いつでも今」がつながり合えば、きっと天国が現れる。「時の終わり」にそれは出現すると言われているじゃないか。

時間とは概念にすぎない。モノの手前に感じている自分の位置に無限が見えているということを自覚すること。そうすれば、君と目の前のモノとを結んだ線は4次元に変貌する。そして、できれば、その線をモノの中心と一致させること。それで君は光速度に達することができる。

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2006/08/25

さよなら、冥王星

 国際天文学連合(IAU)の総会で冥王星が太陽系の惑星の定義から排除された。このニュースを巡って、わたしのところに数名の方からヌースはこの出来事をどう解釈するのか、という質問のメールが届いている。わたしとしてもこのニュースはちょっと放ってはおけない。というのも、元々、ヌース理論の出自は冥王星にあるからである。

 冥王星のオコツト。。ヌース理論の理論構築の大本のアイデアは、この正体不明の声の主から送られてきたものだ。「人類が神を見る日」にも書いたが、私個人は、このオコツトなる怪しげな存在がわたしの無意識の捏造であろうが狂気の産物であろうが何でも構わないと思っている。

 そうした声が聞こえてきたのは事実であったわけだし、その声が語る一連の内容からヌース理論という一つのコンセプチュアル・アートが生まれてきたのは否定できることではないからだ。

 さて、今回の冥王星消滅についてだが、ヌースの視点から見ると、二つの解釈が考えられる。まぁ、わたし自身別に真剣に考えているわけでもないので、半分こじつけに聞こえるかもしれないが、解釈は進化の方向かそうではない方向か、次の二つに分かれる。

1、冥王星並びに2003 UB313(第10惑星の候補となった天体)の役割の終焉
2、冥王星の役割を排除しようとする無意識側からの意図

 第9惑星の冥王星並びに第10惑星Xはヌース解釈では、シリウス革命などにも書いたように、次元観察子Ω11とΩ12の役割を持っている。これらはそれでそ定質と性質と呼ばれ、近代的人間の個体化を促していく働きを持っている。前者が人間の物質主義的指向性を促して行くもの。後者がその反映としてその個体性にトランスパーソナルな意識の指向を与えていくものだ。現在の僕ら一人一人が、グローバル帝国の視線そのものを内在させ、一方で、家族や国家などの共同体的観念とも切断されつつあるのは、この両者のアンビバレンスから来ているものだと考えている。

 Ω11とΩ12の次元とは、宇宙全体の進化の営みからすれば、実は宇宙の転倒像が描かれるところでもある。神話で言えば、イザナギ(Ω9)とイザナミ(Ω10)のまぐわいが逆に起こってしまった、蛭子の発生現場である(イザナミとイザナギが5代目の男女神であったことを思い出そう)。もちろん、宇宙は自身の成長のプロセスの一環として、このΩ11〜Ω12次元を経験するのではあるが、それは内部にスマルという「虚無」を抱え込むことになる。スマルとは「統(す)める」から来ていると思われるが、これは上次元での精神構造の統一を意味する。しかし、下次元では、それは一つの暗黒の影として、つまり、宇宙を物質概念で統一したいという強靭な欲望として現れるのだ。そこに忍び込むものがスマルという虚無存在である。オコツト風に表現すれば「核質化した不連続質」というやつだ。世界を物質でしか語ることのできない思考性。あらゆる物事の真のつながりを切断し、世界を断片化していくもの。それがスマルだ。

 ヌース理論が物質や科学的な知識にこだわるのも、このスマルを変容させない限り、人間精神は進化への方向を持つことはできないと考えているからである。

 おっと、話が逸れそうになっている。元に戻そう。Ω11とΩ12とは、その意味で、実在側から見れば受難の領域なのである。生成がネガ側へと入るというか、生成とは逆の生成が起こってしまう場所と言えるのだ。精神が物質を形成できなくなる領域という意味では、それは「空茫」と言っていい場所だ。Ω1〜Ω12までのうち、11番目と12番目はそういう性格を持っている。

 そこで、オコツトはなぜ自分の出自を「冥王星」と名乗ったのかという疑問が出てくる。交信初期の頃だったか、「あなたがたは一体何者ですか?」という問いに、「定質にあるべき力」と答えが返ってきたことがある。ということは、連中は人間の意識に物質的知識の増殖を促してきたもの、ということになるのだが、果たしてオコツトはそうしたアーリマン的なものの御使いだったのか?

 そこで、キーとなる言葉がヌースでいう「交替化」という言葉なのだ。これは進化の定質がもたらす。進化の定質とはΩ13のことである。Ω11に存在する知性も当然、次なる精神のレベルへ向けて切磋琢磨している。それは反映であるΩ12との等化だ。Ω13はΩ11とΩ12との等化して生まれてくる。おそらく、オコツトとはこのΩ13を目指した冥王星の良心のことではなかったのか。そう感じている。

 Ω13の役割は、今まで物質世界の認識や分析、解明の中で蠢いていた超越論的理念性としての幾何学を、反映側、つまり、人間の無意識構造側へと遷移させる役割を持つものである。つまり人間が持った知性の方向性を延長としての物質世界ではなく、内在側の精神世界へと反転させる力となるものである。ヌースはその力に従順になって、ただただ、その作業を淡々と進めているだけである。

 おっと、長くなってしまった。冥王星が太陽系から惑星の資格を剥奪される——さて、これはスマルの陰謀と考えるべきか、それとも、新たな世界の到来のための福音と見るべきか。。その判断は、皆さんそれぞれの時代に対する思いに委ねられることになるだろう。いずれにしろ、もう、人間の居所は20世紀までとは違った場所に遷移している。僕らはそのことを深く自覚すべきだ。古き良き時代の人間はもういない、のである。

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2006/08/20

あらためてφさんへのお礼

So4_so13 φさん、こちらこそいろいろありがとうございました。一週間ほぼブッ続けで議論した甲斐があって、ヌースが用いる観察子構造の解像度が劇的にUPしたようです。特に群論の風景が見えてきたのは大きかったです。単にSU(n) 群だけではなく、スピン群やsp(n)群との絡みが見えてきたおかけで、cave compassが示している観察子の多重構造の意味合いについても、より一層ふくよかなイメージが湧いてきました。例外群等はまだはっきりとはしませんが、φさんのおっしゃる通り、群の全体構造が大系観察子の世界と関係があるという直感はビンビンときています。

 細かい点を挙げるとキリがないのですが、今回のφセッションでの主な収穫を挙げておきます。

 1、観察構造発展のベースにspin群を位置づけられたこと。
 2、電磁場の由来が見えてきたこと。
3、かねてよりの懸案だった「モノの輪郭」の由来がSO(4)にあったということ。
 4、主観視線が4次元(SO(4)回転軸)で、客観視線が5次元(SO(5)回転軸)にあったということ。
 5、ψ9〜ψ10、ψ*9〜10において象徴界・現実界・想像界の基礎構造が構成されているということ。
 6、5に伴い、SU(3)のイメージが大きく膨らんだこと。
 7、ψ11〜12、ψ*11〜12、で象徴界と想像界の転倒が起こり、それに伴い転倒した現実界が出現しているということ。
 8、資本主義的欲望の核はこの転倒した現実界にあるということ。
 9、この欲望回路の解除には、ψ13の形成が必要不可欠であるということ。
 10、ψ13〜14、ψ*13〜14、は正20面体-正12面体に対応しているということ。
 11、ψ13(Ω7)→ψ7という射影がツイスター写像と関係しているということ。
 12、10からプラトン立体における正六面体と正12面体の関係が少し見えてきたこと。

 このまま100項目ぐらいは書けそうな勢いです。本当に有意義な1週間でした。改めてφさんに感謝いたします。

 プラトン立体についてもかなり分析が進み出しました。問題は正四面体を何と見るかだったのですが、これもφさんとのセッションの結果、はっきりしました。双対の正四面体はヌースでは「止核精神の対化」と呼びますが、これはミンコフスキー時空R(1,3)の基底を3次元における等角写像で表しているもののようですね。双対正四面体の合計八つの頂点を結ぶと正六面体ができますが、この正六面体に外接する球面が、R(1.3)の回転によってできるSO(1.3)、つまり、ローレンツ変換群でしょう。ヌース理論の試み自体は、この双対正四面体を互いに反転させることによって、SO(1.3)双対からSO(4)双対の世界へと一気に相転移を図ることです。

 結果的にSO(4)は、4次元の射影ルートを通じて、双対正四面体の交差によって生まれている正八面体に内接する正六面体側(内部空間)へと位置を移動し、この移動によって、認識は時空概念と決別することになります。人間の意識にこうした構造が見えてくることによって、人間の内面=SO(1.3)と人間の外面=SO(4)の関係性が精神空間と物質空間の母胎であることがはっきり自覚されてくることになるのではないかと思います。そして、同時に、SO(1.3)にとっては、SO(4)は認識対象のイデア、つまり、点的写像となって現れてくるということです。進化の方向を持った意識は時空上では物質として射影されてくるという創造原理の基礎がここにはあります。

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2006/08/18

久々のブログ

しばらく、間を開けてしまった。8月に入って、今年83歳になる母が胆のうを患い、手術のため入院。一人になった父を姉たちとかわるがわる介護する必要が出てきたため、ブログの方もなかなか落ち着いて書くひまがなかった。15日に母の手術も無事、成功し、ほっと一安心。ただ、しばらくは、父のところに交替で泊まりに行かなくてはならない。しばらくは、とびとびに間が開きそうだ。

 ヌース理論の方は相変わらず、淡々と前進している。8月始めから約1週間ほど、カフェ・ネプでもおなじみであった、あのΦさんを福岡の方にお呼びして、毎日、ディスカッションを繰り返した。おかけで、ヌース理論の数理物理学的な裏付けが爆発的に前進。ケイブコンパスの内部構造にはかなりふくよかな群構造が網羅されていることが見えてきた。新著を書き進めながら、骨格に当たる部分が今ひとつ不明瞭で、不満に感じていたのだが、どうやら、これで、スッキリとした構成で望めそうだ。群論関係の広範な情報を提供してくれたΦさんに感謝。

 ——次の本はほんとうに美しい本になりそうです。まだまだ時間がかかりそうですが、これでヌースは一皮むけるでしょう。

ということで、近況報告でした。

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2006/07/31

こうした批判はとてもうれしい。

不連続的差異論を展開しているrenshi氏の方からヌース理論に対してかなり激しい批判が出ているので、この場を借りて、最初の批判に関してのみ返事をしておきたいと思う。

不連続的差異論における位置の等化批判_ http://ameblo.jp/renshi/entry-10015189659.html

>半田広宣氏の『2013:人類が神を見る日』を読んでいるが、「位置の等化」(p.202~p.203)に疑問をもった。そこの記述から見ると、主体と対象とを「等化」するということだが、これでは、完全な同一性化である。主体と対象の差異を否定して、同一性にしているのである。ここで、ヌース理論は、完全な連続・同一性中心主義、即ち、ファシズム・全体主義になっていると言えよう。たいへん、危険な理論である。

1、位置の等化とは、同一性ではなく、差異化の幾何学的表現である。

「位置の等化」という概念は、無意識の主体の位置を見出す思考作業のことを言います。僕の表現、説明が至らないのかもしれませんが、「位置の等化」には、renshi氏がここでおっしゃっているような意味はありません。確かに言葉の響きの上では「等化」は「同一化」と似た響きを持ってはいますが、その本質的な意味は「差異化」です。主体と対象の差異が否定されている「同一化」という概念は、ヌース理論がいう「中和」の方に当たります。中和とは等化に反映されて生まれてくる対概念で、等化と中和はイデアにおいては相互補完的な関係にあります。

2、「等化」がなぜ「差異化」なのか?

 ヌース理論の導入部は、現象学同様、世界という巨大な装置のスイッチを一度OFFにして、その配線について調べようというものです。この配線の思考に入ること自体が差異の思考ではないかと思います。ヌースの場合はそれを言語による思考ではなく、幾何学的なイメージの中にダイレクトに捉えようという試みです。この差異の最も単純な幾何的関係は大森荘蔵氏の言葉で言えば「面体分岐」です。このときの「面」とは知覚正面(視野空間そのもの)としての面を指し、体とは概念によって構成された延長としての三次元性を意味します。こうした還元から、主客概念がどのように成立し、その必要な条件を幾何学的に整理していくのがヌースの第一工程となります。

 客体位置は、普通、僕らが慣れ親しんでいるように、0点的(正確には無限小的)な位置の措定として抜き出されます。問題は主体位置の方です。想像的自我が入りこめば、これは当然他者からの認識を通して構成されてくるものですから、主体位置は対象と同レベルの位置へと還元されてしまいます。これがrenshi氏の言われる主体と客体の「同一化」が起きている空間です。しかし、真の主体は、想像的自我が構成される以前の原光景(フロイト)としかいいようがないものなので、それは知覚正面そのもの、つまり、知覚の場そのものとしか言えません。ここで客体の位置と主体の位置の根源的な差異を幾何学的表象としてプロットすれば、それは円板とその中心点という関係になります。これが「対化」という概念になります。円板が等化(外面=主体位置)で中心点が中和(内面=客体位置)です。内・外という語義からも分かるように、外面は内面を含みもっていますが、内面は外面を含みもっていません。

 さて、知覚正面上では、延長上の無限遠と対象中心としての0点は常に一点で同一視されています。そして、「見ているらしきもの(知覚正面)」が「見られているらしきもの(対象中心)」の周囲をグルリと回れば、この知覚正面もその軸を中心にして回転扉のように自転し、そこに等方的に出現してくるすべての無限遠方は対象中心である無限小点と同一視されていくことが分かります。このとき構成される空間が無限大と無限小が等化されている空間、つまり、「位置の等化」の空間になります。こここには対象世界が持っている延長としての広がりはどこにもありません。広大な空間の広がりは、「現象学的」に言って、対象中心とピッタリと一致しています。外部=内部という概念が無化された、もしくは、外部性が内部性の中に潜り込んだという言い方もできるでしょう。これが現時点での位置の等化の具体的なイメージです。ここには旧来の主客という概念は存在はしません。主客一体となった真の主体の素顔が露になっているだけです。

 無限小領域と無限大領域が等化されるというのは、幾何学的に言えば。3次元球面の世界に一歩足を踏み入れた、ということになります(ここで、一歩と言っているのは、まだ三次元球面の多様体としての性質は持っていないということです)。実際、数学的には三次元回転群SO(3)は三次元球面S^3と同相とされています(単連結ではありませんが)。三次元球面の特徴は、三次元に即して言うと、内部と外部に「捻れ」を作り、三次元上の内部/外部概念を無効にすることにあります。ちょうどメビウスの帯のように内と外を捻って一つにつないでしまうのです。三次元球面の場合は、それが帯状の面ではなく、三次元空間全体で起こっているということです。このように、無限小と無限大が等化されるということは、内部と外部の間に捻れが生まれ、内部=外部、外部=内部という交通空間が出現することを意味するわけです。これは不連続的差異論にいうメディア界のトポロジーの基盤となるものでもあると思います。そうした空間が「同一化の空間=現象界」とは全く逆の性格を持つ概念だということはrenshi氏であれば、当然お分かりになるはずです。

 さて、問題の「等化がなぜ差異化なのか」ということに関してですが、モノの内部と外部という概念は本来、その界面の存在によって意味付けされているものです。外部と内部に認識の矢が出向き、認識がそれぞれの領分に固執することによって、それらの間に対立がもたらされる。このとき、内部=内部、外部=外部という認識に固執しているのが同一性の思考というものです。同一性の思考は、この頑な同一性のため、内部⇔外部という反復によって相互に反照し合うしか、互いの概念を表現することができません。

 ここで、こうした内部/外部間の反復の原因がどこにあるのかを考えると、界面に思考を向けざるを得ません。しかし、反復側には、この界面の由来がさっぱり分からない。つまり、いかなる力がモノの外部と内部を象ったのかが分からない訳です。それは、同一性が差異の反映として働かされているためだとヌースでは考えます。その意味で内部/外部を分け隔てている界面とは「潜在化した差異」と仮定されます。ここでいう「潜在化」とは中和側から見た等化に当たります。中和から等化は見えない。しかし、それは人のあずかり知らないところで確実に作動している。だからこそ界面が現象化しているわけです。

 ここで潜在的差異と呼んでいるものは、renshi氏のおっしゃるように、反復との共役関係として働いているという意味では連続的な差異です。しかし、ヌースが抽出しようとしている差異は、等化側から見た等化です。これが顕在的差異と呼んでいるものです。こちらは界面の由来も知っていますし、また、それゆえに、内部/外部の対立が反復として生じていることも知っています。このような認識のもとでは、対立を対立のまま、調和に導くことができるはずです。ですから、弁証法のようにこぼれ落ちるものはありませんし、そもそも、全体(外部)も部分(内部)も等化されているわけですから、全体といった概念すら意味を無くします。界面(差異)の由来に答えを出し、その界面(差異)そのものに思考者として一体化していくということ。ここに不連続的差異論のいう「不連続」、さらには「個体化・特異性」が指し示す当のものがあるのではないかと考えます。

 ポイントをまとめておきます。

 僕らが対象の内部と外部と言うとき、それらを分け隔てている界面には実は捻れが存在させられている。この捻れが差異=精神である。それは現在の僕らにとっては内在面として働かされており、無意識の中に眠らされている。ヌースの目的は、この捻れを4次元知覚のもとに知性の対象として認識に上げ、その捻れ自身に沿って自意識的に思考を流動させていくことにある。無意識構造を差異化への運動状況として意識に対象化すること。これは、差異を顕現させるということであり、内=内、外=外という同一性を解体するということに他ならない。内と外との界面とは、内と外との捻れ目だからこそ、それらの境界面として現出できるのである。

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