4、日記風エッセイ

日常感じたことの雑記です。

2011/04/28

圧倒的な暴力の彼方に

 Fukushima
 
 「二度あることは三度ある」とはフクシマのために用意された言葉なのだろうか。スリーマイル、チェルノブイリ、そしてフクシマ——。このフクシマが「三度の目の正直」ならば、事態はおそらく予想通りの展開を見せていくことになるだろう。それが最善のシナリオなのか最悪のシナリオなのかそんなことは問題ではない。事態はとにかく予想通りの展開を辿り、いい意味でも悪い意味でも人間の歴史はこのフクシマを不連続点として別の時間軸へと移行していくはずである。なぜなら、現在、フクシマから進行している地球規模の放射能汚染とは存在の裂け目の地上への降臨にほかならないからだ。

 核分裂がウラニウムから生起するということの意味について考えてみるといい。ウラニウムとは自然界が生み出した最終的な元素である。「上にあるが如く下にかくあり」というヘルメス知を持ってこのウラニウムの正体を探るならば、それは存在世界自体を支える全精神体の影のようなものと言える。核分裂とは文字通りこの全精神体を分裂させようとする力の介入である。それは存在の引き裂きと言い換えてもいいだろう。存在の裂け目が開くとき、そこには深淵が顔を覗かせる。ポストフクシマというこれからの時間において人間の先に待っているのはまさにこの深淵なのである。

 全精神体の引き裂きとそこで流される夥しい量の精神の血を直視すること。われわれは今まさに殺害されつつある神を目撃しているのだ。刺客は他ならぬわれわれ人間自身が持った物質的欲望である。言うまでもないことだが、神の活力が死に至らしめられれば生命の秩序は木っ端みじんに解体されていく。事実、核分裂がもたらす放射能の暴力がいかに圧倒的なものであるかをわれわれはすでに知っている。連中には空間も時間も関係ない。連中は音も光も熱も発することなく、ただただ冷徹に地球が長年にわたって育て上げてきた生命の調和をその根底から切り裂いていく。その冷血さの中にプリンス・オブ・ダークネスの姿を見るのは容易い。

 放射能が虚無の嫡子であるのであれば、歴史の中で行使されてきた最良の精神たちに対するすべての暴力、すべての陵辱は、今、フクシマで起きているできごとの中に集約されていると考えることもできる。できごとにおいては無意識の潜在的な構造がその症状を繰り返し現実の中に表現してくるのであり、その意味において歴史上で行使されてきたありとあらゆる暴力はすべて同じ暴力なのである。なぜなら、存在の裂け目が神の傷であるならば、それは常に一つなのだから。傷はどこからやって来るというものでもなく、神と同じく「ありてあるもの」なのであり、歴史の終わりに当たって、それは神の出現と共に露になるべきものだからである。

 われわれはこれから出現してくるであろう深淵において、この圧倒的な暴力の正体を自らの意思によってあばかなければいけない。この暴力の由来をあばくことによって、われわれはまた歴史上で行使されてきたすべての暴力をあばくことができるのだ。さて、結果が最善のシナリオとなるか最悪のシナリオとなるのか、そんなことは問題ではない。事態はとにかく予想通りの展開になるだろう。これは最終戦争なのである。


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2011/03/09

ヌースアトリウム報告

Blog
 
 地元、博多で3ケ月ぶりにヌーソロジーの集まりを「ヌースアトリウム」と銘打って開いた。アトリウムというのは建築用語で空中庭園の意がある。高層ビルなどで透明なガラスのルーフを通して陽光が指し込む開かれた高所の空間のことだ(新宿にあるパークハイアットホテルのフロントみたいなところ)。そこに集った人々が思う存分自らのプラトー(高原=高次元空間)のイメージについて語り合う——そうした主旨を持って久々にヌーソロジーに関心を持つ人たちに集まってもらったわけだが、今回も大盛況。決して広いとは言えない会社のラウンジに総勢40名ほどの人が集ってくれた。いつもながら拙い話にこれだけ集まってくれてほんとうに有り難いことだ。心から感謝、である。

 ヌースアトリウムは何分にもディスカッションスタイルでの進行なので、従来のレクチャーのような下準備は一切ナシのぶっつけ本番である。テーマはヌーソロジーの世界に足を踏み入れるにあたって最も基本となる「人間の外面と内面」という概念と既存の哲学との擦り合わせ。レクチャーでは構造的な側面の解説が多かったので、アトリウムではそれらの概念が含み持つ多様な意味について、2年ほど前に書いた紀要の記事『知覚正面上における本性上の差異についての一試論』をダシにいろいろな角度から話をしてみた。

 ヌーソロジーの思考スタイルを一言で表現するとすれば、同一性に従属させられた差異の群れを、同一性を従属させるような差異の群れへと反転させていくことにある(このへんはドゥルーズのパクリ)。たとえば、世界には様々なものがあり、それらのものには違いがある。しかし、そういった多様なモノの群れは結局のところ時空という同一性の中に従属させられている。人間にしても同じだ。人間には人種、国籍、性格、顔かたちなど、人それぞれ違いがあるのだけど、結局のところ、それは人間という概念で一括りにされ、「人間は所詮、人間である」という同一性の中で一般化される運命にある。一般化された眼差しの中では、個々の人間は互いに交換可能、代替可能な対象としてしか扱われない。「君の代わりはいくらでもいる。嫌なら辞めてもらってもいいんだぞ」という上梓の脅し文句も、「あいつだけが女じゃない、女なんてこの世に掃いて捨てるほどいる」という振られ男の愚痴も、みなこうした差異を従属させた同一性を前提として吐かれている台詞なわけだ。ほんとうは君の代わり何てどこにもいないし、あいつだけが君にとっては女であったはずなのに………ね。

 同一性に従属するこのような差異の中で最大のものを僕らは対立と呼ぶ。お互いに違いがありすぎて真っ向から対峙してしまうこと。それが対立だ。大と小、強と弱、善と悪、対立の場では片方がもう片方を全面否定することになるが、対立が同一性に従属しているのであれば、ここには「皆が同じである」という前提が実は対立を生んでいるという皮肉な構図があることになる。もしくは皆が同じでなければならないという暗黙の要請が対立を浮き立たせ逆に皆を不幸にしているとも言えようか。。人間は神のもとに平等だ。僕らは愛によって繋がりをもたなければならない。天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず。。こうした言説は一見、至極まっとうに聞こえるけれども、実際には憎しみを生む源泉になっている可能性もあるということだ。差異の思考とはそうした同一性を基盤にした思考が生み出す概念とは全く違うものである。ある意味、人間を「みんな同じ」と言い放ってしまうこの暴力的な仮説から人間を解放させる思考のことを言う。

 では、そのような「差異」とは一体どのような差異なのだろう。。この差異こそが唯一意識から同一性に縛られた思考を解放し、それこそ、今度は意識の中に同一性を従属させる思考を作り出すことができるのだが。。ドゥルーズはこの差異をベルクソン哲学を通して即自的差異の中に見た。即自的差異とは簡単に言えば「それ自身における差異」のことである。普通、差異というとさっきも言ったように二つのものの間の差異として僕らは考える。リンゴとミカンの差異。オレとオマエの差異。etc……。だけど、ドゥルーズ-ベルクソンのいう差異とは、目の前にあるものがたとえ一つであっても、それ自身にそれ自身とは違うものが存在していると考えるのだ。それが即自的差異というヤツである。はて、それって一体何?

 目の前にリンゴがある。そこには同時にリンゴではないものが重なっている。それさえ見つけられれば差異の思考に一歩足を踏み入れたことになる。ベルクソンに言わせれば、それはイマージュとしてのリンゴである。イマージュとしてのリンゴという表現が分かりにくければ「持続を内包したリンゴ」と言い換えてもいい。目の前のリンゴは物質の範疇に含まれるものだが、持続を内包したリンゴはもはや物質とは言い難い。なせなら、持続を内包するということはリンゴであり続けているということであり、これはリンゴの記憶に等しいからだ。だから「目の前にリンゴがある」という客体認識は記憶がなければ成り立たないことになる。一秒前にもあった、5秒前にもあった。そして今もあり続けている。だから、今、目の前にリンゴがある——こういう考え方をしたときのリンゴがイマージュとしてのリンゴである。だから、イマージュとしてのリンゴはただの物質ではない。そこには精神が関わっている。精神が関わっているからには、それはもはや客体ではなく主体だ(もちろん今まで僕らが主体と呼んでいたものとは大きく趣を変えてはいるが)——要は、このように主体として解釈し直されたリンゴ。これがリンゴ自身における即時的差異というものだと考えていい。つまり、目の前のリンゴには客体としてのリンゴと主体としてのリンゴが重なって存在させられており、そこにはほらこんな差異があるだろ!!ということなのだ。

 では、その主体としてのリンゴ、イマージュとしてのリンゴはどこにあるのか。ベルクソンが下す結論は明解である。もちろん知覚そのものの中にある(「知覚するものは知覚されるものの場所にある」とベルクソンはいう)。。つまり、知覚は知覚されるものの記憶を自らの中に内包して、今、そこに存在しているのである。となれば僕らが世界と呼んでいたものも一転してイマージュの総体となり、それはわたしの精神以外のなにものでもないじゃないか、ということになる。こうして世界という同一性はわたしという差異に従属するものへと反転させられるのである(これがヌーソロジーのいう〈位置の交換〉の意味だね)。

 このことは「見るものとは見られるもののことである」と言ったクリシュナムルティーや「主体は世界の外部にいる」と言ったヴィトゲンシュタインの名を挙げるまでもなく、生きのいい哲学者であればとうに言ってきたことだし、今更、鬼の首を取ったように言うことでもない。しかし、この差異を人間の思考が空間的に識別化できるようになり、そこに確固とした幾何的な構造を見て取れるようになったとしたらどうだろう。さらには、そこに開示されてくる差異の幾何的な構造が現代物理学が素粒子と呼ぶものとダイレクトに連結していることが多くの人に理解され出したとしたら。。おそらく、人間の居住空間は時空から一気にミクロ空間へと大移動を開始することになりはしまいか。。差異の思考においては差異が同一性を内属させているのだから、差異が素粒子として見え出した暁には、同一性を保証していた時空は素粒子の中に内属したものとして見えてくることになる——ヌーソロジーにおける人間の外面の発見とはそうした即自的差異を認識に空間として顕在化させることをいうのだが、ここで「外面」といったような幾何学的名称を用いているのは、ヌーソロジーがこのような即時的差異に始まる差異の階層を単に哲学的な観念としてだけではなく、空間構造として対象化し、それを十全な観念としてダイレクトに意識に浮上させたいがためである。。。。

 まぁ、ざっとこういった内容のことをくっちゃべっていたのだが、以前よりは、皆に理解してもらえたような気がするなぁ。次回もまた3ケ月後に開催しますね。今回参加された方も、まだ一度も参加されたことがない方も、現代哲学と現代物理学の融合に興味津々の方は是非、遊びに来て下さいね。


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2010/12/08

久々の東京でのミニレクチャー

 去る12月4日は東京での久々のミニレクチャーと忘年会。まずは参加していただいた皆さん、どうもありがとうございました。温かい雰囲気に終始包まれた集まりでしたね。2次会〜3次会もほぼ全員参加で賑わい、講師として呼ばれた本人としてはとても嬉しい時間を過ごさせていただきました。参加してくれたメンツの職種もほんと多彩でしたね。デザイナー、アーティスト、プログラマー、DJ、会社員、無職、整体師、ライター……。一人一人が自分の意見をしかっりと持った主体的な人たちが多く、年齢層も下は20代前半から上は60代までと幅広い世代をカバーしていました。こういう幅広いレンジの人たちが思い思いに自分の考えをぶちまけられるのが、いつもながらヌーソロジーが作り出す空間の心地よさなんだろうなと改めて感じました。会を主催をしてくれたヌーソロジーロッジの管理人のRicardoさん、そして受付を担当してくれた日比野さん、撮影を手伝ってくれたSimoonさん、ほんとにありがとね。

 さて、ミニレクチャーの内容は「ヌーソロジーの世界ビジョン」というタイトルで2時間弱話させてもらいました。正直、この手の話をコンパクトにまとめるのはちょっと難しかったかなぁ。ちょっと散漫になってしまったと改めて反省しています。なんせ東京でヌーソロジーについてまとまった話をするのは約7年ぶりです。この間、僕自身が持っているヌーソロジーに対する立ち位置も随分と変化していて、今は次の思索段階への準備期間といったところ。とりあえず、これまでの思索遍歴をまとめてみると………。

■ 90年代前半………OCOT情報をリアルタイムで受け取っていた時代です。この頃はOCOT情報とオカルティズム関連の思想体系を並行させながら何とか霊的宇宙の全体像を描くことに苦心していました。

■90年代後半………95年にオウム事件が起こり、オカルティズムを全面に出すのはまずいと感じ、今度は物理学との接続へと方向転換。そうしているうちに『人類が神を見る日』と『シリウス革命』の二冊を上梓。

■ゼロ年代前半………この頃、ゲージ論の研究者の砂子さんと知り合う。その路線で構造の精緻化をはかり『光の箱舟』を上梓。合わせてその頃、ドゥルーズを知る。これによってケイブコンパスのモデルが出来上がる。

■ゼロ年代後半………ドゥルーズを筆頭として、フロイト、ベルクソン、フッサール等の20世紀の思想家たちの様々な理論とヌーソロジーの類似点をいろいろな角度から探っていく作業が続いた。

 現在は、ヌーソロジーとドゥルーズ哲学の類似点をより深く理解していくために、スピノザやライプニッツの思想を知り、さらにはスピノザ-ライプニッツから、今度は再びルーリアカバラへと至り、結局はまた近代オカルティズムのルーツとなるネオプラトニズムやグノーシス思想へと回帰して、結局のところそれらを含めた古代思想全般の大海の中に舞い戻り、再び、スタートラインに立っているといった感じだ。OCOT情報に対する最初の解読の契機がカバラ思想だったことを考えれば、この間、西洋思想が取り組んで来た形而上学を巡る歴史全体をごく大雑把にではあるがグルッと往復させられたことになる。

 ということで、今回の東京でのミニレクチャーはその思索の往復運動によって見えてきた存在の巧妙な構造について新しいモデルを持ち込んでその概要を紹介してみました。そのモデルが………ワン、ツー、スリー……これだぁ〜。

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 noosとnos、noos*とnos*による「8」の字型の二重サーキット——あえて名付けるならば「ツイン・ツイスティッド・ウロボロス」とでも言おうか、要は、存在の円環は二組の自己双対的なエネルギー流動を内包する「8」の字型のサーキットで互いに捩じられ、互いに双数的関係を持って4値的に構成されているということだ。今回のミニレクチャーではこの地図を土台にして好き勝手なことを喋らせてもらいました。ライブ映像が新春にもヌーソロジーロッジのUSTの方で公開されるということなので、興味のある方は是非、チェックしてみてね。


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2010/11/26

東京でミニレクチャーやります。

Img

 Noosology Lodgeの主催であるRicardoさんがヌーソロジーに関心を持つ人のために、ミニ・レクチャーと忘年会を企画してくれました。

■ Noosology Lodge ヌースミニレクチャー&忘年会

日時: 平成22年12月4日(土)
      ヌースミニレクチャー 15:00-18:00
      忘年会         18:30-22:30

会場: ヌースミニレクチャー 銀座ルノアール新宿区役所横店2F会議室
    忘年会  パセラリゾーツ新宿靖国通り店

費用: それぞれ会費制
    (ミニレクチャーと忘年会は別々に徴収予定)
     ヌースミニレクチャー(ワンドリンク付)    3,000円
     忘年会1次会(18:30-20:30、コース料理飲み放題付) 5,000円
     忘年会2次会(20:30-22:30)           勢いで。

※忘年会(2次会)はその場の雰囲気で参加不参加を決めていただいてもOKですが、人数によっては部屋が変更になる場合があります。


 以上が開催要項です。参加希望の方は、Lodgeの方に登録して(もちろん無料です)その旨を伝えるか、もしくはRicardoさんのブログでの告知のコメント欄に連絡して見て下さい。

■ Noosology Lodge →Noosology Lodge

■Ricardoさんのブログ→http://r-ouroboros.blog.so-net.ne.jp/2010-11-21


 さて、さて、ミニレクチャーとは言え、東京でモロヌーソロジーについて話すのは約7年ぶり。この間、ヌーソロジーもヌース理論と呼称していた頃よりもだいぶ洗練されてきた感がある。ヌーソロジーが描く宇宙のグランドデザインはいたってシンプル。しかしながら、そのシンプルな構造が織りなす関係性はいたってふくよかで、そのふくよかさが目眩を誘うほどの多様性に満ちた世界を提供してくる。精神と物質が織りなすこのsimple&diversityのビジョンさえ伝えられればいいと思っているのだけど、いざ、その風景を具体的に説明していこうとすると、オカルティズムやら、哲学やら、物理学が入ってきて、必要以上に難解なものに見えてしまう。あとは、このへんの僕の節操の無さというか、食欲をどうセーブしていくかかな。何でも呑み込んでしまう全体性への誘惑というのは確かに不気味だし、今の時代、毛嫌いされがちだけど、完全な全体性というものは、必ずやシステムの破れを要求するものだし、その破れ目がしっかりと意識できていさえすれば、全体性を語ることは決して有害じゃないと思ってる。むしろ、今のように世界のあらゆる要素が断片化し、知識がプラグマティックな方向だけに集約されていく傾向の方が、それこそ危険だし胡散臭い。そういった意味でヌーソロジーは今の時代の趨勢に対抗する反時代的な知識の在り方を思考の遊びの中で育てていきたいと思ってます。

 例によって、またクソ壮大な話になるでしょう。オカルティズム、宗教、哲学、スビリチュアリズム、科学、芸術、なんでもありの存在論的メディアミックスの世界を楽しく語り合いましょう。ヌーソロジーに興味のある方のご参加、お待ちしています。


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2010/11/22

ドゥルーズのバトン

Anti_oidepus_2

 最近、ドゥルーズの本ばかり読んでいる。ドゥルーズに初めて触れたのは今から10年ちょっと前ぐらいだったか。丁度、ヌースアカデメイアのサイトを立ち上げた頃だった。友人でもある詩人の河村さんに、半田さんはドゥルーズを読むといいんじゃない、と言われ、最初に何気に手に取ったのが『アンチ・オイディプス』(ガタリとの共著)という本だった。今思い出しても強烈な体験だった。読み始めると同時に、それこそ頭蓋骨にハンマーが振り下ろされるような一撃を喰らった。なぜなら、それまで、OCOT情報と格闘しながら自らの拙い思考で整備していた無意識機械の構成部品の数々が、この書物を手にしたことによって、まるでマジンガーZの合体シーンのようにカシーン、カシーンと金属音を響かせながら一挙に脳内に組み上がってきたからだ。そうやって姿を表したのが現在ヌーソロジーの骨格として使用している「ケイブコンパス」というフィギレーションである。

 『アンチ・オイディプス』が打ち出すビート感とドライブ感に一発で魅せられた僕は、その後、『千のプラトー』『差異と反復』『哲学とは何か』など、K書房新社から出ている高価な単行本を買い求めては、ドゥルーズが見ている内在野の風景が果たして、OCOT情報から僕が読み取ったもの(OCOT情報ではドゥルーズが概念化している内在面のことを「付帯質の内面」といったような言い方をする)と同じものなのかどうか、それを確かめたい一心で読み漁った。しかし、悲しいかな、ドゥルーズの本は、哲学の基礎教育を受けていない僕のような素人にはどれも皆、難解なものばかりだった。書物全体に散りばめられている語彙の出所は、哲学はもとより、神話、古代思想、神学、文学、絵画、音楽、映画etc…と広大な射程を持っていて、聞いたことのないような単語でベージが埋め尽くされていることも多々ある。西洋の人文科学史の全体を覆い尽くす知の全体からこぼれ出してくるその語彙群の夥しさは、まるでカマキリの孵化を見ているかのような強度で、時折、目眩を誘発させることもある。

 まぁ、しかし、こうした語彙の難解さは知識の補強で済むことではある。実はドゥルーズの難解さの本質はそんなことではない。ドゥルーズは明晰さなどは微塵も追求してはいない。つまり、読者に自分の哲学を理解してもらおうなどとはこれっぽっちも思っていないということだ。このへんはOCOT情報に酷似していて面白い(笑)。つまりドゥルーズは哲学の先生でもなければ、哲学の評論家でもない。ただ生粋の哲学者だということだ。「哲学とは概念を創造することだ」というドゥルーズ自身の言葉にもある通り、ドゥルーズは概念のクリエーターであり未知の思考そのものを生きている人である。ここでドゥルーズがいう「創造」とは、〈表象=再現前化〉が支配する自我の同一性から解放された思考の所作を意味している。一般に思考というものが〈表象=再現前化〉のループの中で展開されるものである限り(実際、思考というものは事物の自己同一性が担保されていなければ成り立たない)、ドゥルーズのいう創造とは思考不可能なものを思考することの意となる。しかも、ドゥルーズは、自身の思考の中で次々と切り開かれてくる概念の蠢きをそのまま自分自身の「書く」という行為の中へと直裁的に反映させる表現者でもあった。つまり、彼が作り出す諸概念は「エクリチュール機械」の中に即座にインプットされ、その文法、構文、文体を通してすぐさま「表現されたもの」という事件として出現してくる――意味につかまらないこと、主語の同一性に捕縛され直線的になりがちな論説に絶えずクリナメン(ずれ)の一撃を与えること、同一の主題に常に変奏のリトルネロを与えること——そうやってドゥルーズの文体は常に神経症的な記述と分裂症的な記述の間を意図的に反復させながら、ロジカルに文脈を追おうとする読み手の理性の関節を脱臼させようとさせるのだ。
 
 こんな化け物のような書き言葉の束を相手に、たった一つの動機で、ただどうしてもOCOT情報を読み解きたいというだけの動機で、僕なりの「差異と反復」が、OCOT情報とドゥルーズ哲学の間を巡って今もまだ執拗に続いているというわけだ。

 哲学書というものは最低でも10年ぐらいかけて読むべきものなのだろう。ドゥルーズを知ってからというもの、自分の哲学的無知さ加減をいやというほど知らされ、その間にまがいなりにも、スピノザやカント,フッサール、ベルクソンやフロイトなどをつまみ読みした。その甲斐あってか、最近になってようやく、西洋の哲学が一体何を問題としてきたのか、その全体像というものが茫洋と見え始め、それがフィードバックされて、以前よりもさらに高い解像度でドゥルーズの思考の軌跡が追えるようになったように思える。あと、ヌーソロジーの側面から、ケイブコンパスがその内部に孕んでいる空間構造をかなり緻密に思い描けるようになったことも手伝っているのかもしれない。とにかく、ドゥルーズの言ってることの輪郭がひとりよがりではあれ、極めてクリアにつかめるようになってきた。それと並行して、OCOT情報の蓄積があるおかげだろうか、一方でドゥルーズには見えていない部分も見えるようになってきた。ドゥルーズが自分の思考を表現しようとして、その比喩が不十分である部分、また、読み手にどうしても誤読を誘ってしまっているような部分、そして、ドゥルーズ哲学に根本的に欠如している部分等。。。(特にハイデガーの存在論的差異にニーチェの永遠回帰を接合させた部分の論証が具体的に展開されている箇所が全く見当たらないのが個人的には物足りなく思っている)

 ソーカル事件でドゥルーズを初めとするポストモダンの思想家たちが厳しく批判されたせいもあるのだろう。今の思想の世界では、もうドゥルーズは終わったなどと言う人もいる。ドゥルーズを21世紀に甦らせるためには、ドゥルーズを解説するのではなく、ドゥルーズに欠如した部分を補い、かつ、その完全化したドゥルーズを実証を持って証明することが必要だ。そのためにはまずは潜在性としてうごめいてきた哲学的な諸概念を実在性としての物理学的な概念へと接続させることが絶対条件である。僕が執拗に、哲学者たちが語っているアプリオリ(超越論的構成)とは素粒子構造のことなのだと言っているのもそのあがきのようなものである。そして、それはドゥルーズのライプニッツ論やイデア論からすれば全く持って正統な主張のように思える。そして、その〈差異化=微分化〉の思考自らがバロック的な「襞」となって、実在の中に〈異化~分化〉としての新しい物質的表現を持たなくてはならない(それが反物質となるか超対称性物質となるかはまだ分からない。新しい原子ともいうべきか。)。つまりは、ドゥルーズの生成論を現実としての生成へと転換しなくてはならないということだ。それによって、思考は〈思考する私ー自我〉という思考システムの同一性から離脱し、生成の内在面を駆け抜ける生ける強度となって新しい存在への道を切り開くのである。晴れてこの切り開きが起こった暁には、哲学は相転移を起こし、哲学自身を一つの宇宙的な創造行為へと変態させることだろう。そこではもう、思考と実在を区別する術はない。すべてはありてあるもの、つまり存在の一義性の中に融一し、世界から人間という体制は消え去っていく。元素界というトランスフォーマーの空間が顕現するのだ。

 この一点のみにおいてヌーソロジーはドゥルーズのバトンをしっかりと受け継いでいる。この一点のみにおいて。


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2010/11/18

明日USTやります。



えー、レクチャーDVDファィナルの発売を記念してヌースアカデメイアでまたUSTをやります。
明日の午後10時からです。ヒマな人は観て下さい。
今回はスタッフ連がDVDの一部をUSTで流す計略を立てているようです。
どんなUSTになることやら、全く想像がつきませんが、
いつものように、コアあり、ラフあり、のカジュアルな感じでやる予定なので、
皆さんのツイッターでの参加、お待ちしてます。

番組名:Final Event dvd Launch UST!!
出演:半田広宣(アカデメイア主宰) 亘利渉(コンセプチュアルプランナー) 大法マサノリ(ARK TYP主宰)
日時:2010年11月19日(金) 22:00~24:00まで(都合により、終了予定時刻を繰り上げる場合がございます。ご了承ください)
放送メディア:USTREAM
*放送時間になったら、こちらのリンクからどうぞ→NOOS_ACADEMEIA.tv
また、前回のUSTでも告知いたしました、noos lounge vol.2のアーカイヴス配信ですが、予定通り、11月19日より配信を開始いたします。前回もし、見逃された方は本放送が始まるまでの暇つぶしにでも御覧くださいませ。。


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2010/11/15

ヌースレクチャーファイナルのDVD発売!!

Blog



 先の9月11日に開催したヌースレクチャーファイナルイベントのDVDがようやく上がってきた。アカデメイアのクリエイティブディレクターであるDieforくんのジャケツトデザインが今回はムチャクチャ冴えている。フラットな面上に引かれたシンプルな線と四角形の構成——よく見るとそれは近代的なビル群を下から見上げた写真。背景には空が孕む無限の奥行きが横たわっているのだろうけど、故意にモノクロのコントラストを上げることで空の奥行きもまたプレーンなタブラ・ラサ(白紙)として表現され、ビル群が抱くより高みへ向かおうとする欲望が実のところはいかなる高さも持っていないことを如実に示す構図になっている。そして、このタブラ・ラサ上にあたかも侵入禁止の標識のように刻印された黒と赤の十字架。このアクセントがとても暗示的で面白い。

 赤と黒と白。これはご存知のように錬金術的プロセスの象徴とされる色である。赤(生成)を黒(闇)へと還元し、そこで生まれた闇の極みを今度は白(浄化~光)へと還元し、そしてその白を再び赤へと還元するという、魂が持った不可避的な成長のプロセス。こうしたプロセスを進行させている見えない空間の皮膜が現代人が見上げる空にも異次元の角度から入り込み、常に僕らの頭上に覆いかぶさっている。——君たちがいくら文明を発展させたと思っても、それはつねに同一平面上で反復される赤から黒への変換でしかなく、真の空間の高さには何一つ触れることはできていない。この赤と黒の進入禁止の呪いを断ち切って、いかにしてこの平面世界から逃走していくか。当然のことながら、その逃走の先はこの面からの垂上する方向にしかなく、そこに真の意味での存在の〈深み-高み〉というものがある——チョーこじつけの解釈ではありますが、今回のジャケットデザインにはそうしたメッセージが込められているように僕には読み取れるのでした。

 それに加えて、今回は編集の方もwatariくんが頑張ってくれて、ゲスト講演者のインタビューなどを交えながら、このジャケットに見合うハイパーな映像をオリジナルで製作してプログラムの合間合間に挟んでくれるという凝った構成になっている。その編集センスもFinal Cutを触ってまだ間もない初心者としては驚くべきものだ。壊滅的とも言える低予算の中でここまでやってくれた二人の若い才能にこの場を借りて改めて感謝の意を表したい。そういうわけで、いつものレクチャーDVDとはひと味もふた味も違う出来映えになっているので、これはヌーソロジストにとって、いや、ヌーソロジーをまだ知らない方にとってもマストアイテムかもしれません(笑)。

 え〜い、こういうスタイリッシュな仕上がりになるのなら、出演者にも前もってチョイワルオヤジ風に全員ファッショナブルに決めようぜ、と指示を出しておけばよかったかな。しかしながら、いかんせん、僕も含めて全員,スのままでの登場となっております(笑)。まぁ、それはそれ、これはこれ、ということで、これからの反省点として据え置くことにします。

 ちなみに、DVDは中身2枚組で、それぞれ次のようなプログラムになっています。

ヌースレクチャーファイナル

[DISC 1]

講演 モノの情報からココロの情報へ

尾崎靖(おざきやすし) 慶応大学文学部卒業後、小学館に入社。「GORO」「CanCan」「DENIM」などの編集部を経て、現在、小学館の戦略企画室編集長。「美味サライ」「旅サライ」等の雑誌ほか写真集、単行本等を並行して編集、企画する超多忙な名物編集長。

講演 ヌーソロジーとシュタイナー神智学

大野章(おおのあきら) 医学博士。東邦大学医学部助教授。専門は微生物学。 抗生物質耐性菌の耐性メカニズムや細菌の病原性メカニズムを研究している。シュタイナー思想への造詣も深く、生物と霊性の関係を科学的に研究する方法論を模索している。

[DISC 2]

講演 科学主義という思想から全体性志向の倫理学へ

高橋暢雄(たかはしのぶお) 慶應義塾大学卒業後、保険会社勤務を経て、武蔵野学院に奉職。中学高等学校長、幼稚園長等歴任の上、現在は学校法人武蔵野学院理事長、武蔵野学院大学学長、武蔵野短期大学学長。専門分野は現代思想・政治思想。

講演 器官なき身体と身体なき器官

半田広宣(はんだこうせん)ヌースアカデメイア主宰

 最後の僕の話は、ヌーソロジーの全体像の大ざっぱな解説にもなっているので、ヌーソロジーって一体何?と思っていらっしゃる方には格好の入門アイテムの役割を果たしてくれるかもしれません。これを見て面白そうと思った方は、是非、レクチャーシリーズDVDの方にお進み下さい。。。と、なんだかんだゴタクを並べてはみたものの結局のところ宣伝になってしまいました。どうもすみません。

購入希望の方はこちらまで→noos academeia shop



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2010/11/09

新書を書くということ

 ある大手の出版社で新書を手がけることになった。友人の編集者からの依頼だ。過去に3冊の著書を単行本という形式で上梓はしているものの、それらはいわゆるニューエイジ、スピリチュアルというジャンルで一括りにされる類いの書物であって、対象とする読者もいわゆる精神世界オタク?という限られた範囲の読者でしかなかった。しかし、新書は違う。新書とは一般に「現代人の現代的教養を目的」として出版されている書籍群である。読者対象はあくまでもスタンダードな常識を持った人たちだ。そんな場所にヌーソロジーが果たしていきなり割り込んで行けるものなのか——最初は正直、少し戸惑いもあったが、押し寄せてくる波にはいつも無条件に乗ること。それが僕の信条である。ボコボコに叩かれて出版社に迷惑を掛ける恐れも大アリだが、そこは持ち前のチャレンジ精神で乗り切るしかない。それに、何より、ヌーソロジーに可能性を見てくれている友人の声に応答する責任が僕にはある。そんなかんだで、新しい環境に引っ越すには、まずは現地の下見ということで、普段はほとんど読まない新書だが、興味のあるジャンルのものを7〜8冊仕入れてきてざっと眼を通してみた。

 当たり前の話しだが、ほとんどが著名な学者さんの手にによるものなので、どれもほんとにしっかりと書けている。特に科学系のものはエビデンスもしっかりしていて、一流の学者さんになればなるほど学識も広く、また海外留学など国際的な経験も豊富なので、話題をそのときどきの論旨に沿って自在に広げ、読者のイマジネーションを喚起し、いわゆるクラルテとエクステンドのバランスがよく取れたものがほとんどだ。やっぱり、プロの一流の学者さんというのは大したもんだ。ただ飯は食っちゃーいない。
 
 さて、こういう由緒正しき場所に素性の分からない野良猫が切り込んで行くというのは正直、大変だ。昔、音楽をやっていた頃、自分のアルバムが出るか出ないかという時期があって(結局は出せずじまいに終わったのだけど)、そのとき自分のアルバムがビッグネームのアーティストのアルバムと同じ棚に陳列されることを想像しただけで言い知れぬ罪悪感を感じたことがあった。今回はなぜかそうした気後れは全くない。たぶんヌーソロジーに関してはそのポテンシャルの深さと着眼点の斬新さに根拠のない自信を持っているのだろう。ということで、勇んで原稿を書き出してはみたものの。。

 正直、筆がスムーズに進まない。文字が書かれることを拒んでいる感じ。。とほほ。第一章を書き始めた時点で、早くも頭の中で警戒警報が鳴り始めた。

「コンナ、チュウショウテキ、ナ、ナイヨウ、バカリ、デハ、ドクシャ、ハ、トチュウ、デ、ホン、ヲ、ナゲダス、コト、デショウ」
「ドクシャ、ノ、ジッサイノ、セイカツ、ニ、ドノヨウニ、カンケイ、シテイル、ノデスカ?」
「ムズカシ、スギマス。モット、ヘイイ、ニ、カクコト、ヲ、ココロガケテ、クダサイ」

 これはOCOT情報ではない。一字一句、キータッチを進めれば進めるほど、僕の頭の中に居座っている良識という化け物がアラートを連発して、進路変更を促してくるのだ。しかし、そんな進路に進んで行けばオレのオレらしさは死ぬだろう。悪いが、そっちに行くわけにはいかないんだよ。。う〜ん、こりゃ、壮絶な戦いになるな。。

 そもそも友人の編集者が僕に原稿を依頼してきたのは、このブログで以前連載していた「時間と別れるための50の方法」を読んで、ここまでくれば自分の出版社でもいけるんじゃないかと思ったのがきっかけだ。彼はもう20年近くもヌーソロジーを応援してくれていて、その成長、発展具合をよく知っている。彼によれば、現時点での内容にあと少し読者への親切心を加えれば、一般の人でも十分に理解可能になるのではないかというのだ。

 彼の問題意識は現代人をいかに時間の檻から抜け出させるかにある。現代人は資本主義機械の部品と成り果ててしまって、時計やカレンダーといった物理的時間の目盛りに縛られすぎている。ヌーソロジーの世界観に少しでも触れることによって、その呪縛から少しでも解放させてあげることができるのではないか。そう感じているようだ。空間に対する幾何学的思考を通して、時計の時間の正体を明らかにし、時間の本質が実は全く違った場所にあり、その本質的時間の方に生の実存を感じとってもらうような感覚的装置の設計図を用意すること。これが彼が僕に依頼してきた内容である。こうした内容は言語的にはすでにベルクソン以来、20世紀の哲学が何度も試みてきていることだけど、それを単に思弁的なロマンティシズムに終わらせるのではなく、たとえ仮説であってもいいので、実在的=科学的な論拠を添えてなるべく一般の人にも分かりやすく提出すること。そういう主旨で企画は出来上がってはいるものの。。。ひぃぃぃ〜と悲鳴を上げてしまいそう。でも、とにかく、もがいてみるしかないのです。

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2010/10/19

スピノザと量子世界

Spinoza

 先週の日曜日、久々に書店へ。そこで「スピノザと表現の問題」(ドゥルーズ)をゲット。以前から気になっていた本だ。パラパラとページをめくってみる。「差異と反復」よりは読み易い。スピノザの思考自体が僕の好みだからだろう。

 スピノザはレンズ磨きの職人でもあった。ポルトガルからユダヤ教徒としてオランダに移住してきた両親のもとで育った。彼自身はユダヤ教の神にもキリスト教の神にもなじめず、一人孤独に自分自身の神を求めた。そんなスピノザにとってレンズとは自分自身の理性の目の象徴だったに違いない。レンズは視力を矯正する道具だが、スビノザが取った哲学に対する幾何学的方法論もまた人間の精神を光学的に矯正しようとするレンズ磨き的なアプローチだったと言える。

 スビノザは、観念の秩序や連結は物の秩序や連結と同じである、と言う。というのも、結果についての認識は原因についての認識に依存しているがゆえに、その原因の認識をも含みもって成り立っている必要があるからだ。僕らが見ている世界とは言うまでもなく結果である。この結果としての世界には神の所作(創造)という原因がある。だから、人間が行うあらゆる認識は神の認識に依存している。しかし、人間の認識は神の認識を棚上げにし、人間の認識に基づき理性を働かせている。認識における半分がまるまる欠落しているのだ。

 このようなスピノザの思考手順を考慮した場合、事物のほんとうの認識に到達するためには、事物の創造を引き起こしたところの認識に出なくてはならないことになる。こうして認識を突き詰める思考は必然的に神の思考領域へと誘われる運命を持っており、最終的にはスピノザ的な存在論にたどり着く。

 こうした存在論をもとに、スピノザは認識を以下のような三つの種類にカテゴライズした。

 第一種の認識——記号、または感覚に基づく認識
 第二種の認識——「共通概念」に基づく理性的認識
 第三種の認識——第二種の認識からのみ生じる直感知

 スピノザがいう事物の真の認識とは当然のことながら、ここに挙げた第三種の認識によって行われるものである。第三種の認識のみが事物のほんとうを言い当てる。そして、事物のほんとうを言い当てられたときは、それは事物の創造の現場に立脚した生成の流れでなければならない。そこで事物は始めてスビノザの言う実体となり得るのだ。

 さて、以上のようなスビノザの論法に立って、現在の科学的思考が物質を認識している態度を見てみよう。科学的認識は典型的な第二種の認識だと言える。公理という前提を立て、そこに万人に共通する概念のネットワークを設け、物の秩序や連結を事細かにその約束事のもとで記述する。この記述の積み重ねを通して、科学的思考においては物質生成の根本的原因は物理世界を支配する4つの力へと還元された——ただ、ここに大きな問題が露呈してきた。現代科学が量子的レベルで「物質の秩序と連結」といったとき、それはもう表象のレベルではその像を結ぶことができないような世界なのだ。つまり、物質の最下層を支えている量子という存在はもはや物質と呼べるような代物ではなく、物質的表象では把握することのできない何者かへとその存在の様式を変化させてしまっている(不確定性原理では位置と運動量、エネルギーと時間等を同時に測定することはできないとされること等)。

 OCOT情報では、こうした表象不能となった量子の出現を人間による「認識の完全化」が起こる前触れと見なしている。これはスビノザの言葉を使えば、量子世界は第三種の認識を持ってしか把握できない、もしくは、第三種の認識の様態こそが量子世界の本質であるということを示唆しているのではないか。電子銃から発射された一個の電子が、複数のスリットを同時にすり抜け、スクリーン上にはまた一個の電子となってその跡を残す,等々——・まるで亡霊のような振る舞いを見せる量子。しかし、第三種の認識にとってはこうした量子の挙動は当たり前のことのように把握されるはずだ。

 スピノザは第三種の認識は永遠の相の下に行われるという。

——永遠の相においての対象は事物ではなく観念である。観念は個物を説明するのではなく、すべてのものに共通するものを説明するがゆえに、それは時間とは何の関係も持たず、永遠の相の下において考えられなければならない(エチカ)。

 たとえば、電子を事物の位置を規定する観念の力そのものと考えてみよう。当然のことながら、事物のあらゆる位置は一つの位置という観念によって規定されている。となれば、観念は常に一つであるがゆえに、一個の電子の位置はときとして二個の穴の位置、いや無限数の穴の位置への変身であっても一向に構わず、また、それが到達点の位置としてスクリーン上へと達したときは素知らぬ顔である特定の位置を把握するための観念として一個に収束してしまっても何の不思議もない。つまり、観念がそのまま実在とリンクしているところ、それが量子的世界なのではないかということだ。その意味で言えば、量子的世界とは時間の中に永遠の相が顔を出している部分だとも言えるのかもしれない。「最も抽象的なものこそが最も具体的なものなのである」と言ったハイデガーの弁は、まさに物質において成り立つ。

 ここでの量子のイメージをさらに突き詰めるならば、世界の原因の認識(はじまり)と結果の認識(おわり)との接触が量子力学という事件として起こっている、という言い方もできるだろう。もし、そうならば、量子をスビノザの言葉で言うところの所産的自然と見なすことは御法度である。量子は作り出されたものではなく、作り出すもの、つまり、創造のためのアプリケーションと見なす必要が出てくるからだ。そして、事実、量子のみが延長において人間の思惟(観測者)とのインターアクションを持っている。思惟と延長とが作る平行線が交わるところ。これはスピノザの定義に従えば実体にほかならない。つまり、量子とは能産的自然の世界への扉として再解釈されなければならないのだ。

 この時代にスピノザを召還する者は、スピノザの精神に倣って、量子を見るための光学的方法を設計しなければならない。それは4次元を大地とする場所に降り注ぐ光の生態学であり、一切の個物に関する知識を捨て去った無時間の学と呼んでいいものである。物質と精神はそこで初めて第三の実体としての神の思考へと変貌することができる。そこにおいて、僕らはスピノザが垣間みていた宇宙的倫理の意味を初めて理解することが可能になるだろう。それは共同体の指標を喪失してしまった現在の僕らこそが最も必要としているものなのではないか。。

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2010/09/15

ヌースレクチャー2010・ファイナル

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 先週の土曜日(9月11日)、ヌースレクチャー2010ファイナルと銘打って、今回のレクチャーシリーズ終了の記念イベントを行いました(上写真は講演会後の懇親会の様子)。

 イベント開始直前の会場はキャパ限界の人数で溢れ返り、もう熱気でムンムン。いつものレクチャーとはちょっと違った緊張感がみなぎっている。それもそのはず、今回のファイナルでは東京から某大手出版社のO編集長、M学院大学のT学長、そしてT大医学部のO助教授という3名のスベシャルゲストを招聘。いずれのゲストも僕の親しい友人でもあり、かつ、僕がヌーソロジーの構築を進めていく上で多大なる協力を惜しみなく与えてくれている恩人たちでもある(今回も多忙な中、足を運んでくれてありがとうございます!!)。

 普段は冗談ばかりを言い合っているような仲間なので、僕自身、3人の紹介を硬めにするか柔らかめにするかで戸惑ってしまい、冒頭の挨拶ではもう噛みまくり(笑)。何とも締まりのない浮ついたスタートとなってしまったが、しかし、三人の講演が順に始まると次第に会場のボルテージも上がっていき、まずは一安心。

 トップパッターのO編集長。彼とはもう20年ぐらいの付き合いになる。僕が言うのも変だが、メディア業界という混濁した世界の中で彼ほどビュアな精神の持ち主はほかにはいないのではないか。それほど純粋な魂の持ち主だ。今回の話も彼のそうした人柄を象徴するように「情報とは情(こころ)を報(しら)せることである」という彼独自の情報論から入った。なぜ、自分が半田という人物と付き合っているのか、長い交遊にもかかわらずなぜようやくここに来てヌーソロジーに関する本を出版しようと思ったのか、その経緯や問題意識を淡々と語ってくれた。ヌーソロジーの本を最大手の出版社から、しかも新書本として、出す、ということは彼にとってもやはりかなりの冒険なのだろう。そのなみなみならぬ苦労を知って頭が下がる想いがした。O編集長の御尽力に心から感謝!!。

 2番手はT大のO博士。のっけからいきなり博多弁のギャグの連発で会場は大爆笑?かと思いきや、皆は笑っていいものかどうかどうも戸惑っている様子。それもそのはず、ここは確かに博多なのだが集まっている人たちは実は半分以上が九州以外の人たちなのだ。O博士の読み違い、というか、僕がそのへんの事情をしっかりと伝えておかなかったのが悪いのだが。。しかし、そこはO博士持ち前の豪放磊落な人柄で簡単にカバー。しっかりと作り込んできたPower Pointによる緻密かつリズミカルなプレゼンでヌーソロジーとシュタイナー人智学の宇宙観の相似性を笑いを交えて説明し、皆の目を釘付けに。その後、話題は氏の専門のソマチッドや不老長寿の水とされるフンザ村の水の解説へと。。あっという間の1時間だった。

 3番手はM大のT学長。T学長の語りはいつもパワフルで、その淀みのない力強い語りが聞き手にガンガン迫って来る。今日も例外ではなく「科学主義という思想から全体性志向の倫理学へ」というタイトルで、ヌーソロジーのような思想が出てくる必然性について歴史学、社会学、さらには政治学も含めた観点から、極めて明瞭かつ簡潔に語っていただいた。さすが学長!! という感じである。その中でも特に印象に残ったのが「ソウルスイッチ」という言葉。ソウルスイッチとはT学長の弁によれば、固定観念に縛られた旧い世界観から意識をシフトして、既存の思考様式の境界を超える契機となる思考のことを指している。果たしてヌーソロジーが時代のソウルスイッチに成り得るのかどうか——課題はまだまだ山積みだが、改めてふんどしを締め直してかからなくては思った次第デス。ありがとう、学長!!。

 僭越ながら、ラストは僕の話。まずは今回のレクチャーシリーズの内容の総括。前半部分は12回に渡って解説してきたヌーソロジーの宇宙ビジョンをケイブユニバースのモデルを使ってひとまとめに説明し、後半はこれからやってくる2013年以後の世界風景について、そのポイントとなる部分を「器官なき身体(ドゥルーズ)VS身体なき器官(ジジェク)」というキーワードを挙げて簡単に説明した。——これから人類はブレイン-マシン-インターフェイスやバイオテクノロジーの発達によって、必ずや主体性の解体という問題に直面していく。この解体は不可避なものであり、ヌーソロジーはこの解体に対するカウンターとして出てきた思考である云々——。前者がアトランティス的なものだとすれば、後者はムー的なものであり、世界はいずれこの二つの方向に二分していく云々——。最後は『シリウス革命』のあとがきの言葉で締めた。

 さて、講演会のあとは30分ほどの休憩。その後、福岡ヌースレクチャーの元々の発起人である九州気功の会のY会長(この会長も実はかなりの猛者である)に乾杯の音頭をとっていただき、第二部の懇親会がスタート。早い話、飲み会である。普通、こうした飲み会は合間合間に何か余興を挟まないと場が盛り上がらないものだが、今回ばかりはファイナルということで皆のテンションも高揚していたのだろう。会場のあちこちでごく自然に談笑の輪ができ、ヌーソロジーはもちろんのこと、スピリチュアルな話や物理学や生物学の話、政治の話や、武道、芸術の話と、様々な話題であちこちが盛り上がり、会場全体を包む心地よい賑やかさが一向に衰える気配がない。片隅で一人淋しく飲んでる御仁も誰一人見当たらず、参加者全員が話の輪に加わり、約2時間半の長きにわたって歓談は続いた。こういう風景を見ると主催者冥利に尽きるというか、やっぱレクチャーをやってよかったというか、何かこみ上げてくるものがあるのよね。

 1年間という長丁場のレクチャーにも関わらず全国各地から通い続けてくれた皆さん、どうもありがとうございました。さらには地元から温かい応援をくれた皆さん、本当にありがとうございました。そして、このレクチャーシリーズを影で支えてくれたスタッフのI君、W君、無償で撮影に協力してくれたEさん、この場を借りて心から感謝の意を表したいと思います。合掌。


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