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2010年11月

2010/11/26

東京でミニレクチャーやります。

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 Noosology Lodgeの主催であるRicardoさんがヌーソロジーに関心を持つ人のために、ミニ・レクチャーと忘年会を企画してくれました。

■ Noosology Lodge ヌースミニレクチャー&忘年会

日時: 平成22年12月4日(土)
      ヌースミニレクチャー 15:00-18:00
      忘年会         18:30-22:30

会場: ヌースミニレクチャー 銀座ルノアール新宿区役所横店2F会議室
    忘年会  パセラリゾーツ新宿靖国通り店

費用: それぞれ会費制
    (ミニレクチャーと忘年会は別々に徴収予定)
     ヌースミニレクチャー(ワンドリンク付)    3,000円
     忘年会1次会(18:30-20:30、コース料理飲み放題付) 5,000円
     忘年会2次会(20:30-22:30)           勢いで。

※忘年会(2次会)はその場の雰囲気で参加不参加を決めていただいてもOKですが、人数によっては部屋が変更になる場合があります。


 以上が開催要項です。参加希望の方は、Lodgeの方に登録して(もちろん無料です)その旨を伝えるか、もしくはRicardoさんのブログでの告知のコメント欄に連絡して見て下さい。

■ Noosology Lodge →Noosology Lodge

■Ricardoさんのブログ→http://r-ouroboros.blog.so-net.ne.jp/2010-11-21


 さて、さて、ミニレクチャーとは言え、東京でモロヌーソロジーについて話すのは約7年ぶり。この間、ヌーソロジーもヌース理論と呼称していた頃よりもだいぶ洗練されてきた感がある。ヌーソロジーが描く宇宙のグランドデザインはいたってシンプル。しかしながら、そのシンプルな構造が織りなす関係性はいたってふくよかで、そのふくよかさが目眩を誘うほどの多様性に満ちた世界を提供してくる。精神と物質が織りなすこのsimple&diversityのビジョンさえ伝えられればいいと思っているのだけど、いざ、その風景を具体的に説明していこうとすると、オカルティズムやら、哲学やら、物理学が入ってきて、必要以上に難解なものに見えてしまう。あとは、このへんの僕の節操の無さというか、食欲をどうセーブしていくかかな。何でも呑み込んでしまう全体性への誘惑というのは確かに不気味だし、今の時代、毛嫌いされがちだけど、完全な全体性というものは、必ずやシステムの破れを要求するものだし、その破れ目がしっかりと意識できていさえすれば、全体性を語ることは決して有害じゃないと思ってる。むしろ、今のように世界のあらゆる要素が断片化し、知識がプラグマティックな方向だけに集約されていく傾向の方が、それこそ危険だし胡散臭い。そういった意味でヌーソロジーは今の時代の趨勢に対抗する反時代的な知識の在り方を思考の遊びの中で育てていきたいと思ってます。

 例によって、またクソ壮大な話になるでしょう。オカルティズム、宗教、哲学、スビリチュアリズム、科学、芸術、なんでもありの存在論的メディアミックスの世界を楽しく語り合いましょう。ヌーソロジーに興味のある方のご参加、お待ちしています。


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2010/11/22

ドゥルーズのバトン

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 最近、ドゥルーズの本ばかり読んでいる。ドゥルーズに初めて触れたのは今から10年ちょっと前ぐらいだったか。丁度、ヌースアカデメイアのサイトを立ち上げた頃だった。友人でもある詩人の河村さんに、半田さんはドゥルーズを読むといいんじゃない、と言われ、最初に何気に手に取ったのが『アンチ・オイディプス』(ガタリとの共著)という本だった。今思い出しても強烈な体験だった。読み始めると同時に、それこそ頭蓋骨にハンマーが振り下ろされるような一撃を喰らった。なぜなら、それまで、OCOT情報と格闘しながら自らの拙い思考で整備していた無意識機械の構成部品の数々が、この書物を手にしたことによって、まるでマジンガーZの合体シーンのようにカシーン、カシーンと金属音を響かせながら一挙に脳内に組み上がってきたからだ。そうやって姿を表したのが現在ヌーソロジーの骨格として使用している「ケイブコンパス」というフィギレーションである。

 『アンチ・オイディプス』が打ち出すビート感とドライブ感に一発で魅せられた僕は、その後、『千のプラトー』『差異と反復』『哲学とは何か』など、K書房新社から出ている高価な単行本を買い求めては、ドゥルーズが見ている内在野の風景が果たして、OCOT情報から僕が読み取ったもの(OCOT情報ではドゥルーズが概念化している内在面のことを「付帯質の内面」といったような言い方をする)と同じものなのかどうか、それを確かめたい一心で読み漁った。しかし、悲しいかな、ドゥルーズの本は、哲学の基礎教育を受けていない僕のような素人にはどれも皆、難解なものばかりだった。書物全体に散りばめられている語彙の出所は、哲学はもとより、神話、古代思想、神学、文学、絵画、音楽、映画etc…と広大な射程を持っていて、聞いたことのないような単語でベージが埋め尽くされていることも多々ある。西洋の人文科学史の全体を覆い尽くす知の全体からこぼれ出してくるその語彙群の夥しさは、まるでカマキリの孵化を見ているかのような強度で、時折、目眩を誘発させることもある。

 まぁ、しかし、こうした語彙の難解さは知識の補強で済むことではある。実はドゥルーズの難解さの本質はそんなことではない。ドゥルーズは明晰さなどは微塵も追求してはいない。つまり、読者に自分の哲学を理解してもらおうなどとはこれっぽっちも思っていないということだ。このへんはOCOT情報に酷似していて面白い(笑)。つまりドゥルーズは哲学の先生でもなければ、哲学の評論家でもない。ただ生粋の哲学者だということだ。「哲学とは概念を創造することだ」というドゥルーズ自身の言葉にもある通り、ドゥルーズは概念のクリエーターであり未知の思考そのものを生きている人である。ここでドゥルーズがいう「創造」とは、〈表象=再現前化〉が支配する自我の同一性から解放された思考の所作を意味している。一般に思考というものが〈表象=再現前化〉のループの中で展開されるものである限り(実際、思考というものは事物の自己同一性が担保されていなければ成り立たない)、ドゥルーズのいう創造とは思考不可能なものを思考することの意となる。しかも、ドゥルーズは、自身の思考の中で次々と切り開かれてくる概念の蠢きをそのまま自分自身の「書く」という行為の中へと直裁的に反映させる表現者でもあった。つまり、彼が作り出す諸概念は「エクリチュール機械」の中に即座にインプットされ、その文法、構文、文体を通してすぐさま「表現されたもの」という事件として出現してくる――意味につかまらないこと、主語の同一性に捕縛され直線的になりがちな論説に絶えずクリナメン(ずれ)の一撃を与えること、同一の主題に常に変奏のリトルネロを与えること——そうやってドゥルーズの文体は常に神経症的な記述と分裂症的な記述の間を意図的に反復させながら、ロジカルに文脈を追おうとする読み手の理性の関節を脱臼させようとさせるのだ。
 
 こんな化け物のような書き言葉の束を相手に、たった一つの動機で、ただどうしてもOCOT情報を読み解きたいというだけの動機で、僕なりの「差異と反復」が、OCOT情報とドゥルーズ哲学の間を巡って今もまだ執拗に続いているというわけだ。

 哲学書というものは最低でも10年ぐらいかけて読むべきものなのだろう。ドゥルーズを知ってからというもの、自分の哲学的無知さ加減をいやというほど知らされ、その間にまがいなりにも、スピノザやカント,フッサール、ベルクソンやフロイトなどをつまみ読みした。その甲斐あってか、最近になってようやく、西洋の哲学が一体何を問題としてきたのか、その全体像というものが茫洋と見え始め、それがフィードバックされて、以前よりもさらに高い解像度でドゥルーズの思考の軌跡が追えるようになったように思える。あと、ヌーソロジーの側面から、ケイブコンパスがその内部に孕んでいる空間構造をかなり緻密に思い描けるようになったことも手伝っているのかもしれない。とにかく、ドゥルーズの言ってることの輪郭がひとりよがりではあれ、極めてクリアにつかめるようになってきた。それと並行して、OCOT情報の蓄積があるおかげだろうか、一方でドゥルーズには見えていない部分も見えるようになってきた。ドゥルーズが自分の思考を表現しようとして、その比喩が不十分である部分、また、読み手にどうしても誤読を誘ってしまっているような部分、そして、ドゥルーズ哲学に根本的に欠如している部分等。。。(特にハイデガーの存在論的差異にニーチェの永遠回帰を接合させた部分の論証が具体的に展開されている箇所が全く見当たらないのが個人的には物足りなく思っている)

 ソーカル事件でドゥルーズを初めとするポストモダンの思想家たちが厳しく批判されたせいもあるのだろう。今の思想の世界では、もうドゥルーズは終わったなどと言う人もいる。ドゥルーズを21世紀に甦らせるためには、ドゥルーズを解説するのではなく、ドゥルーズに欠如した部分を補い、かつ、その完全化したドゥルーズを実証を持って証明することが必要だ。そのためにはまずは潜在性としてうごめいてきた哲学的な諸概念を実在性としての物理学的な概念へと接続させることが絶対条件である。僕が執拗に、哲学者たちが語っているアプリオリ(超越論的構成)とは素粒子構造のことなのだと言っているのもそのあがきのようなものである。そして、それはドゥルーズのライプニッツ論やイデア論からすれば全く持って正統な主張のように思える。そして、その〈差異化=微分化〉の思考自らがバロック的な「襞」となって、実在の中に〈異化~分化〉としての新しい物質的表現を持たなくてはならない(それが反物質となるか超対称性物質となるかはまだ分からない。新しい原子ともいうべきか。)。つまりは、ドゥルーズの生成論を現実としての生成へと転換しなくてはならないということだ。それによって、思考は〈思考する私ー自我〉という思考システムの同一性から離脱し、生成の内在面を駆け抜ける生ける強度となって新しい存在への道を切り開くのである。晴れてこの切り開きが起こった暁には、哲学は相転移を起こし、哲学自身を一つの宇宙的な創造行為へと変態させることだろう。そこではもう、思考と実在を区別する術はない。すべてはありてあるもの、つまり存在の一義性の中に融一し、世界から人間という体制は消え去っていく。元素界というトランスフォーマーの空間が顕現するのだ。

 この一点のみにおいてヌーソロジーはドゥルーズのバトンをしっかりと受け継いでいる。この一点のみにおいて。


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2010/11/18

明日USTやります。



えー、レクチャーDVDファィナルの発売を記念してヌースアカデメイアでまたUSTをやります。
明日の午後10時からです。ヒマな人は観て下さい。
今回はスタッフ連がDVDの一部をUSTで流す計略を立てているようです。
どんなUSTになることやら、全く想像がつきませんが、
いつものように、コアあり、ラフあり、のカジュアルな感じでやる予定なので、
皆さんのツイッターでの参加、お待ちしてます。

番組名:Final Event dvd Launch UST!!
出演:半田広宣(アカデメイア主宰) 亘利渉(コンセプチュアルプランナー) 大法マサノリ(ARK TYP主宰)
日時:2010年11月19日(金) 22:00~24:00まで(都合により、終了予定時刻を繰り上げる場合がございます。ご了承ください)
放送メディア:USTREAM
*放送時間になったら、こちらのリンクからどうぞ→NOOS_ACADEMEIA.tv
また、前回のUSTでも告知いたしました、noos lounge vol.2のアーカイヴス配信ですが、予定通り、11月19日より配信を開始いたします。前回もし、見逃された方は本放送が始まるまでの暇つぶしにでも御覧くださいませ。。


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2010/11/15

ヌースレクチャーファイナルのDVD発売!!

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 先の9月11日に開催したヌースレクチャーファイナルイベントのDVDがようやく上がってきた。アカデメイアのクリエイティブディレクターであるDieforくんのジャケツトデザインが今回はムチャクチャ冴えている。フラットな面上に引かれたシンプルな線と四角形の構成——よく見るとそれは近代的なビル群を下から見上げた写真。背景には空が孕む無限の奥行きが横たわっているのだろうけど、故意にモノクロのコントラストを上げることで空の奥行きもまたプレーンなタブラ・ラサ(白紙)として表現され、ビル群が抱くより高みへ向かおうとする欲望が実のところはいかなる高さも持っていないことを如実に示す構図になっている。そして、このタブラ・ラサ上にあたかも侵入禁止の標識のように刻印された黒と赤の十字架。このアクセントがとても暗示的で面白い。

 赤と黒と白。これはご存知のように錬金術的プロセスの象徴とされる色である。赤(生成)を黒(闇)へと還元し、そこで生まれた闇の極みを今度は白(浄化~光)へと還元し、そしてその白を再び赤へと還元するという、魂が持った不可避的な成長のプロセス。こうしたプロセスを進行させている見えない空間の皮膜が現代人が見上げる空にも異次元の角度から入り込み、常に僕らの頭上に覆いかぶさっている。——君たちがいくら文明を発展させたと思っても、それはつねに同一平面上で反復される赤から黒への変換でしかなく、真の空間の高さには何一つ触れることはできていない。この赤と黒の進入禁止の呪いを断ち切って、いかにしてこの平面世界から逃走していくか。当然のことながら、その逃走の先はこの面からの垂上する方向にしかなく、そこに真の意味での存在の〈深み-高み〉というものがある——チョーこじつけの解釈ではありますが、今回のジャケットデザインにはそうしたメッセージが込められているように僕には読み取れるのでした。

 それに加えて、今回は編集の方もwatariくんが頑張ってくれて、ゲスト講演者のインタビューなどを交えながら、このジャケットに見合うハイパーな映像をオリジナルで製作してプログラムの合間合間に挟んでくれるという凝った構成になっている。その編集センスもFinal Cutを触ってまだ間もない初心者としては驚くべきものだ。壊滅的とも言える低予算の中でここまでやってくれた二人の若い才能にこの場を借りて改めて感謝の意を表したい。そういうわけで、いつものレクチャーDVDとはひと味もふた味も違う出来映えになっているので、これはヌーソロジストにとって、いや、ヌーソロジーをまだ知らない方にとってもマストアイテムかもしれません(笑)。

 え〜い、こういうスタイリッシュな仕上がりになるのなら、出演者にも前もってチョイワルオヤジ風に全員ファッショナブルに決めようぜ、と指示を出しておけばよかったかな。しかしながら、いかんせん、僕も含めて全員,スのままでの登場となっております(笑)。まぁ、それはそれ、これはこれ、ということで、これからの反省点として据え置くことにします。

 ちなみに、DVDは中身2枚組で、それぞれ次のようなプログラムになっています。

ヌースレクチャーファイナル

[DISC 1]

講演 モノの情報からココロの情報へ

尾崎靖(おざきやすし) 慶応大学文学部卒業後、小学館に入社。「GORO」「CanCan」「DENIM」などの編集部を経て、現在、小学館の戦略企画室編集長。「美味サライ」「旅サライ」等の雑誌ほか写真集、単行本等を並行して編集、企画する超多忙な名物編集長。

講演 ヌーソロジーとシュタイナー神智学

大野章(おおのあきら) 医学博士。東邦大学医学部助教授。専門は微生物学。 抗生物質耐性菌の耐性メカニズムや細菌の病原性メカニズムを研究している。シュタイナー思想への造詣も深く、生物と霊性の関係を科学的に研究する方法論を模索している。

[DISC 2]

講演 科学主義という思想から全体性志向の倫理学へ

高橋暢雄(たかはしのぶお) 慶應義塾大学卒業後、保険会社勤務を経て、武蔵野学院に奉職。中学高等学校長、幼稚園長等歴任の上、現在は学校法人武蔵野学院理事長、武蔵野学院大学学長、武蔵野短期大学学長。専門分野は現代思想・政治思想。

講演 器官なき身体と身体なき器官

半田広宣(はんだこうせん)ヌースアカデメイア主宰

 最後の僕の話は、ヌーソロジーの全体像の大ざっぱな解説にもなっているので、ヌーソロジーって一体何?と思っていらっしゃる方には格好の入門アイテムの役割を果たしてくれるかもしれません。これを見て面白そうと思った方は、是非、レクチャーシリーズDVDの方にお進み下さい。。。と、なんだかんだゴタクを並べてはみたものの結局のところ宣伝になってしまいました。どうもすみません。

購入希望の方はこちらまで→noos academeia shop



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2010/11/09

新書を書くということ

 ある大手の出版社で新書を手がけることになった。友人の編集者からの依頼だ。過去に3冊の著書を単行本という形式で上梓はしているものの、それらはいわゆるニューエイジ、スピリチュアルというジャンルで一括りにされる類いの書物であって、対象とする読者もいわゆる精神世界オタク?という限られた範囲の読者でしかなかった。しかし、新書は違う。新書とは一般に「現代人の現代的教養を目的」として出版されている書籍群である。読者対象はあくまでもスタンダードな常識を持った人たちだ。そんな場所にヌーソロジーが果たしていきなり割り込んで行けるものなのか——最初は正直、少し戸惑いもあったが、押し寄せてくる波にはいつも無条件に乗ること。それが僕の信条である。ボコボコに叩かれて出版社に迷惑を掛ける恐れも大アリだが、そこは持ち前のチャレンジ精神で乗り切るしかない。それに、何より、ヌーソロジーに可能性を見てくれている友人の声に応答する責任が僕にはある。そんなかんだで、新しい環境に引っ越すには、まずは現地の下見ということで、普段はほとんど読まない新書だが、興味のあるジャンルのものを7〜8冊仕入れてきてざっと眼を通してみた。

 当たり前の話しだが、ほとんどが著名な学者さんの手にによるものなので、どれもほんとにしっかりと書けている。特に科学系のものはエビデンスもしっかりしていて、一流の学者さんになればなるほど学識も広く、また海外留学など国際的な経験も豊富なので、話題をそのときどきの論旨に沿って自在に広げ、読者のイマジネーションを喚起し、いわゆるクラルテとエクステンドのバランスがよく取れたものがほとんどだ。やっぱり、プロの一流の学者さんというのは大したもんだ。ただ飯は食っちゃーいない。
 
 さて、こういう由緒正しき場所に素性の分からない野良猫が切り込んで行くというのは正直、大変だ。昔、音楽をやっていた頃、自分のアルバムが出るか出ないかという時期があって(結局は出せずじまいに終わったのだけど)、そのとき自分のアルバムがビッグネームのアーティストのアルバムと同じ棚に陳列されることを想像しただけで言い知れぬ罪悪感を感じたことがあった。今回はなぜかそうした気後れは全くない。たぶんヌーソロジーに関してはそのポテンシャルの深さと着眼点の斬新さに根拠のない自信を持っているのだろう。ということで、勇んで原稿を書き出してはみたものの。。

 正直、筆がスムーズに進まない。文字が書かれることを拒んでいる感じ。。とほほ。第一章を書き始めた時点で、早くも頭の中で警戒警報が鳴り始めた。

「コンナ、チュウショウテキ、ナ、ナイヨウ、バカリ、デハ、ドクシャ、ハ、トチュウ、デ、ホン、ヲ、ナゲダス、コト、デショウ」
「ドクシャ、ノ、ジッサイノ、セイカツ、ニ、ドノヨウニ、カンケイ、シテイル、ノデスカ?」
「ムズカシ、スギマス。モット、ヘイイ、ニ、カクコト、ヲ、ココロガケテ、クダサイ」

 これはOCOT情報ではない。一字一句、キータッチを進めれば進めるほど、僕の頭の中に居座っている良識という化け物がアラートを連発して、進路変更を促してくるのだ。しかし、そんな進路に進んで行けばオレのオレらしさは死ぬだろう。悪いが、そっちに行くわけにはいかないんだよ。。う〜ん、こりゃ、壮絶な戦いになるな。。

 そもそも友人の編集者が僕に原稿を依頼してきたのは、このブログで以前連載していた「時間と別れるための50の方法」を読んで、ここまでくれば自分の出版社でもいけるんじゃないかと思ったのがきっかけだ。彼はもう20年近くもヌーソロジーを応援してくれていて、その成長、発展具合をよく知っている。彼によれば、現時点での内容にあと少し読者への親切心を加えれば、一般の人でも十分に理解可能になるのではないかというのだ。

 彼の問題意識は現代人をいかに時間の檻から抜け出させるかにある。現代人は資本主義機械の部品と成り果ててしまって、時計やカレンダーといった物理的時間の目盛りに縛られすぎている。ヌーソロジーの世界観に少しでも触れることによって、その呪縛から少しでも解放させてあげることができるのではないか。そう感じているようだ。空間に対する幾何学的思考を通して、時計の時間の正体を明らかにし、時間の本質が実は全く違った場所にあり、その本質的時間の方に生の実存を感じとってもらうような感覚的装置の設計図を用意すること。これが彼が僕に依頼してきた内容である。こうした内容は言語的にはすでにベルクソン以来、20世紀の哲学が何度も試みてきていることだけど、それを単に思弁的なロマンティシズムに終わらせるのではなく、たとえ仮説であってもいいので、実在的=科学的な論拠を添えてなるべく一般の人にも分かりやすく提出すること。そういう主旨で企画は出来上がってはいるものの。。。ひぃぃぃ〜と悲鳴を上げてしまいそう。でも、とにかく、もがいてみるしかないのです。

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