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2009年5月

2009/05/30

地球から広がる空間について、その5

●ミクロとマクロが同じ方向だということのほんとうの意味

 さて、冒頭でOCOTの世界観の中では人間が認識している空間のミクロ方向とマクロ方向の関係も「対化」であるという言い方をしましたが、これは自己と他者の間では身体空間の方向性が「人間の外面」と「人間の内面」という形で互いに反転して現れているということと同じ意味を持っています。

 たとえば目の前に他者がいるとしましょう(下図1)。自己にとって他者の身体は他の存在物と何ら変わるものではなく、いかにも物体然とした形態で目の前に出現しています(レッドで示した3次元)。ですから自己側から見た場合、他者の身体から広がっている空間は単なる物体から広がる3次元の空間と全く同じものにしか見えません。こうした状態で認識される身体周りの3次元性のことをヌーソロジーでは「核質」と言います。

 一方、今までお話してきたように、空間に対する認識の原点を物体側から観測者である「わたし」の身体側へと反転させ人間の外面という場所から空間を観た場合、その身体周りの空間はもはや物体の延長線上で把握できるような空間ではなくなっており、前-後は4次元、左-右は5次元、上-下は6次元とも言えるような全く別種の空間として認識されてきます(プルーで示した3次元)。このようなかたちで認識される身体空間のことを「反核質」と言います。

Kakushitsu_hankakushitsu

 自己の外面認識が芽生え始め(顕在化のことです)、身体回りの空間を6次元として思考し始めると、当然のことながら他者の身体を取り巻いている空間も本来ならば6次元空間として見なさなければならないのではないかという認識が生じてきます。つまり、ここで核質の対化(自他の空間がともに3次元と認識されている場合)と反核質の対化(自他の空間がともに6次元と認識されている場合)の双方が認識に上がってくるわけです。このときの核質と反核質の関係がそのままマクロ空間とミクロ空間の関係に対応してくると考えるとよいでしょう。つまり、マクロ空間とは他者の身体周りとしての空間のことであり、ミクロ空間とは自己の身体周りの空間であるということです。このことから、当然、自他においてはミクロとマクロも例のキアスム(交差配列)の関係で構造化されているということになります。

自己   核質(マクロ)    反核質(ミクロ)
他者   反核質*(ミクロ)  核質*(マクロ)

 こうした自他空間の相互反転関係に普段、僕らが気づけないのは、核質の対化(自他における人間の内面全体)を等化している精神の働きがウラで暗躍しているからです。この精神が次元観察子ψ13にあたる観察精神と呼ばれるものです。このψ13は別の言い方をすれば現在、世界をワンワールドへと持っていかせようとしている無意識的主体の力と言っていいかもしれません。民主主義や平等主義や資本主義が作りだしているグローバリズム、さらには現代文明の駆動力となっている科学主義や貨幣主義もおそらくこのψ13の統制下のもとで働いている様々な属性ではないかと思います。言うなれば人間型ゲシュタルトを人間の意識に与えている本源力のことです。

 観察精神とはその意味で反核質の対化における等化そのものの精神ということになりますが、この精神活動は反核質の対化が作り出している6次元の回転群SO(6)とSO(6)*とを等化した7次元空間における回転運動として現れてきます。

 4次元時空とは全く別のところで密かに活動しているこの7次元空間は自己側においては人間の外面側へと入り込み素粒子が持った内部空間の全体性を作り出してきますが、他者側においてはそれが人間の内面側へと映し出され、ある意味時空とは全く見分けがつかないマクロ空間側に射影されてきます。さらに、観察精神であるψ13自体が次元構造全体の中を回り巡ってψ1へと回帰する性質を持っているために、観察精神が持った等化の働きだけはψ1で示されるマクロ空間方向に某かの回転運動として射影されてくることになります。その回転というのがほかならぬ月の公転です。――つづく


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2009/05/27

地球から広がる空間について、その4

●超越論的という言葉の意味について

 前後がちょっと逆になりましたが、ここで前回少し触れたフッサールが提唱した「超越論的な意識の構成」という内容について少し捕捉の説明を加えておきます。ここではポイントだけを手短にまとめておきます。

 フッサールが創始した現象学という哲学の分野はデカルトやカントの流れを組んだ思考の枠組を持っています。その考え方のキーワードとなるのが僕もよく使用する「超越論的」という言葉です。超越論的というと経験を超越した神のような立場から物事を考えることと受け取られがちですが、それは「超越的」の意であって決して「超越論的」の意ではないので注意が必要です。「超越論的」とは超越的とはむしろ正反対の意味で、経験以前の場所に立って意識が成り立つ条件を問い正していく思考的立場のことを言います。例えば、目の前に何らかのモノがあるとして、僕らはそれを自然にモノとして認識しています。「超越論的」とはこのようなモノの認識がいかにして意識に成り立っているのか、それを認識しようとする、まぁ簡単に言えばメタな認識の立場に立った思考的態度のことを言います。この認識は通常のモノの認識を超えてはいますが、と言って、神のような超越者を認識することではないのが分かります。

 こうした超越論的な思考方法を取ると、モノがなぜモノとして認識されるのかに始まって、それを見ている主観としての「わたし」が「わたし」という主観として認識される条件、さらには客観世界が客観と認識される条件、挙げ句の果ては、その客観を取り入れて思考しているメタな主観としての「わたし」が成立する条件等、つねに超越論的に思考を連鎖させていく必要性に駆られていくことになります。こうした思考態度をその限界にまで徹底させたのがフッサールの現象学です。

 ということで、フッサールが行った超越論的思考の足跡を簡単にまとめておきます。

 フッサールは世界が客観性(自体性)をもった世界として僕らの認識の中に現出してくる条件を次のような三つの段階で考えました。

 1、時間意識における超越
 これによって意識は現在を超えることができ、現在を起点に過去や未来を相対化することができます。

 2、空間意識における超越
 これによって意識は空間的に隔たった様々な対象の見え姿の想像を可能とすることができます。

 3、他者意識における超越
 時間的超越も空間的超越もある意味では主観内部の意識形成にすぎず、この第三の超越によって意識は初めて主観を超越することが可能となり、他者との相互了解のもとに客観という合意形成に至ることができてきます。

 そして、ここが重要なところなのですが、このような3段階の超越を経験しても尚、意識はつねに「わたし」の意識であり、そこでもなお一つの主観を保ち続けているのが分かります。このような超越論的統覚を果たした自我意識をフッサールは単なる心理学的な自我と区別して超越論的自我と呼びました。
 参考までに、これらフッサールが辿った超越の内容をヌーソロジーが用いる次元観察子に対応させると次のようになります。

 1、時間意識における超越………ψ3(時間意識を超越できる場所の条件を規定すること)
 2、空間意識における超越………ψ5(主観における知覚的統覚が起きている場所を規定すること)
 3、知覚的統覚の超越………ψ7(客体の位置が生まれる条件を規定すること)
 4、他者意識における超越………ψ9(客観の位置が生まれる条件を規定すること)
 5、超越論的自我の位置………ψ11(主観が客観を取り込める位置が生まれる条件を規定すること)

 現象学の考え方ではこのような条件が揃って初めて、わたしたちの前に客観世界という場所が現れ、さらにはそうした客観を自らの中に統合した超越論的な統覚者である近代的人間としての「わたし」が意識として現象化してくることになります。つまり、ヌーソロジーは現象学が明らかにしようと試みた意識における客観的世界の成立の根拠を単に言語による哲学的観念の中に探るのではなく、それを高次元の幾何学的な空間構造に置き換えて表現、把握することを目的としているとも言えます。

 では、なぜ、そのような幾何学的な置換を模索する必要性があるのか――ここがヌーソロジーが「ヌース(創造的知性)」を標榜する所以となるところでもあるのですが、それは、ヌーソロジーがその先験的(人間の経験以前にすでに存在していると考えられるもの)とも言える意識空間の構造をそのまま物質の起源と目される素粒子世界の構造の中に重ね合わせて見ることが可能ではないかと考えているからです。もし、それが是となれば、物質生成の始源を人間の無意識構造に想定し、物質空間と精神空間を一体として見なせるような創造空間の中に人間の理性が介入を果たしていくことになります。そこに到来してくる超理性と、その超理性が育む超感性——この両者を持った者たちがヌーソロジーが「トランスフォーマー」と呼ぶものたちのことなんですね。——つづく

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地球から広がる空間について、その3

●身体空間を絶対不動のものとして見ること

 不動の身体という場所に出て「前」を見るとき(さっきも言ったようにヌーソロジーではこれが4次元空間(正確には4次元の回転軸)に入るという意味になります。次元観察子ψ5の位置です)、そのとき感覚化されている身体上で相互に直交しているように感じられる前後、左右、上下という三つの方向性は、身体をどのように運動させようとも決して入れ換えることのできない独自の方向性をそれぞれが持っていることが分かります。前-後はどうあがいても前-後ですし、左-右は常に左-右ですし、上-下は絶対的に上-下として君臨しています。これら三対の方向性が意識の成り立ちに対してどのような役割を演じているかについては人によって感じ方は三者三様かもしれませんが、たとえばシュタイナーは前-後軸を感情が働く位置とし、左-右軸を同じく思考の働く位置、上-下軸を意思の働く位置としています。これはヌーソロジーが前-後軸を想像界的軸、左-右軸を象徴界的軸、上-下軸をそれら両者の交換ならびに統合軸と見ることととても似ていると言えます。ヌーソロジーではこうした身体内部において意識が感じ取っている3軸によって感覚化されている身体空間を4次元に始まる二段階の直交性(単純にユークリッド空間として考えればこの空間は6次元の空間ということになります)として考えています。

前後軸——4次元
前後軸+左右軸——5次元
前後軸+左右軸+上下軸——6次元

です(下図1参照)。
 
Mono_observer
 
 前々回まで7回にわたって書いた記事『ラス・メニーナス』で詳説した内容は、この絶対不動の身体空間における前-後、左-右、上-下という三つの方向性が人間の意識発達に対してどのような役割を果たしているのかを現代思想の側面から簡単にまとめたものだと言えます。実際、フーコー、ドゥルーズといったポスト構造主義の思想家たちはフッサールの現象学が模索した超越論的な意識構造や、さらにはフロイト-ラカン派の精神分析などが著した無意識構造に関する理論の大方を踏まえた上で、近代的自我が持った自己同一性の解体に果敢に挑みました。彼らが共通して問題としているのも、上下方向の高みに立って世界を俯瞰している近代自我に内在化する権力的な視線についてです。地球を宇宙に浮かぶ一個の天体のように見おろしている視線。こうした視線によって近代以降の人間は人間自身を地球というちっぽけな惑星に生きるアメーバのような生き物として表象しています。こうした視線は僕ら現代人の意識の奥底にも深く食い込んで、自身の自我境界を悪い意味で頑に防衛している力にもなっているのです。この視線を解体し、実存としての生きられる空間に「わたし」の意識をどのようにして再帰させていくかが現代思想にとっての一つの大きなテーマになっていると言えます。

 さて、「地球から広がる空間」と言った場合、人間の内面領域(外在世界)においてはそれはモノから広がっている空間と何ら変わるところはありませんが、人間の外面(不動の身体空間)という世界を考慮すると大きく事情が違ってくるのが分かります。なぜなら、地球上にはそのような人間の外面を持っていると想定できる身体がそれこそ無数存在させられているからです。わたしにとって他者の身体からの広がりはそれこそ物体から広がる3次元と同じようなものとして見えていますが、他者はその3次元の広がりをおそらく「わたし」同様に意識的な広がりとしても感じていることでしょう。とすれば、単に3次元と見なされている地球からの広がりには他者が感じ取っている身体空間(6次元空間)が重なりあって存在しているということになります。

 逆に人間の内面を考慮して、他者の身体を単なる物体と見なしても、この場合さほど事情は変わりません。多少恣意的になりますが、他者を大地に直立して活動している物質的身体と考えてみることにしましょう。他者が地球上を自由に動き回った場合、そのときの他者にとっての前-後と左-右という方向性は地球を覆う球面方向に集約されているのが分かります。このとき「地球から広がる」と表現されている空間は他者の上-下方向に対応していることになります。つまり、地球から広がる空間の方向性は他者の身体においては他者がどのように動こうとも上-下方向となっており、これは絶対不動としての他者の身体から見た上-下方向と全く同じです。このことは人間の外面を考慮して見たときには地球(の原点)から広がる空間は4次元時空というよりも6次元の空間として見直さなければならないということを意味しています(下図2参照)。
 
From_earth_2
 
 そして、このような絶対不動の他者が地上には無数と言ってよいほど存在させられているわけですから、この6次元空間は無数の他者空間を許容する自由度を含みもって多様体化していると考えられます。つまり、「わたし」にとっての地球から広がる空間は他者の全体の外面が息づいている空間として見ることが可能だということです。その意味では、この時点で地球から広がる空間は6次元空間の回転群と並進群を重ねあわせているということになるのかもしれません。——つづく

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2009/05/19

地球から広がる空間について、その2


●球空間を一本の線として見るような概念を作り出すこと

前回の記事に関してコメントを付け加えておきます。少し長くなるかもしれませんが、長文になった場合は分割して掲載することにします。

 OCOT情報は実に難解です。その中でもマクロ空間(天体)に関する説明の難解さは群を抜いています。もちろん、現時点でも前回挙げた交信記録19950118でのやりとりのすべてが理解できているわけではありませんが、シリウス言語内に含まれている思考様式の秩序のようなものだけは何となくですがつかめてきています。ここではその秩序について紹介しながら目下のところのヌーソロジーから見たマクロ空間の見方について簡単な解説を加えておこうと思います。

 ヌーソロジーにおいて精神とは対化を等化する力のことだと言ってきました。この等化運動は幾何学的には回転運動として表象されてきます。人間の無意識構造を示したケイブコンパスにおいて各次元観察子の領域がn次元空間の回転群として表現されるのも、人間の意識や無意識の成り立ちを支えている精神構造がn次元空間における双対回転の連鎖によって構成されているのではないかと考えているからです。

 実際、自然界は様々な回転運動で彩られているのが分かります。素粒子が回り、DNAが螺旋状に形成され、地球も自らが自転し、また太陽の周囲を公転し、その他の諸天体が周り巡っているのもすべて宇宙精神の中に潜んでいる様々な次元の対化関係がヌース(旋回的知性)の名のもとに等化されているからだと考えるのがヌーソロジーです。素粒子に始まるミクロ方向に映し出されている等化運動に関しては『時間と別れるための50の方法』でも記したように、その秩序の在り方が徐々にですが把握可能な概念として浮上してきています。しかし、厄介なのはやはりマクロ方向に映し出されている回転です。

 人間が認識しているマクロ空間とミクロ空間の関係自体も実は「対化」の関係にあるということをOCOT情報では伝えてきています。つまり、人間の意識にはミクロ世界とマクロ世界は全く別のもののように見えているのですが、OCOTの知性はそれらの関係をも同一のものの二つの異なる側面にすぎないものとして見ているらしく、結果、こういうことを平気でのたまってきます。

 月の公転軌道とは何ですか?

 陽子のことです。

 もちろん、こうした内容を「狂気」の一言で片づけることもできるでしょう。しかし、僕にとってはこの超ド級のトンデモなさがなんとも子気味よい響きを持って聞こえてくるのも事実です。ひょっとしたら彼はほんとのことを言ってるのかもしれない。もしほんとうなら今まで培ってきた人間世界の常識なんてものは木っ端みじんに吹っ飛んでしまう。こうした言明の背後には一体どのような概念が潜んでいるのか、そのメルクマールやロジックをどうしてもマスターしたい。そんなヤジ馬的好奇心に支えられてヌーソロジーはここまで進んできたと言えます。しかし、何をどう思考すれば、月の公転軌道と陽子とが同じものに見えてくるというのでしょうか。

 以前、『時間と別れるための50の方法』で4次元という方向の本質について語ったとき、物質的身体から広がっている球空間を一本の線分に見立て、そのときその線分自体が持った方向性を4次元の方向性として仮定したことを思い出して下さい。物質的身体からは確かに3次元の球空間が無限に広がっているように感じます。しかし、その広がりを身体を中心にして実際に見ようとすると事情はガラリと一変してくるのが分かります。というのも、自分を中心にした空間の広がりを実際に見るためには自分が回るしかなく、自分が回転したときに見るそれは、つねに身体における「前」という一方向でしかなくなってしまうからです。これは身体側を不動の存在と見なした場合(身体が回っているのではなく、外界が回っていると考えた場合)、少なくとも身体の周囲に確認されていた3次元の広がりというのものがすべて「身体における前」という一つの方向で束ねられているということを意味しています。そして、このときのこの「前」という「一つの方向」として抽出される方向性を4次元の方向と考えてみてはどうかと言っているのです。

 このことは、眼前に世界を開示させている視野空間そのものをコンピュータビジョンのように固定されたモニター上の空間として見なせ、と言ってるのと同じです。僕らはPCのモニター上の3D映像を見るときモニターが動いているとは誰も考えません。動いているのはあくまでもモニター上に映し出された像の方です。それと同じで目前に展開している現実世界の像を3Dのヴァーチャルリアリティーのように見れば、そのモニター画面そのものとしての視野空間は不動であるという感覚を作り出すことができます。そして、このときその視野空間上に想定されている奥行き方向はもはや3次元内部の空間ではなくなることが分かります。なぜなら、視野空間自体は3次元的なあらゆる運動に対して何ら影響を受けることがないからです。つまり、視野空間上の奥行きは3次元内部には存在していないということです。ここに4次元の方向性が立ち上がります。知覚上においてはこの4次元方向に立てられた線分は「わたし」という主観のもとに世界を開示させている実存的方向にほかならないのですが、この方向のことをOCOTは3次元世界から垂上する力という意味で「垂質(すいしつ)」と呼んでいます。

 さらに付け加えておくと、この垂質が持っている4次元の長さに相当する部分は物理学が用いるような「空間化された時間」のことではないので注意が必要です。確かに視野空間をモニター状に見なしたときのその奥行きの方向性にも時間は存在していると言えますが、ここでの時間は限りなく点状にまで潰されている時間であり、時間はモニター画面それ自体の薄膜の厚みとなって潰されて縮んでいます。この縮みを光速度のカタチと呼んでいいかもしれません。そこには時計の針で刻まれて行くような時間の長さは存在していません。こうした潰された時間が「今、ここ」を作り出している「人間の外面」の場所になります。つまり、過去から現在に至るすべての時間の流れが垂質の中には一括して把持されており、常に保存されているということです。時間の流れを一括して把持するような働き、これはベルクソン哲学でいう「持続」にほかなりませんが、この持続こそが人間の精神の基盤的な働きと呼んでいいものになります。その意味でヌーソロジーではこの垂質には人間の主体の基盤となる精神が息づいていると考えるわけです。次元観察子でいうψ5の領域です。——つづく

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2009/05/12

地球から広がる空間について——OCOTとの質疑応答

Earthmoon

上画像はhttp://www.astroarts.co.jp/news/1998/01/980128near/index-j.htmlからの借用です。
 
●交信記録19950118

コ  地球の昼間の部分と夜の部分とは人間の内面と外面という対化と関係しているように思えるのですが、もし関係しているならばどのように関係しているのでしょうか。

オ はい、関係しています。それはチカラの関係です。外面が夜で内面が昼という言い方ができるでしょう。人間の意識においては外面はひとつの次元ではなく交差によって生み出された方向性の対化としての次元になります。表相はそれを生み出すための最初のひとつの反映と考えて下さい。しかし、人間の意識ではカタチが等化できないために一つの精神の力を持ち、それが付帯質の中でカタチとなったものが人間の内面なのです。人間の意識では一つの次元は内面と外面に別れ、そしてそれを等化するための次元を持つために夜と昼を付帯質の中に作ったのではないかと思われます。

コ 赤道とは垂質の総体の位置ですか?

オ はい。そのとおりです。カタチはすべて対化にあらわれています。

コ 地球の経線方向に作られる円(経度を決定している円)とは何ですか?

オ 力の反映。すべての方向性の調整作用。

コ 地球の緯度方向の円とは何ですか?

オ 垂質の等化の意味を持っています。

コ 地球と月の円心関係は人間の総体の内面と外面の位置の関係に当たるのでしょうか。

オ はい。そのとおりです。しかしカタチはまったく別のところにあります。

コ 地球に対する月の公転軌道の半径とは、地球から広がる空間を一本の線にまとめたもので、それを7次元の方向と考えていいですか?

オ 意味としては良いでしょう。しかしそれは交差を意味するものと考えた方が良いと思います。

コ もし、そうならば、月の公転とは7次元方向にある対化を等化している運動ですね。

オ はい、そのとおりです。

コ 月の公転周期が約28日だというのは、7次元の対化には28個の次元が存在するということですね。

オ 意味としてはそうなりますが、方向性は次元とは違うので注意して下さい。対化と次元とは少し意味が違うのです。ただし等化の意味ではそうです。

コ それら28個の次元が付帯質の内面における次元の方向性の数のことなのですね。

オ はい、そうです。付帯質の位置ではそうなってくるでしょう。

コ 地球から広がる空間の3次元性は実は6次元空間で、それは人間の身体空間と同じ意味を持っていませんか?

オ 意味としては同じだと思いますが、少しカタチが違います。反転したところで行われているものですね。

コ 4次元空間を人間の意識に顕在化させていくのが次元としての7次元空間の働きと考えてよいですか。

オ はい、そうです。交差を等化させていくということです。

コ 付帯質の内面方向は7次元の対化の等化と中和で閉じているのですか。

オ 意味としてはそうなります。

コ それは地球と月の間の空間とも言えますか。

オ はい、そうです。月の軌道とは力の柵のようなものです。

コ すべての素粒子と重力が生成しているのもその次元ですね。

オ はい、そのとおりです。

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2009/05/08

『ラス・メニーナス(侍女たち)』――人間型ゲシュタルトの起源、その7

 さて、今までの話からこの『ラス・メニーナス』上において表象化されている観察の視線について再度まとめておこう。

1、身体空間における第一の視線(4次元空間……前と後)

 王と画家の視線の関係として表象されている空間の方向性。これは視覚が世界を身体の「前」で捉えるという意味において、身体における前-後方向に築かれている次元でもある。ここには互いの知覚(見る)経験と鏡像(見られる)経験がキアスムをもって構成されており、この方向性だけでは意識は空間の中に明確な奥行き感覚を感じ取ることはできない。

2、身体空間における第二の視線(5次元空間……右と左)

 王と画家,互いの視線に対して直交してくる窓からの光として表象されている空間の方向性。左右から差し込んでくるこの光が室内で乱反射を繰り返すことによって部屋全体は明るみのもとに照らし出される。「前」を明るみの世界、「後」を暗がりの世界だとすれば、部屋の中に居合わせているすべての人物たちの〈前-後〉が前後となり得るのはこの明るみが存在しているからである。王は室内にいるすべての人物たちの「前」が集合しているところに自らの視線を遷移させていくことによって、事物の全体性を明るみに引き出し、事物の3次元性を象っていく。この明るみの起源は王にとってはあくまでも左右方向にあり、自らの主観は常にその光が作り出している乱反射の一部でしかない。

3、身体空間における第三の視線(6次元空間……上と下)

 「階段の男」の視線として表象されている空間の方向性。この男は窓からの光が充満している室内そのものを他の人物たちとは違った立場から俯瞰できる視座を持っている。この視座は光(客観)を我がものとした理性の象徴と考えていいだろう。彼は王を室内にいる他の人物たちの中の一人としてしか見ていないが、しかし、この男の存在を見ることができているのはただ王のみである。主観(王)はここに超越者を自らの内部に取り入れる事に成功し、超越論的主観性を手に入れる。これが近代自我が持っている統覚の仕組みである。しかし、この統覚は同時に、王自身を多の中の一として一般化する代償として得られるものであることを忘れてはいけない。人間型ゲシュタルトを解体させるためには、われわれは自らの意識を稼動させている無意識を「階段の男」よりもさらに上位に存在する何者かの位置へと進ませなければならない。そうすれば、「階段の男」の登場によって世界から神が駆逐されたように、われわれはコギト=人間を世界から追放できるのだ。7次元空間とはそうした救済者が佇む場所である——ψ13。


 ざっと輪郭を辿っただけにすぎないが、以上がヌーソロジーから見た『ラス・メニーナス』のコンポジションに潜在している無意識の構図である。終わり。ちゃん、ちゃん。

 何か長くなってしまったなぁ。皆には退屈だったかも。もうしわけないです。次回はここで取り上げた身体空間と宇宙空間の関係についてOCOT情報がどんなことを言ってるか少しだけ紹介してみようかな。。へへ。ぶっ飛んでるよ。予習のため昔のブログにも目を通しておいてね。

予習希望者はこちらへ→『ついでに上と下』 『トツカノツルギ』

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2009/05/05

『ラス・メニーナス(侍女たち)』――人間型ゲシュタルトの起源、その6

3、第三の軸――階段の男、もしくは上と下

 さて、次に「階段に立つ男」についてフーコーがどう書いているか見てみよう。

 彼がどこからきたのかはわからない。はっきりしない回廊づたいに、人々が集まり画家が仕事をつづけているこの部屋のまわりをまわってきたと想像することもできるだろう。あるいは彼自身、ついさっきまで、場面の前面、絵の中のあらゆる目が凝視している不可視の領域にいたのかもしれない。鏡の奥に認められる像とおなじように、彼も自明であるとともに隠されている、あの空間からひそかに使わされた使者かもしれぬ。といっても相違がないわけではない。彼はそこで生身の人間であり、表象されている区域の境界に外から姿をあらわしたところだ。彼はまぎれもない存在にほかならない。(M・フーコー『言葉と物』p.35)

 階段の男からは画家の描く王の姿と実際の王の姿が見えていることだろう。そしてまた、彼の視野の中には画家の後ろ姿が確実に捉えられている。フーコーがいうように、もしこの男がこの部屋の中をついさっきまで徘徊していたとれば、壁に掛けられている小さな鏡の存在も知っているだろうし、その鏡に王が映り込んでいることも周知のことだろう。さらに言えば、この部屋にいるあらゆる人物と会話を交えながら、彼らの視座に近づいては王と画家の噂話を彼らの耳元で囁いていたかもしれない。となれば、このどこからきたのか素性がわからない男は、右の窓から差し込んでこの部屋を満たしている光の全体性を自らの眼差しの中に溶かし込んだ存在の象徴化とも言える。しかし、その眼差しはその光と同一のものというわけでもない。なぜなら、今、現在の彼の視線は右手に穿たれた窓の方からではなく画家の後上部にある階段奥の回廊から差し込んでくる光に沿うようにしてこの部屋に入射してきており、彼が立っている場所も部屋の中の諸人物たちよりも幾分高みの位置にあるからだ。そして、何より、この男を部屋の外部にまさに出て行かんとする存在として認知できているのは、この構図の中ではただ王(と王妃)のみである。

 前回、左右方向からの視線は超越的なものだと語った。〈前-後〉と〈左-右〉が直交関係にある限り、この両者、つまり、〈わたし/あなた〉間を結ぶ視線とこの超越的な視線は互い重なり合うことは決してない。〈前-後〉は常に想像界のうちにとどまり、〈わたし/あなた〉という鏡像を巡って持ちつ持たれつの関係でだた主観的イメージの中で互いの間の乱反射を繰り返す。そのような意識状態に対して、左-右方向からの視線の入射は常に超越者として振る舞い、ときに審判の神として、ときに調停の神として両者の視線を同一化、均質化させ、第三項的眼差しを持ってこの〈わたし/あなた〉の間に介入する。このことは主観(内在)と客観(超越)が互いに対峙して双方その独立性を保ちながら作用していることを意味しよう。つまり、前-後の観察軸と左-右の観察軸が常時、直交関係を保っている限り、主観は客観を自らのうちに見いだすことはできないし、また、客観側も主観を自分の懐の中に入れることはできない。この作品に即して言えば、そもそも王の主観はそれが主観である限り、客観を形成し得ないし、客観は客観として神の座に座り続けたままで決して王のもとに舞い降りることはないからだ。

 こうして意識が次の段階に進むためには「階段の男」の存在が極めて重要な役割を果たしてくるのが分かる——。

彼は部屋を満たす光と同じ視線を持った超越者の化身でもあったこと。
それゆえに彼は王を部屋の中の諸人物の中の一人として一般化させて見ることができているということ。
そして、これが最も重要なポイントでもあるのだが、彼は王によってのみ見られる存在となっているということ。

王から見える「階段の男」………これはまさにこの作品そのものの情景を視野空間の中に納めている王自身の主観の中に客観が入り込もうとしている様子と見なすことができる。主観が客観を自らのうちに内在化させようとしているまさにその瞬間の様子なのである。この「階段の男」の登場によって、超越者として振る舞っていた神の視線は王の眼差しの中に同一化を果たし、王は自らのうちに自分自身を客観視し、自分をみつめる超越者としてのもう一人の自分を自分の心のうちに迎え入れるのである。

 この部屋の中で形成されている前後軸と左右軸が作る平面をヌーソロジーの考え方に沿ってとりあえずは5次元平面と比喩的に呼んでみよう。

6th_dimension_2
 
 この高次の平面上で一体何が起こっているのだろうか――それはおそらく、王の身体における前後軸と左右軸を交換可能とするような回転が生じているのだ。この回転はそれまで全く対峙的に作用していた神的な視線と主観的視線の区別をなくす働きを持っていると考えられる。当然、その回転を行わせている軸が指し示す方向はこの5次元平面に直交する6次元の方向に向けられており、それはわれわれが普段、何気に上-下と呼んでいる方向ということになるのかもしれない。

 全人類にとっての上-下という方向。それは意識平面としての大地を離脱し、地球の丸みを看破した観察の視線の方向とも言えるだろう。その意味で言えば、この絵に描かれた「階段の男」とはこの上-下方向への往来を可能とする観察力を持った6次元空間に座する超越者の姿だということができはしないだろうか。このニュータイプの超越者こそが人間の主観世界に同一化を果たした「我思う、ゆえに我あり」と語る我、すなわちコギトとしての近代的自我の本性なのである。バロック期から古典主義期にかけての時代にヨーロッパの画家たちの無意識は、〈左-右〉方向からの観察軸の成熟から〈上-下〉方向からの観察軸の確立へと向かったのだろう。ここから世界は一気に地動説的世界観へと突入し、地上を俯瞰するこの「階段の男」の視点の登場によって、神の理性のもとに生きていた人々は「理性的人間」という存在に変貌を遂げ、〈前-後〉軸を〈左-右〉軸と全く同等なものとして見ざるを得ない認識へと遷移していったのである。

 この新たに設けられた視座が人間に何を招来させたかはもはや言うまでもないだろう。〈前-後〉方向と〈左-右〉方向の差異が全く認識できないのであれば、身体は他の存在物(物質)と同一な空間レベルに堕ちていかざるを得ない。身体空間が本来居住していると思われる4、5、6という空間次元は物質空間が息づく1、2、3次元と何も変わらないものとなり、そこから溢れ出た高次元の差異の力のみが、無意識という正体不明の言葉で呼ばれるようになったということだ。世界は今やこの「人間」が行使する3次元認識の暴力に悲鳴を上げている。無意識は再び目覚めなければならない。7次元からの使者の手によって。——つづく

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