« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

2009年4月

2009/04/30

『ラス・メニーナス(侍女たち)』――人間型ゲシュタルトの起源、その5

2、第二の軸――窓からの光線、もしくは左と右

 絵は右端のところで、寸のつまったパースベクティブにしたがって表象されている窓から、光を受けている。見えるのはほとんどその窪みだけだ。だからその窪みが大きく拡げている光の流れは、交叉しているとはいえ、一つには還元しえぬ二つの隣りあった空間を、同じようなゆたかさをもってうるおすのである。画布の表面とそれが表象している立体的空間(すなわち画家のアトリエ、あるいは彼が画架をおいたサロン)、そしてその表面よりも手前の鑑賞者の占めている現実の立体的空間(あるいはモデルのいる非現実の座)をだ。(M・フーコー『言葉と物』p.30)

 言うまでもなく、「前」と「後」は向かい合う自他においては相対的な方向である。この二方向によって画家とモデルとの間には合わせ鏡のシステムが完成する。王の眼差しが画家を包み込み、またその包み込まれた画家の眼差しが今度は王を包み込む。〈見る/見られる〉のキアスムが織りなす無限の入れ子構造。。。当然、ここでは王も画家も互いが描き手であり描かれ手であるという二つの立場を兼任することができるのだが、自分がどのように描かれているのかモデルの立場ばかりに注意を向けていれば、たちまち筆の方はストップし描く行為の完遂はおぼつかないものになる。これは鏡像同士が共存している空間が持った特質である。そこでは王と画家双方の意識の流れはすべて鏡像間に敷設されるナルシシズム的回路側へと回収され、鏡像であり続けることの快楽と苦痛のバランスの中でのみエネルギーは循環することになる。

 問題はこうした二つの鏡像が共存している空間がどこから見られているのかということだ。そのヒントがこの「窓から差し込む光」に隠されている。

 右からは、目に見えぬ窓をつうじて、どのような表象をも目に見えるようにする光の純粋な立体空間があふれでる。左側では、あまりにもはっきりと目に見える横糸のむこうがわに、そのささえている表象を巧みにかわす表面が拡がる。光はその場面(部屋と画布、すなわち、画布のうえに表象された部屋と画布の置かれている部屋のことを言いたいのだが)ななだれこみ、人物たちと鑑賞者をつつみ、画家の視線のもとで、画家が彼ら表象しようとしている場所へと彼らを押し流していく。(M・フーコー『言葉と物』p.30)

 方や画家として見つめられ、方や王として見つめられている世界を同等に照らし出すこの窓からの光は同時に窓から入射してくる視線として解釈し得ないこともない。誰がこの窓からこの絵の中で起きている出来事、ならびにその情景を覗いているのかは分からないが、その眼差しにおいては、紛れもなく画家と王は単なるモデルでしかなくなるだろう。この視線においては両者の合わせ鏡の構図はすでに消え去っており、単に王と画家、二人の人物が向かい合っている状況が表象化されるだけである。

 この視線は互いの主観(実際の視野風景)からは超越した視点から放たれているものであり、二人の人物をともに「見られるもの」として対等な存在であると判断する第三者的な視線である。また、この視線はこの部屋の中にいる、侍女や召使いたち、他の誰の主観をも照らし出しているものではないという意味で、この部屋の中全体を満たす視線の秩序を調停する第三項的な視線、すなわち神の視線と言っていいものになる。部屋の中にいる人物たちの主観的空間の全体性を連続体として仮構させるという意味で、この光の介入は客観的視線の介入とも見なせるだろう。客観は実際には目に見えないものであるがゆえに言語的である。実際、言語とは現実には見えないものをあたかも存在しているかのように見せる能力を持っている。世間、世の中、外界、社会、国家。こうしたものはすべて言語の働きが中心となって作り出されている生成物である。そして、ここで重要なことは、この画家に介入してきた第三の眼差しは王と画家(部屋の中にいるすべての人物を含めてもよい)が想像のうちで形作っていた光と影のコントラストを表象のうちに明確化させてくるということだ。ここでいう光と影のコントラストは善と悪の判別化にも対比できようし、知性と情念の区別化にも喩えることができるだろう。この光と影の対比はカラヴァッジョやレンブラントといった他のバロック期の画家たちの作品に見られる共通する特徴でもある。下「聖マタイの召命」カラヴァッジョ1600年頃作。

Carav036
 
 
         *     *     *     *     *

 ちょっと回りくどい言い方になったが、ヌーソロジーでは『時間と分かれる50の方法』で説明したように、身体における前後方向を4次元として見なしている。「前」が空間としての4次元であり「後」が時間としての4次元である。そして、このときの前側としての4次元を4次元空間上で回転させた全体(この回転は無数の身体における前の集合という意味合いになる)を一本の線分と見なすような方向が5次元空間の方向性として解釈される。ヌーソロジーが主張する5次元世界への侵入とは、言い換えれば、誰の主観(前)でもなく、かつ、すべての個体の主観(前)でもあるような視座へと視点の位置を持っていくことであり、これは俗にいう客観(超越)の発生地点を知性が明らかにするということに他ならない。観察するものに対して直交性を持つというのがヌーソロジーにおける観察位置の条件だった――これを使って主観が生まれる場としての主体を3次元空間の内部から4次元へと牽引するのがヌーソロジーの思考方法の第一段階であったのだが、同時に、今度はその4次元に位置する主体を主観そのもの世界からさらなる高みへと退却させる方法論にもこの直交性という考え方を適用してみてはどうか、というわけだ。

 難しいことを言ってるようだが、これは単に認識の視線を前-後方向から左-右方向へとシフトさせる、ということの意味にすぎない。われわれが無意識のうちにいつもやっていることだ。もちろん、ここでいう左-右方向とは誰かの前後方向にあたる方向ではないことに再度、注意しておこう。主体が誰かの「前」へと視点を移動させることは4次元空間内の回転であって5次元には到達しない。5次元へと垂上するためには、個々の主観位置から「誰かの」ではなく、いかなる人物の前後でもないような、つまり、そこを「前-後」と見ているような個体はどこにも存在していないような空間概念を新たに創成させる必要があるということだ。

 おそらく、この文章を読んでいる人たち誰もが各々の意識の中に左右からの視線を入射させる技術を持っているはずだ。その視線は、君と君の目の前にあるパソコンとの間にある空隙を認識し、その距離が何cmあるかまで言い当てることができていることだろう。もし、パソコンを挟んでその向こう側に君の友人がいるならば、その視線はパソコンを中央に対峙している君と君の友人の姿を二人の全く同等の人間として眼差しているはずである。僕がいつも向かい合う自己と他者の図を書いている視座もこの第二の観察軸とも言える左-右方向からの認識の介入があってこそ作図可能となるわけだ。

 4次元や5次元というと、一気に謎めいた気分になって、神秘主義や宗教の言葉を借りて説明したくなる気分に駆り立てられるのだが、そうした誘惑はここでは潔くシャットアウトしなければなない。というのも、われわれの通常の意識自体がこうした高次の空間の関与がなければ働くことは不可能なのであり、普通、3次元認識と呼ばれる意識の在り方にもその背後ではこのようなより高次の空間の位置からの観察力が暗躍していることをヌーソロジーは主張したいからである。その意味で、ヌーソロジーが語る4次元や5次元という世界はこの時点ではまだ霊的体験や至高体験とは直接の関係を持つことはなく、それはつまるところ単に身体における前後方向とそれに左右方向が加わった地上的空間に他ならない、ということになる。

 こうした高次元解釈が退屈なものに思えるか思えないかは思考者それぞれのセンスに委ねられてくるだろうが、このように意味づけされていった高次の空間が素粒子世界や重力場といった物理空間と深く関係してくるとすれば、これほどスリリングな展開はない。なぜなら、それは人間の意識の在り方と現代物理学が説く宇宙の始源とを一気に接続させてくる可能性を臭わせてくるからである。OCOT情報に見出す価値があるとすれば、彼はまさにその関係性の数々について無数の示唆を与えてくれているところにあると言ってよいだろう。そして、その難解な示唆群を何とか一般的な思考の対象にまでに具体化させて相互了解可能なものへと作り上げていけば、われわれは宇宙の発生起源について、従来の科学や宗教を超えた観点からの思考(これがヌーソロジーにいう「noos」本来の意味なのだが)の誕生を、まさにわれわれ自身の中に発見することになる――つづく


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/23

『ラス・メニーナス(侍女たち)』――人間型ゲシュタルトの起源、その4


 さて、この『ラス・メニーナス』の中に組み込まれている幾つかの視線が織りなす構造についてヌーソロジーの観点から大まかな分析をしてみることにする。以下の内容は、まもなくこのブログで連載しようと考えている『4つの無意識機械』の内容の伏線とも言っていいものなので、とりあえずはヌーソロジーが意識構造をどのように読み解いていくのかその方法論についてのダイジェストとして目を通していただければ幸いである(最下部に示した図1参照のこと)。

 まずは次のような前提を設けて構造の骨格を抽出してみよう。

1、この作品は王の視野空間が表象化されたものである。
2、窓から入って室内を満たしている光は作品内の向かって右手側からの光の入射によるものである。
3、鏡に映し出されている空間は王が感覚化している王の背後の空間である。
4、画家には王の背後の空間そのものが見えている。
5、キャンパスに描かれている像は画家に見えている像の模写である。
6、階段の男はこの部屋全体で起こっている出来事を俯瞰する位置にいる。
7、他の人物や犬についてはとりあえずここでは取り上げない。

 1、第一の軸——王VS画家、もしくは前と後

 王の前方に画家が立ち、王はその画家に見つめられる存在としてキャンパスの背後側に立つ。しかし、ここでいう王とは、この作品によって示されているように王と呼ばれるようになる以前の者の目前に生起している現象でしかなく、「王」という自意識の種はまだ視野世界そのもののと一体化した混沌としてウロボロス的状態を保っている。そのような状態としてこの絵を見れば、当然、この絵にはいかなる意味も与えることはできない。画家も鏡も鏡に映る王自身も、そして、画家のキャンバスも、窓から入り込んでくる柔らかな光線も、それはサルトルのいう木の根っこと同じく、嘔吐を催すような不気味な光の模様でしかないだろう。それは言葉で名指される以前の風景であるがゆえに世界のありのままの様態とも呼べるし、そこからやがて王が立ち上がってくるという意味において主体の起源とも言える。

 「前」が現象として文字通り現前した後、前はいかにして「後」の存在を知りうるのだろうか。本来、決して見えることのない「後」を「前」に架空させているものとは一体何なのか。それはおそらく「眼差す」という能力を持った特異な点が主体=「前」の中に混入されて出現しているためだと考えられる。それがヌーソロジーが「真実の人間」と呼ぶ他者そのものとしての他者である。この他者は普段、われわれが日常的に対面している他者ではないことに注意してほしい。主体はこの「眼差すもの」によって眼差されることによって「わたし」というイメージを確立させ、その後、その類似したイメージをこの「眼差すもの」に当てはめることによって「他者」という概念を形成する。だから「わたし」というイメージが生まれてくる以前の「眼差すもの」に対してはそれが誰なのかを言い当てることは原理的に不可能である。このようなアンタッチャプルな他者のことをラカンは「大文字の他者」と呼んだ。未だ意味を与えることのできない原光景の中にはこのように大文字の他者が特異点として入り込んでいる。

 その把握不能とされる大文字の他者の眼差しをこの作品における画家の眼差しに重ね合わせてみよう。画家はモデルとしての王を見つめている。ここで画家が筆を下ろしているキャンバスには画家自身の目に映っている風景が描かれているのだろうが、キャンパス自体は王に対しては背側を見せているために、王はその風景、つまり、画家に見えている自分を直接知ることはできない。王にできることは奥まったところにある鏡に映し出された像を通して自分の像を想像することだけである。しかし、キャンパス上に描かれた王の像と鏡に映し出された王の像には絶対的な差異がある。なぜなら、鏡像は左右を反転させてしまうからである。このことは画家に見えている世界と王が画家が見ている世界を認識することには本性上の差異があることを暗示させている。

 画家の眼差しに晒されることによって王は自分という存在の位置を空間の中のある一点として定めることが可能になる。しかし、その位置を自分が認識する限りにおいて、それはあくまで鏡像の位置である。ウロボロスのまどろみにいた現象そのものとしての意識の居場所はこうした原光景内部にセットされた他者の眼差しによって世界からべりべりと引きはがされ、やがては肉体(瞳孔)と呼ばれる位置へと見事に遷移させられていく。世界の内部にまどろんでいた主体が世界から追い出されるという意味では、この引き剥がしは世界自身の排泄行為とも言える。世界とのカオティックな一体感から鏡像段階を通しての外部への疎外。これをフロイトのいう口唇期から肛門期の意識発達に対応させてみるのも面白いかもしれない。

 世界から排泄される運命にあるもの――これがヌーソロジーでいうところの付帯質の意となる。作品自体に表された原光景を光に満ちた昼の世界とするならば、原光景たる王の視野空間が自身の肉体を感じとっているこの付帯質の位置は「後」であり、それは光を失った闇の世界でもある。つまり、王が「わたし」を目に映し出された光景の手前側に想定するということは、後ろを見ているということと同意であり、この後ろは画家にとっての前(それは昼の世界であるはずだから)とはまた違ったものとなっているということである。

 画家に自分がどのように見えているかを王がいくら正確に描像したとしても、それが王側からの描像である限り必ずや鏡像と化してしまう。われわれが人間と呼んでいるものの観念的基盤はおそらくこの鏡像体にある。「前」そのものであった主体としての面はそこで裏面へと反転させられ、仮の面(ペルソナ)としての顔(パーソナリティー)を持たされるのだ。しかし、世界は一体何のためにこのような合わせ鏡の仕組みを用意してきたのか?世界に人間が存在しなければならない理由。世界に自己と他者が存在している理由。自己と他者のそれぞれがお互い自身の発生の起源として相互反照的に位置づけられている理由。それは一体何なのか。ここにヌーソロジーのいう「対化」という概念の本質がある。創造が「二なるもの」の分化から始まったとするならば、われわれはこの「二なるもの」をわれわれが自己と他者と呼ぶ「我」と「汝」の中に見出さなければならない。そして、その「二なるもの」とはわれわれが「前」と「後」と呼ぶものと極めて深い関係を持って構造化されている。——つづく
 
Las

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/16

『ラス・メニーナス(侍女たち)』――人間型ゲシュタルトの起源、その3

●前後からの光と左右からの光

 この絵画の中を満たす光はどこから来ているのだろうか。フーコーは次のように書いている。

 「絵は右端のところで寸のつまったパースペクティブにしたがって表象されている窓から、光をうけている。見えているのはほとんど窪みだけだ。だからその窪みが大きく拡げている光の流れは交叉しているとはいえ、ひとつには還元しえぬ二つの隣り合った空間を、おなじようなゆたかさをもって同時にうるおすのである。画布の表面とそれが表象している立体的空間(すなわち画家のアトリエ、あるいは彼が画架をおいたサロン)、そしてその表面よりも手前の、鑑賞者の占めている現実の立体的空間(あるいはモデルのいる非現実の座)をだ。」(M・フーコー『言葉と物』p.29)

 画家とモデルの間を満たす光。それは互いの視野の中にその出口を求めようと先に示した交叉円錐の幾何学に従って溢れ出してくる。しかし、これらの光の出所は結局のところ、この絵の中ではキャンバスの右端のところに位置する輪郭もはっきりとしない窓からである。この窓からもたらされる光線はこれら一連の出来事が起きているサロン自体を柔らかい光で包み込み、この作品自体の不可視の中心となっている王-王妃の瞳孔へと流れ込み、絵に表されている視野空間の情景を作り出している。そして、それはまたこの作品自体のコンポジションを構成したベラスケスの脳裏へもフィードバックされ回収されていることだろう。

 しかし、こうした構成だけではこの絵画のフレーム自体を自らの視野とする王はまだ世界の中心たる自分自身のポジションをはっきりと自らの意識に表象化することはできていない。窓から差し込んでくる光は室内に充満して、様々な人物、画家のキャンパス、鏡を照らし出し、そこに視覚では捉えることのできない種々の像を意識のうちに表象化させてはくる。が、しかし、結局のところ、王自身も鏡に映された自分や画家のキャンパスに描かれているであろう自分を表象化することによって、部屋の中の一住人と化し、この作品の視点そのものとしての不可視の中心が持っている本質的な役割は、ただ窓から入射してきてキャンパス内を満たし室内を渦巻く光に委ねられたままだからである。この絵を描くことを可能にしているこうした窓からの光をこの作品のコンポジションに即して「左右からの光」と呼んでみることにしよう。

 作品として描かれた光は見紛うことなく「前後からの光」としか言いようのないものであるが(鏡の光も含めて)、ここで前後からの光に照らし出された事物の諸関係をあらわにしている(表象化している)のは実は左右方向からの光(窓から差し込んできている光)だということだ。そして、前後からの光は左右方向からの光の存在に気づいてはいるものの、その光を自分と同一視することはこの時点ではまだできてはいない。

 そこでベラスケスはもう一つの仕掛けをこの作品の中に忍び込ませる。つまり、この部屋全体に渦巻いている前後からの光と左右からの光が行っていることの全体性、すなわち前後の光によって画家とモデルとの関係を表象させ、左右の光によって画家とモデルとの関係を表象化していたものを表象化させること、この二つに加えて、今度はその第二の表象化を行った認識の視座自体を表象化する者を象徴として作品の中に盛り込んでくるのである。

 それは絵画の中央に配された鏡のすぐ右隣、部屋の出口の階段のところにいるひとりの男として描かれている。この際、彼が何者であるかは問題ではない。いずれしろこの人物は、この部屋で今起こっていることの全体を俯瞰できる立場にある唯一の人物であろう。彼は画家としての描く立場、王-王妃としての描かれる立場、そして、その情景を見ている家臣たちの立場、それらをすべて一望のもとに眺められる立場に立っている。その意味において、彼はこのサロンという閉ざされた一つの全体空間から抜け出る開口部を知っている何者かである。彼が佇むその開口部は単に部屋から水平方向に穿たれた出口という形を取るだけではなく、次元を異にすることを暗に示すために「階段」という形で描かれている。この階段は部屋全体を支配していた二つの光の方向であった前-後、左-右から、さらに上-下という抜け道を知った意識の表象化の力の象徴でもあるだろう。

 窓から差し込んで室内に充満していた光とともに不可視の中心となっていたこのモデル(王)の視点は、この第三者たる「階段の男」によって露なものとされ、結果的に、この階段の男の眼差しは王の視点さえも自らのうちに表象化することを可能にしてくる。つまり、世界を客観視する眼差しそのものがここにおいて意識のうちに表象化されてくるのである。これは哲学的に言えば、超越と内在の合体ともいっていい出来事であるだろう。思想史的立場から見れば、この絵画が描かれた古典主義の時代を契機としてあのデカルトの「我思うゆえに、我あり」という言葉で有名な近代理性としての「我」が立ち表れてくることは言うまでもない。

 多少、まどろっこしい描写になってしまったかもしれない。次回はこれらの構造をヌーソロジーらしく簡潔な表現で解説することにしよう。——つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/08

『ラス・メニーナス(侍女たち)』――人間型ゲシュタルトの起源、その2

●〈見ること-見られること〉の相互反転

 この作品の第一の特徴を一言でいうと「見られること」が表象されているという点である。通常の写実的な絵画は風景画にしろ、人物画にしろ、画家の視野上に映し出されている視像がそのままキャンパスに描き出されたものとなっている。つまり、「見ること」が絵画によって表象されているわけだ。そのとき絵画空間はそこに描かれた風景世界の中だけで完結している。言うなればそれは対象世界だけで閉じているとも言える。しかし、この『ラス・メニーナス』はいくつかの仕掛けを施すことによって「見ること」のみならず「見られること」をも表象し、かつ、「見ること」と「見られること」との間にある境界を無効にするような効果を醸し出している。

 向かって画面左に大きなキャンパスがあり、そのすぐ右手に絵筆を執っている画家がいる。これがおそらくベラスケス自身だろう。彼は自分が描いている絵が正確にモデルと一致しているかどうかを確認するかのように首をわずかながら傾げながら、モデルらしき対象の方を見ている。その傍らにいる少女、そして道化師、その背後にいる召使い風の男もまた画家が描こうとしているモデルの方に視線を向けている。これら複数の視線の効果によって、鑑賞者には画家が単なる静物画を描いているのではなく、某かの人物をモデルにしているのではないかと思えてくる。そして、さらなる絵の細部に注意が向かうことによってその思惑を確信し、人物の正体までもが明らかになってくる。

 それは部屋の奥まった位置、ちょうど少女の頭の上あたりにそのモデルとなる人物が映し出された鏡らしきものを発見するからだ——鏡の中には大人の男女のペアが仲睦まじく並んでいる様子が窺える。おそらく、この少女の父と母ではないのか。二人はこの館の主に違いない(実際、このペアは時のスペイン国王フェリペ4世とマリアーナ王妃とされている)――こうした連想によって鑑賞者は結果的に、この絵画のフレーム自体がモデルである夫妻どちらかの視野世界であることを知る。つまり、この作品においては描く者と描かれる者とのコンポジションが通常の写実画とは正反対の方向へ反転させられた形で表象されているのだ。

 このコンポジションの反転において、キャンバスと鏡が果たしている役割には絶大なものがある。向かって左側に立ててあるキャンバスには画家の目に見えている情景がおそらく正確に描き写されていることだろう。そこにどのような情景が描かれているかは中央奥の鏡が保証してくれている。もし、鏡によるこの保証を絵画から取り除けば、この絵はある裕福な画家の一族を描いた肖像画とも受け取れないこともない。しかし、この絵画を支配している計算高い光学はそのような解釈を決して許さない。なぜなら、奥まったところに立つ壁には用意周到にも何点かの絵画がかけてあり、それらはすべて薄い暗がりの中に沈み込んでいるからだ。薄闇の中に沈殿したこれらの画との比較によって、壁の中央にかけられた男女の像を囲う額が肖像画などではなく、それ自身光を反射する鏡の枠であることが鑑賞者にはすぐに分かる。

 画家は見るものであると同時に見られるものでもある。と同時に、モデルとなっている夫妻も見るものであると同時に見られるものである。こうして、互いの視線は合わせ鏡のように互いに互いを反照させ合い、その軌跡は〈含むー含まれる〉の関係を無限に反復させることになる。

 ここに展開されている幾何学的関係はヌーソロジーではおなじみの交差円錐のモデル(下図参照)で表すことができるが、参考までに観察子での対応を示しておくことにしよう。

1、次元観察子ψ3……モデルとなっている人物の視野空間そのもの
2、次元観察子ψ4……夫妻像が映し出されている鏡の中の空間
3、次元観察子ψ*3……夫妻像が描かれていると想像される画家のキャンパスの画布
4、次元観察子ψ*4……この作品自身の構図に表されている遠近法。

 反転のコンポジションがない場合、つまり一般的な写実画の場合、絵画は大方がψ3とψ*4を表象化していると言える。このときにいうψ3とは絵画の画布面そのものに対応しており、ψ*4の方はその面上に遠近法として与えられた奥行き表現に対応する。しかし、この絵画は、作品自体の中に画家の描くキャンパスと鏡を描くことによってψ3とψ*4の関係をそれぞれ反転させ、ψ4とψ*3の関係を絵画の中で表象させることに成功している。ここでいうψ4とは鏡に映し出されたモデルの顔およびその背後の空間に想定されている奥行きであり、ψ3はキャンパスに映し出されていると想像される画家自身が見ている視野である。モデルの立ち位置からは決して窺い知ることのできない画家の視野は鏡によって表象(代理)され、夫妻はこれによって自身の顔や背後を表象することが可能になる。
 
View
 
 さて、この当たりまでならば僕らレベルの頭でもどうにか分析が可能だろう。しかし、この作品が表象化しているものは実はそれだけではない。フーコーはこれらに加えて、画面右奥に描かれている今まさに部屋から出て行かんとする男の視線やこの絵画の中を満たしている光、そらにはこの絵画を鑑賞している当事者についても鋭い分析を行っている。実はこの分析によって抽出されてくるものが表象のシステムの完成体と深く関係を持つものなのである――つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/05

『ラス・メニーナス(侍女たち)』——人間型ゲシュタルトの起源、その1

Imgphp_2
 
ロッジの方でnooobie(ヌービー)さんという方がご自身の日記にベラスケスの『ラス・メニーナス(侍女たち)』(上図)という絵画をUPされていた。この作品がヌーソロジーの観察子概念であるψ3〜ψ4と関係があるのではないかという問題意識からである。無意識というものが視線の幾何学によって構造化されていると考えるヌーソロジーにとっては、このnooobieさんの問題提起はヌーソロジーの王道をいくものであり、僕はすぐに以下のようなコメントをつけた。


>nooobieさん、こんにちは。フーコーの『言葉と物』のしょっぱなにこの絵のことが解説されてますね。nooobieさんのおっしゃる通り、この絵には様々な観察子のレベルが幾重にも入り込んで、秀逸なアイデアを以て表現されているように感じます。ψ3~ψ4は言うに及ばず、ψ*3~ψ*4、そしてそれらが織りなすキアスム、さらにはそのキアスムを統合する視点まで盛り込まれていると解釈することも可能ですね。

 『言葉と物』においてフーコーは、この絵画上における視線の交差の分析を通じて古典主義時代(ルネサンス期から近代の橋渡しの時代)における知の在り方についての分析を行っています。知の在り方というのが分かりにくければ、主体の在り方と言ってもいいかな。主体がどのようなやり方で自身の意識を綜合させているかということを、この絵画の中で交錯している様々な視線の関係性から解説を試みています。

 フーコー自体の分析はかなり難解なので(というか、言い回しがまどろっこしい)、僕のレビューにも挙げた大澤真幸さんの『資本主義のパラドックス』を是非、お読みになられてみるといいと思います。大澤氏はフーコーが言いたかったことをもう一歩分かりやすく解説してくれていまから、nooobieさんをクラクラさせている幻惑が少しは明晰な幾何学となって整理されてくるかもしれません。


 ちなみに、大澤氏の解説を読む限り、この絵画に含まれているすべての視線ははヌーソロジーでいうψ9~ψ10のシステムまでをすべて網羅して、ψ11~ψ12の段階へとまさに突入せんというところの状態だと言えそうです。ヌーソロジーの文脈では、古典主義の時代というのは、実際、ψ9~ψ10からψ11~ψ12に向かう転換点のような時期に当たると考えていたので、そのへんの論説を補強する材料として使えます。新著でもこの絵を題材にして、思形や感性の説明をしようと思っていたところだったのですが、nooobieさんのいきなりのUPにちょっとビックリです(笑)。

                 *  *  *

 絵画を思考によってこと細かく分析することを感性の蹂躙だとして嫌う人たちもいるが、絵画の歴史の中には「さぁ、この絵のナゾを解けるもんなら解いてみろ」といわんばかりの作品が時折、登場してくる。このヴェラスケスの作品もその中の一つと言っていいだろう。人間において実際に見えている世界、つまり「人間の外面」という場所に精神が息づくと考えるヌーソロジーにとって、絵画史とは精神の有り様の履歴でもある。絵画が意識の表象を表象するものである限り、人間の創造力が見えている世界をどのように表象するのかというその表象の仕方、させ方の中にその時代時代の精神の様態が表象されていると考えるのはきわめて自然なことでもある。そして、多くの絵画評論が語るように、絵画における表象の在り方は人間の歴史の進展とともに多くの変遷を見せてきた。

 フーコーがこの『ラス・メニーナス(侍女たち)』の分析で言いたかったことは、古典主義の時代(17世紀〜18世紀iにかけての西欧)において表象を通しての思考体系の基盤が完成されたということである。「表象を通しての思考体系」とは、簡単に言えば、見えるものにすべてが還元され、思考がその中から一歩も出られないような場のシステムいったような意味だ。古典主義の時代に確立されたこの思考体系は同時にデカルトの「我思う、ゆえに我あり」における「我」なる存在を生み出したと考えられるのだが、これは近代という時代を絶えずリードしてきた近代理性の主(あるじ)としての「わたし」のことにほかならない。理性=明らかにする力。そして、この明らかにする力というのは目の力のことでもあり、それは隠されていたものを表層へとえぐり出す行為、すなわち表象化する力のことにほかならない。しかし、ここで注意しなければならないのは、表象とはその原語がre-presentation=再-現前化することの意でもあるということだ。それはあくまでもリプレイされた現前であり、事物そのものの現れのことではない。リプレイされた像によって世界がすべて覆い尽くされてしまうということは、むしろ事物のそのものの現れをすべて隠蔽するためのシステムとも言える。そして、このリプレイする力こそがヌーソロジーで「人間型ゲシュタルト」と呼んでいるもののことなのである。世界が人間型ゲシュタルトで覆い尽くされしまう契機がこの作品には表象されている、というわけである。

 では、一体、この作品の何が、世界を表象で満たし、その表象が作り出すシステムから一歩も出ることのできない「わたし」を表象させているというのだろうか。ここではフーコーの分析を下地にしてヌーソロジーからの分析のあらすじを簡単に書き加えてみることにしよう。——次回につづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/03

スカイ・クロラ

Skycrawlers_gallery_23_large_2


 空の青さに理由もなく泣けてくることがある。
 感傷の涙でもなく、もちろん感謝の涙などでもない。
 ただ空があまりに広く青いこと。
 それだけで、涙するには十分だ。
 
 こんな感覚を体験したことがある人には、この『スカイ・クロラ』は超オススメの映画だ。監督は『攻殻機動隊』『アヴァロン』『イノセンス』などでおなじみの押井守。『攻殻機動隊』は恥ずかしながらまだ見たことがないのだが、僕的には『アヴァロン』『イノセンス』よりも角が取れたという意味でいい出来に思えた。作品のトータリティーとしては★★★★★。宮崎駿の世界よりも遥かに詩的です。。『崖の上のポニョ』が好きな方は見てはいけません(笑)。

 舞台は、あり得たかもしれないもうひとつの現代。世界はすでに平和が達成され、その平和を認識するためにショーとしての戦争が行われている。ここで戦争を受け持っているのは国家ではなく二つの多国籍企業だ。戦争というからには誰か人が死ななければならないわけだが、そんな平和な世界で一体、誰が自ら進んで殺し合いを引き受けるというのか——それが「キルドレ」と呼ばれる、思春期の姿のままで大人になることができない突然変異種たちだ。彼らは戦死する以外は永遠の生を生き続けなくてはならない。いや、たとえ戦死しても………(口にチャック^^)。彼らにとって戦争はコンピニのバイトと同様、ありきたりのルーティーンワークと化しており、その終わりなき生のループの中で、自分たちの生きる意味さえ見失っている——。
 
 押井守は、この映画を現代の若い人たちに向けて作ったというが、おそらくそれは興行上の建前じゃなかろうか。押井作品の一つの特徴は作品の背景につねに存在論的な問題意識が根付いているところにあるのだが、この作品も今までの作品とテイストこそ違え、その路線を一歩もはみ出るものではない。社会が成熟し、生に対する意味が希薄になりつつあるこの時代、この作品は確かに終わりなき日常を空虚に生きる若者たちへのメッセージのようにも思える。一見しただけでは、そのメッセージは「父(権力や体制)を殺せ!!」といった60年代のアジの焼き直しのようにも取られがちだが、現代の若者には殺すべき父などもはやどこにも存在していない。いや、父は巧妙な手段で姿を隠してしまい、その父を探し当てる気力などとっくの昔に消え失せている。たとえ、父を探し当て殺害したところで、殺した奴がまた新しい父となるのは目に見えている。こうした人間社会の動かし難い現実に諦念を抱いているのが現代の若者である。もちろん、押井守もそんなことは知っている。だからこそ、あえてもう一度、彼は「父殺し」をテーマとしなければならなかった。僕にはそのように思えた。——ラスト近くで、主人公のカンナミ(キルドレのパイロット)が自ら操縦する戦闘機の中で「I'll kill my father!!」とつぶやきながら、父の象徴である「ティーチャー」(敵の戦闘機)に突進していくのだが、このときの父とは、もはや社会的、政治的な権力や体制を象徴するものではない。何かもっと別のものだ。

 その意味で、この作品は現代の若者に対するメッセージというよりも、人間そのものに対するメッセージとして受け取った方が逆に理解しやすいのではないかと思う。これは「終わりなき日常」というよりも「終わりなき人間」に対する押井守自身による異議申し立てなのだ。終わりなき人間——それは押井守が若い頃からずっと抱き続けている哲学的テーマ、すなわち永遠回帰を巡る問題と考えていい。

 君は確かに輪廻している。しかし、生まれ変わっても、君はかつての両親のもとにまた君として生まれてきて、君が辿った人生と寸分も変わぬ人生を再度送ることになる。そして、この反復はオルゴールのように永遠に繰り返される——さぁ、君はどうやって、この猿芝居を仕組んだ父を殺そうというんだい?

 空の広さの中に見える人間であることの永遠性、
 空の青さの中に垣間見えるその永遠の向こう側。
 僕らはみんなスカイ・クロラ(空を這う者)というわけだ。

 映画のストーリーはネタバレになるのでほとんど書かなかったが、この作品は物語というよりも叙情詩として鑑賞する方がいいのかな。あっ、あと、必ず、エンディング・ロールが終わるまで見ることをおすすめします。

予告編はこちら→『今夜も星に抱かれてby ayaka(スカイ・クロラのテーマ)』

(写真はhttp://eiga.com/movie/1956/gallery/23より借用させていただきました。)

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »