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2009年2月

2009/02/26

地球、月、太陽の本質(1)

Pastuniverse32

●交信記録19940320

地球に対する月の公転周期28日とは何を意味するのですか。以前に付帯質が等化を行うまでの次元の数とありましたが、それは正しいのですか。

はい。

太陽に対する地球の公転周期1年とは何を意味するのでしょうか。

人間の意識における覚醒を起こす対化の数です。

1年の間に月は地球の周りを約13回公転します。このときの「13」とは何を意味するのでしょうか。

人間の意識における進化への反映を起こす対化の数と考えられるといいでしょう。

地球の一自転、すなわち一日とは何を意味するのですか。

精神が精神を交差する位置です。

1年が約365日になるのはどのような意味があるのですか。前に「365とは等化のカタチを持ったものすべてを表す次元数」といわれましたが、それは「精神の内面と外面を等化したものが再び付帯質を形作るまでの次元数」と同じような意味ですか。

方向性としては全く同じですが、正確には変換作用における対化の等化における次元数に当たります。

地球に対する月の公転と自転の周期が全く同じなのは付帯質の内面と付帯質の外面が全く等しい力で働いていることを意味するのですか。

はい、そうです。付帯質としての力の方向性が全く同じ力で働いているからです。

月の公転が付帯質の内面の次元で、月の自転が付帯質の外面の次元と考えてよいですか。

はい、よろしいです。

それは人間にとっての善なるものと悪なるものの関係と同じですか。

人間が本来の方向性を反転させていることを悪とするのならば、同じことを意味します。


■解説

 さて、いよいよ天体についての情報が出てきた。例によって「難解な、あまりに難解な」OCOTによる説明が綴られている。「取りつく島もない」というのはまさにこのことだ。

 以前、『シリウス革命』にも書いたように占星学や神秘学などとの擦り合わせで、ある程度、惑星の持っている意味はヌーソロジーの観点からも辻褄合わせを行うことはできる。しかし、ミクロ空間と違って、マクロ空間に対しては僕自身まだ肝心の描像がしっくりときてはいない。ここでいう「描像」とは、ちょっと抽象的な言い回しになるが、「大陽系空間が一体、どのような観念の表現空間であるのか」という意味での描像だ。いや、一気に大陽系空間にまで飛躍するのは身のほど知らずと言うべきかもしれない。それ以前に地球の外部に広がっている空間とは一体いかなる意味を持つ空間なのかをヌーソロジーの思考から深く再考する必要性がある。近代理性の目で大陽系を見て、そこにいくら問いかけたとしても、おそらく大陽系は自身の出生の秘密を微塵たりとも明かしてはくれないだろう。
 
 哲学でもよく言われることだが、人間の理性の目というのは架空のオールマイティーな視座から世界を見て、あたかも自らが神であるかのように振る舞っている。例えば、科学番組ではよく原始の地球の姿がCGで再現されたりする。ドロドロの溶岩が地表を覆い、そこに分厚い雨雲が覆い、長期間、雨が降り続け、溶岩を徐々に冷やして行く様子がCGのカメラアイによって描写される。しかしここで僕らは慎重になる必要がある。一体、誰がその様子を見ているというのか。そこで原初の地球を見ている目とは一体誰の目なのか。この科学自身が描く宇宙史の中では、原初の地球においては世界を見ることを可能にする眼球どころか未だ微生物の元となる有機物さえも発生していないのである。科学的理性はこの矛盾、ならびにその越権行為に対してあまりに無頓着すぎるのだ。

 科学的理性は自らが思考対象とする物質というシステムの中では極めて精緻で素晴らしい理論構築を行う。これはもちろん賞賛に値することは言うまでもない。しかし、その一方で、認識や意識の問題を全く考慮していないために、世界が差異で成り立っていることをほとんど忘却している。世界は観察者という差異を含んで初めて世界として成立し得るのであり、この観察をなし得ている力は時空に散在する物質という同一性の中で説明し得るものでは決してない。脳内のシナプスの発火が意識を生じせしめているとして、一体、その発火がどのように意識の発生と結びつくというのか、それに対して科学は語る言葉を持たない。

 この生の現場に、様々な関係性のタベストリーで織り込まれた者。それが現存在、世界内存在としての「わたし」である。それは意識という現象の名のもとに立ち表れた存在を構成しているであろう諸関係の総体の綴じ目のようなものでしかない。この綴じ目のもとに時間や空間、さらには地球や大陽系が存在しているのであって、その逆では決してないのである。自身の今見ている現実(リアル)、そしてそれを支えている諸観念から乖離することなく世界を見つめることが肝要なのだ。それによって初めて「わたし」は星の秘密と接続することが可能になる。いつも言ってることたが、惑星は決して単なる土塊として機械的に回転しているのではない。科学的理性にはまだ見えてきてはいないが、それは僕らの精神を形作ってい高次元精神の活動の痕跡(トレース)なのだ。

 とは言ったものの、一体いかにして、世界内存在としての「わたし」から見た地球や惑星にアクセスすることができるというのだろうか。そのためにはまずは身体から広がっている空間というものがどのような観念を含んでいるかを注意深く探索しなければならない。その諸観念が見えてきてこそ、僕らは真の地球に、不動の大地としての地球に立つことができる。当然、その先には不動の月、そして不動の太陽が待っていることだろう——つづく

 上画像はhttp://www.ne.jp/asahi/tk/7777/universe/pastuniverse.htmより借用しました。


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2009/02/24

DNA、RNA、細胞……先は長い。。

Bio2_mousel2_2

 さて、前回のDNAについての情報の続きだ。皆さんに分かりやすく解説したいのはやまやまなのだが、残念ながら、このへんの内容については現在のところ手も足も出ないというのが正直なところだ。ただ一つ言えることは、生物の中に見られるDNAから染色体、細胞に至るまでの構成は、OCOT情報がいうところの「真実の人間」の精神構造と深い関係を持っている。これは、原子次元でいうとアルミニウムから鉄までの元素生成の次元とある意味、並行関係にあるのかもしれない。

 精神進化が鉄の次元(精神の内面の奥裡)を凌駕するときに、精神は精神の外部に向かって力を作り出す。どうも、この場所の力が同時に人間に付帯質の内面への覚醒を送り出す力となっているようだ。元素としてはここからコバルト(原子番号27)、ニッケル(原子番号28)とその生成が続いていくが、ここからの領域は精神の外面と呼ばれ、その位置から見て中和側に見えるところが細胞分裂、つまり、卵割が始まる場所に対応するのではないかと考えている。僕がつねづね付帯質の外面領域における「人間の内面の意識総体」を精子、付帯質の内面への方向性を持った{人間の外面の意識総体」を卵子に喩えるのも、その裏にこうしたビジョンを漠然と持っているからだ。これはギリシア哲学風に言えば、ロゴスとコーラの関係にある。いわゆる神の精子とその精子の侵入を待つ子宮の関係だ。

 動物においては精子と卵子といった生殖細胞の結合によって受精卵ができ、そこから細胞分裂によって卵割が始まるが、このビジョンからいくと、卵割が繰り返されていく次元は付帯質の内面の顕在化を引き起こしているもととなっている精神の外面次元の物質的投影に対応しているようだ。実際、別のところでOCOTは「細胞分裂とは精神の覚醒」と言っている。
 卵割の形成秩序、いわゆる胚細胞内部の形態形成はその意味で、付帯質の内面の構造と同型対応する部分が出てくると思われる。とにかくこれらの情報の読み解きはまだまだ先のことになるだろう。


●交信記録19940311——2

エイズウイルスとは何ですか。

中性質が内面を持つことにより、生み出された付帯質の内面のカタチです。

DNAとは真実の人間における思形の対化と考えてよいのですか。

はい、そうです。対化の交差を行さわせるために生み出されたものです。精神の等化が行われているところです。

DNAの中のアデニン、グアニンとは自己と他者を等化する意識が存在しているところですか。

はい、そうです。同じことですが、中性質の中和という言い方ができます。

DNAの二重鎖を真ん中でつないでる水素結合とは位置の変換と転換の交差を意味しているのですか。

はい、人間の意識における覚醒と反覚醒を意味しているところになります。

RNAとDNAの違いは何ですか。

元止揚の観察精神と進化のカタチの観察精神の違いです。真実の人間による調整が行われています。

RNAの塩基はDNAの中のチミンがウラシルに置き換わっていますが、ウラシルとは何なのですか。

人間の意識における調整が行われているところです。

RNAがDNAを転写しているといわれてますが、これは何を意味するのですか。

それは人間の意識における調整を等化させていることを意味します。

転写したRNAは細胞核の外に出てタンパク質を合成するリボソームという粒子に結合するといわれてますが、リボソームとは何なのですか。

人間の進化のカタチに方向性を与えるものです。

タンパク質を構成するアミノ酸とは何ですか。

人間の意識の交替化を生み出させるための次元の対化です。

植物は光合成によってブドウ糖を作り出していますが、ブドウ糖とは何ですか。

定質の調整が内面に顕われているものだと思います。

上写真は以下のサイトから借用させていただきました。
http://rikanet2.jst.go.jp/contents/cp0490/contents/bio2_h002.html


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2009/02/20

ヌーソロジー・ロッジ開設!!

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今週始め、Ricardoさんの尽力で、ヌーソロジーのSNS「ヌーソロジーロッジ」ができました。
このSNSはヌースアカデメイアの公認SNSです。アドレスはこちらです。→ http://ouroboros.so-netsns.jp/

最初は紹介制で進めていく予定だったそうですが、
閉じた場はヌーソロジーにはふさわしくない、ということで、
Ricardoさんとの話合いの結果、オープン制でいくことにしました。
メンバー加入希望の方は、トップ画面右上の「新規登録」をクリックして、
必要事項を記入してお入り下さい。
ヌースっぽい仲間がたくさんいます。何がヌースっぽいのか意味不明ですが。。
もちろん、閲覧だけなら、下の公開コンテンツからできるようになっています。

SNSって何なのか僕自身よく知らなかったのですが、
まぁ、たまり場のようなものなのかな。。
会議室もたくさんあって、いつもカオスに陥りがちなヌーソロジーに関する議論も、
ここなら、それなりに系統立てて進めていけるのではないかと思っています。

ビギナーズの会議室も設けてありますので、
ヌーソロジーに少しでも興味のある方はどんどん参加して下さいね。
僕もできるだけ顔を出して、場を賑わせたいと思っています。

尚、ヌーソロジー・ロッジ開設に合わせて、現在の掲示板「ATRIUM」の方は2月一杯でクローズさせていただきます。何とぞご了承下さい。

では、では、ヨ・ロ・ピ・ク!!


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2009/02/19

燐光に照らされた顔

Po4
 
 
●交信記録19940311——1

DNAの中のリン酸とは思形の中の3番目の次元ですね。

はい、対化の内面性がすべて生み出されているところと言えます。

DNAの中の糖とは思形の中の5番目の次元ですね。

はい、付帯質の等化を意味する次元です。

DNAに寄生してくるウイルスとは何ですか

性質の交差によって生み出された付帯質が内面を持つことにより、カタチが等化されたもの

クローン技術が進んでいますが、前にはこのことを「人間が人間の方向を無に帰している」と言われました。一体、クローン細胞の中では何が起きているのでしょうか。

精神の交差が内面を持つということを位置としては失なわさせている状態です。

■解説

DNAの中のリン酸とは思形の中の3番目の次元ですね。

はい、対化の内面性がすべて生み出されているところと言えます。

 正直言って、DNAの世界はまだほとんど見えていない。ただこれらのOCOT情報から、皆さんもDNAの世界がいかに高次の精神活動の産物であるか、わずかながらも見当がつくのではないだろうか。現在の科学ではDNAは偶然の化学変化の積み重ねによってできた産物のように見なされているが、ヌーソロジーの観点からすれば、DNAの生成は空間に潜む人類には未だ知られていない高次元精神の活動状況だと言える。その解明はまだ途に着いたばかりだが、ここでその内容を少しばかり紹介しておこう。

 まず、注目すべきはDNAを構成する元素群である。DNA分子を構成する元素はなぜかH(水素)、C(炭素)、N(窒素)、O(酸素)、P(リン)の5種類の元素に限られている。これらのうち、H、C、N、Oの4つは、前回話したように、中和作用が持った反復性として生成の中に組み込まれた観察子群に対応させることが可能だ。しかし、不思議なのはなぜそこに原子番号「15」であるリンがいきなり介入してきているのかということだ。一体、このPってなんやねん?何でこんなもんがDNAに混じっとるねん?

 実はこのリンという元素、生物学ではDNAのみならず生体のエネルギー代謝には欠かせない元素となっており、おまけに、リン脂質として細胞膜や皮膚の形成にも深く関わっている曲者なのだ。リンについての与太話は以前「存在の皮膚」というタイトルで詳しく書いたのでここではリフレインは避けるが、とにかくリンは先に挙げた生体主要4元素を別とすれば、生物が生物であるためのアイデンティティー的存在と言える。

存在の皮膚→ http://noos.cocolog-nifty.com/cavesyndrome/2005/10/post_f848.html

 さて、ではなぜリンなのだろうか——別のところでOCOT情報は「リンとは人間を次元に関与させるための力」だと言っている。これは前回の言い方をすれば、リンが生成世界に人間という闇を引き入れるための役割を持った精神として作用しているということを意味している。僕はつねづね「人間は神のウンコだ。人間は生成から疎外されている」と言ってきたが、実際には、人間は宇宙精神が有機物を作り出すためには必要不可欠な存在であり、DNAの生成に至っては人間の意識次元がその土台を担っていると言っても決して言い過ぎにはならないのではないかと思っている。有機体としての人間。カタチを持たない精神としての人間。リンの位置を凝縮化バージョンで表したケイブコンパスで指し示すと下図1のようになる。煩雑さを避けるため奇数系観察子のみで記そう。(※ここでは前回までの流れに沿って、精神の内面次元を上側に置いている)
 
Cave_compass_p
 このリンの位置は、現時点でのヌーソロジー解析では顕在化した次元観察子としてのψ*3、つまり、他者の知覚正面に当たる。つまり、ここで精神は彼岸へと到達しているわけだ。この位置は人間の意識にナルシス的自我を与えるための最初の契機となる「鏡」の機能を持つ精神の位置を持つ。他者の視野空間と言えばもっと分かり易いかもしれない。
 この次元観察子ψ*3は図には表していないが、下位(付帯質の外面)に実は次元観察子ψ4を引き連れてくる。このψ4とは何かというと、モノの手前に「わたし」という存在が位置づけられていることによって派生してくる人間の認識における空間の3次元性のことだ。つまり、リンは3次元空間の概念を作り出す根本的な原因となっている力なわけだ。おそらくその意味なのだろうか、OCOT情報では、リンは別名「付帯質の念因(ネンイン)」とも呼ばれている。僕が人間の内面(物質空間)のことを仄暗い空間と呼ぶのも、人間の内面の基礎であるこのψ4の球空間が、リンが放つ燐光、つまり、他者が見ているであろうわたしの背後世界を照らし出している想像的な光によって生じていることを常々イメージしているからだ。当然、この光は盲人でも捉えることのできる光であり、ボルヘスによれば、それは深い藍色だという。まさに深海の色だ——自分の顔を見ている他者の視野空間を想像すること。また、その視野空間によって自分の顔がイメージされていることを確認すること。。

 このリンの原子番号「15」は奇しくもタロットカードでは「悪魔」に相当するナンバーでもあるのだが、ここには偶然とは思えない奇妙な一致がある。それは英語でのリン(phosphoros)の語源がギリシャ語の「光をはこぶもの」という意味を持っているということだ。これは知っての通り、ラテン語ではルシファー(Lucifer=光を運ぶ者)の意となる。

 他者とは彼岸に存在する神同然の存在だとヌーソロジーでは常々言ってきた。しかし、このオカルト的符合は、他者とは同時に容易に悪魔にも成りえる対象でもあるということの教唆なのだろう。神と悪魔とは、実のところ、同じものを二つの異なる角度から見たときの別々の呼称にすぎないのだ。確かに、他者の眼差しは「わたし」という定点を発生させるためには必要不可欠な存在だが、その眼差しに「わたし」が囚われの身となり、遂にはその眼差しそのものに「わたし」が同一化し、「わたし」がわたし自身の眼差しを放棄するまでにいたったとき、世界は一挙に暗闇と化し、わたしは一人、闇を徘徊するオイディプスと化す。「透明な存在」における受動的ニヒリズム。これがOCOTのいう「精神進化の方向性を失ってしまった力」の世界、つまりスマルのことだ。この構造から垣間見れる教訓が一つだけある。それは彼岸へと渡る道には二通りのものがあるということだ。ひとつは自己克服の道で、一つは自己放棄の道。後者は人間の惰性力で容易に到達することができるが、そこにはもはや精神は存在しない。前者は自己を生き切ったときに初めて見えてくる場所なのだろう。存在のエチカがここにある。

 冒頭の図が示す通り、このリンはDNA分子の中ではP04(リン酸)として組み込まれているが、このリンに付着した4つの酸素原子は宇宙精神がリンの生成次元に辿り着くまでに、2回の転換作用の対化(酸素分子)を必要としていることを表している。ごく簡単ではあるが、リン酸=PO4という概念のカタチがどこに存在しているかを目の前の空間で説明しておこう。

 今、君の前には君が客観世界と呼ぶ空間(時空)が広がっている。それを作り出している概念が酸素だ。おそらくそれは他者側からも見えていることだろう。そうした君の認識のカタチそのものが二つの酸素原子を意味している。そして、君はこれと同じ認識を他者が持っているであろうということもまた認識している。それがO4だと考えるといい。そして、そこに、それを見ている君自身の位置がポツンと投げ込まれているのが分かる。その位置は他者の眼差しであるリンによって照らし出された位置であり、この位置そのものは元素としては原子番号16番のS(イオウ)として機能してくることになる。深海の海底から吹き上げてくる黄褐色のSO2=二酸化イオウの気泡。これもまた生命の発生には不可欠な物質とされるものである。

 いずれヌーソロジーはDNAの分子構造のすべてを目の前の空間の中に表現して見せてくることだろう。そのときは、この世界そのものがDNAの中に存在しているということが明瞭に知覚されてくるはずだ。OCOTがDNAのことを「概念の位置」と言っているのも、DNAが人間にとっての真実の脳であるからに他ならない。

(冒頭の図はhttp://www.tmd.ac.jp/artsci/biol/textbook/nucleus.htmより転用)

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2009/02/17

原子と分子

●交信記録19940222

素粒子の次元と原子の次元の違いとは何なのでしょう?

第一関与自身がその内面に生み出したものと、内面の反映に生み出したものとの違いです。

第一関与とは何ですか?

………………。

それは付帯質の外面にあるものと、付帯質の内面にあるものの違いと考えていいですか。

はい。

それは次元と次元交差の関係ですか。

はい。

原子と分子の違いは何ですか。

精神作用が原子で、感性作用が分子という言い方ができます。

原子が精神進化が直線性として現れたもので、分子が精神進化の反復性のような気がしますが。。

はい、その通りです。

カタチが原子ですか。

はい。原子とはカタチの総体です。

素粒子の体系とは付帯質の内面における次元の方向性が人間の内面の次元に現れたものなのですか。

はい、人間が持った方向を変換している力の総体と考えるといいでしょう。


■解説

 似たようなテーマばかりが続いて皆さんには申し訳ないのだが、交信が続いている当時は素粒子と原子の次元がどのように絡み合っているのか全く見当もつかず、このように何度も何度も同じような質問を繰り返していた記憶がある。

 ここでも質疑の焦点となっているのはやはり素粒子と原子、さらには原子と分子といった物質を構成している諸要素における次元の違いだ。そもそも皆さんには素粒子と原子の次元の違いという言葉すら何を言っているのか意味不明かもしれない。ヌーソロジーに馴染みがある方は、ヌーソロジーがヘルメス主義的世界観をベースにして、現代科学が仔細にわたって分析、解明してきた物質世界の構造を精神の構造へと翻訳させるための思考製作であることはもうご承知のこととは思うが、蛇足ながら、その入口のコンセプトについて簡単にまとめておこう。

1、人間は重力によって時空という迷宮の中にその意識を投げ込まれている。
2、そこは物質という同一性が支配する差異なき差異の世界である。
3、そこに本性上の差異としての主観の場(知覚野)がくっついている。
4、主観は知覚に始まって内在として主観固有の意識領域を持っており、その領域の中で他者を認識し、客観を形成している。
5、この知覚に始まり、感性や悟性を発達させ、客観、さらにはそれらの綜合体としての超越論的主観性(現象論的自我)に至るまでの構造を裏で作り上げているなにがしかの力の流動構造がわれわれの意識の裏に存在している。
6、この裏の機構をヌーソロジーでは人間の無意識構造と見なす。
7、この無意識構造は現代物理学が内部空間と呼んでいる素粒子の場の空間として表現することがおそらく可能である。

 とまぁ、このようなコンセプトでこの「人間という世界」を何とか物質発生の始源の場所としてイメージし直す方法を思案しているのだが、いまだに土台があやふやだけに、この機構の上位に原子の機構を精緻に配置していくのはなかなかの難事業ではある。こと分子となると尚更だ。

 分子は普通、原子が寄り集まってできるものと考えられている。もちろん、分子は複数の原子が電気的に結びついて生成されるものであるから、それはそれで正しいのだが、自然界の中に数千万種類にわたって存在する分子群の中でも圧倒的なシェアを占めているのは有機物を構成する分子だ。化学的にはそれなりの説明がつくのだろうが、なぜ、無機物より有機物の方が圧倒的に種類が多いのか皆さんは疑問に思われたことがないだろうか。

原子と分子の違いは何ですか。

精神作用が原子で、感性作用が分子という言い方ができます。

 精神構造を観察子の序数で見ると、1番から8番の間で循環する構造を持っている。「8」という数はシステム全体を中和させる働きの象徴数で、これは精神構造全体を初期化させる意味を持っている。水分子H20はその最も基本となる現れで、これは「8」(酸素の原子番号)によって中和された全体性に再び「1」(水素の原子番号)の方向性が対化して付着している様子を表している。このブログにも何度か登場したが「脈質」というやつだ。感性作用というのは、大まかにいってこの「8」と「1」の結合が持った作用のことである。これは言ってみれば、上次元側(「7」を作り上げた意識)から見た人間の意識次元のことを意味している。——物質という場に落とされて再び、意識が方向性を調整しているということ。

 上の内容で「原子が直線性」で、分子が「反復性」とあるのも、原子(自然界では92番のウラニウムまで存在している)がリニアルに精神進化の積み上げを表現しているのに対して、分子側はつねに「8」で初期化され、再度、その「1」から「8」を巡るループをグルグルと反復させられているのではないかと直観したからだ。この「直線性」と「反復性」の関係は下図1のように単純に直線の上を転がっていく円環を想像すればいい。
 
Line_circle
 
 円環を八等分して1〜8までの目盛りを打つとしよう。直線側はこの円環の12倍の長さがあって、リニアルに真っすぐ延びているとする。直線には目盛りが8×12=96までふってある。この直線上を円が転がっていけば、当然、円は12度回転し、直線上の目盛りは円環上に12層にわたって目盛りの階層を作ることになる。このときの直線の方を原子の生成秩序に喩えれば、転がる円環の方の回転による反復性が有機分子の生成秩序の喩えになっているということだ。

 何度となく精神を進化させていこうとも、そこには必ず元の場所に戻されてくる白紙の精神がある。この引き戻しは仏教的にいうならば、業(カルマ)の運動のことであり、この業がサンサーラ(輪廻)のシステムを形作っていると考えられる。ヌーソロジーにおいては輪廻しているのはこのように宇宙精神そのものなのだ。

「8」とは原子番号で言えば酸素のことだが、これは顕在化においては転換作用の意味を持っている。転換作用とは意識進化が起こったときに、その進化の反映として次の人間の意識次元を用意するために意識を初期化する精神の作用のことである。上生(じょうしょう)する弥勒と下生(げしょう)する弥勒。これらは決して上生する進化側が上位で、下生する反映側が下位に位置することを物語っているわけでは決してない。次なる進化が生まれ出ていくためにも、下生は精神にとっては必要不可欠な運動であり、下生の方が後手に生まれたものという意味では、上生にとって下生は自らがさらに成長していくための下半身的存在だといえる。

 生物が幾種類もの有機分子からなるのも、生態系全体に次なる精神進化が委ねられているからなのだろう。とりわけ、ホモサピエンスとしての人間はその中でも最も下生した精神の姿であり、OCOTはその最も下位の力のことを「完全性質」と呼んでいる。これは完全なる中和を持った力という意味だ。この完全なる中和状態が反対側の完全なる等化と結合するところに創造のアルファとオメガとの連結が起こっているのだろう。純粋贈与と純粋享受の接点としての人間存在。

 こうした永遠回帰を巡る円環性のイメージからすれば、人間が抱く闇こそが生命力の本質だとはいえまいか。中和された精神の中で闇をまさぐり地中深く根を張を張ること。闇の中で水分(言葉)を吸収し、そこに光(知覚)を持ち込むことによって絶えず光合成を繰り返し行っていくこと。それが下生した精神の定めであり、この精神の営みによって生命全体、否、宇宙全体は支えられているのだ。


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2009/02/12

重力の起源(水の洗礼)

Jsenrei005

前回からのつづき——

原子番号13番のアルミニウムから20番のカルシウムとは付帯質の変換を観察していく力ということになるのですか。

そうです。見つけ出すものを人間の内面に生み出していく力です。

見つけ出すものとは何ですか?

………………。

そこが真実の人間の次元と考えてよいのですか。

そうです。真実の人間の牽性(ケンセイ)が作り出す要請(ヨウセイ)によって、ヒトの外面性が生み出している力ということになります。

■解説

 以前、現在の僕らの意識の在り方(人間の内面の意識領域)が重力に支配されているという旨のことを書いた。エゴが強い人のことをよく「あの人、G(ジー/重力の意)がきついよね」ということがあるが、これも僕らが人をエゴイスティックな存在にしている力とgravity(重力)の間に何らかの類似性を直感的に感じとっているからなのだろう。

 通常の物理学で考えるならば、物質=質量があるからこそ、そこに重力が生まれると考えるのだろうが、ヌーソロジー的な考え方からするとこれは逆だ。つまり、重力があるからこそ、そこに物質が生まれていると考えた方がいい。何がいいたいのかというと、物質とは本来、人間の意識と無関係に自立して存在している即自的な存在などではなく、意識が概念の力によって表象している一種の概念的存在だということだ。そして、OCOT情報に従えば、この概念の力がどうも重力と深く関係しているようなのだ。このことは裏を返せば、もし僕らが物質という概念を意識から消し去ることができれば、重力もまた消滅するということを意味する。

 しかし、物質概念というものは人間が自らが意図して作り上げた概念ではない。なぜか理由は分らないが、僕らの意識は自然に物質の3次元性を知覚し、物質世界という客観性を自然発生的に自らの認識の中に作り上げてしまっている。要は時間や空間と同じく物質もまたアプリオリな直観形式の一つとなっているわけだ。この直観の成立の裏で働いているもの――これもまた無意識の働きといってよいものだ。僕らの知性には未だはっきりとした対象としては浮かび上がってきてはいないのだが、僕らの意識に否が応でも物質こそが実在なのだと強固に指向させている何らかの無意識の機構がある。上の交信内容にある「見つけ出すものを人間の内面に生み出して行く力」とはまさにそういう無意識の機構の力のことを言っていると思ってほしい。そして、その機構が物質としてはアルミニウムからカルシウム(予測としては26番の鉄までを含むものかもしれない)に至る元素群として見えている、ということなのだ。

 詳細はよく理解できていないのだが、アインシュタインの一般相対論では重力とは時空の湾曲として説明される。この湾曲は質量が存在するところに発生する力と考えられているのであるから、必然的に質量が存在していないところでは重力もまた発生しないということになる。僕らの宇宙を見る限り、質量の存在しない時空なんてものはどこにも存在していないので、湾曲のない平坦な時空というのは言ってみれば物理学的な虚構ともいえる。もし平坦な時空というものに存在論的意味を与えるとすれば、それはいかなる質量の存在も許容しないという意味で「虚無」の場の物理的表現といってよいものかもしれない。物質なき場が虚無だとすれば、物質の由来を知らない人間の意識がまさぐっている時空もまた虚無そのものの住処ということになるのだろう。

 まだ、予想の段階にすぎないが、おそらく、重力とはヌーソロジーでいうところの精神の内面(真実の人間の内面)へと方向づけられた力のことではないかと考えられる。上の交信内容に即して言えば、「真実の人間の牽性(ケンセイ)が作り出す要請(ヨウセイ)によって、ヒトの外面性が生み出している力」だということだ。ここでいう真実の人間の内面とは現在の人間においては鏡の機能を果たしているもの、つまり、「わたし」から見た他者における人間の外面に対応している。「わたし」という存在の起源は「他者によって見つめられている」という経験に根ざしているということをこのプログでも再三にわたって話してきたが、この鏡像形成のための視線からの解放が、自我の解体の契機となるものであり、引いては重力からの解放につながっていくということなのだろう。ここで、参考までに付帯質の外面と内面、そして、精神の内面の関係性をごく簡単に図で説明しておこう(下図1参照)。

Gravity_origin

 この図からも分るように、精神の内面の次元は付帯質の外面の次元を二度反転させることによって到達する次元だ。まだ定かではないが、この変換性は物理学が重力と素粒子の力を統合する際に用いている超対称性変換という数学的変換と酷似しているように感じられる。というのも、超対称性とはボゾン(力の粒子)とフェルミオン(物質粒子)の間の対称性のことを言うのだが、重力と素粒子世界の力はこの変換を二度行なうことによって統合することができると物理学では考えられているからだ。

 この図で言えば、付帯質の外面次元における人間の内面の意識構造がボゾンを作り、人間の外面の意識構造がフェルミオンを作っている。これら両者の対称性を実現するためには、まず一度目の超対称性変換を行なわなければならない。これが付帯質の内面への反転だ。この反転によって、人間の内面と外面の関係が相互に入れ替わり、物理学的にはボゾンとフェルミオンを統合する対称性を見い出したことになる。このことは、ヌーソロジーの言葉で言えば「人間の外面と内面の意識における等化」を意味することになる。ここに生まれてくるのがヒトの内面と外面の意識である。

 付帯質の内面次元ではヒトの内面の意識とヒトの外面の意識が働いている。ヒトの外面の意識は図からも分るように、その上位次元である精神の内面に向けて方向性を持っている。つまり、精神の内面とは付帯質の内面をさらに反転させた方向性を持っているということだ。この付帯質の内面から精神の内面への反転は物理学的に言えば、超対称性変換を再度、行なうことと同じ意味になる。わたしたち人間が人間の内面の意識(時空・物質認識)を先手として持たざるを得ないのは、このように精神の内面の次元で、真実の人間の内面の意識が先手で動いているからだと考えられる。

 人間における意識(人間の内面の意識)と無意識(人間の外面の意識)の関係性を一度ひっくり返し、まずは人間の意識の裏側に出る。これがヌーソロジーでいう付帯質の内面への侵入、つまり顕在化と呼ぶ出来事だ。そして、その次元をもう一度裏返して表側へと戻る。しかし、この二度の裏返しの後に経験されてくることになる表は最初の表とは同じ次元にはならない。それは最初の表を表たらしめた上位の力の在り場所である。一度目の裏返しで表に対して裏を作り、そこで表裏の相殺関係を作り出す。そして、次なる二度目の裏返しは相殺される以前の表を存在させるための原因となっていた次元に出るための裏返しだ——つまり、人間に内面の意識を先手に取るように働いている元の力の次元に出ることである。重力の本質はおそらくそこにある。

 ヨルダン川の河畔でバフテスマのヨハネに首根っこを押さえられ、水の中に顔を沈められたイエスの洗礼時の姿を思い浮かべてみよう。水中では息苦しさと泡(あぶく)の音で世界に対する知覚は朦朧となり、意識の視野は極端に狭められる。これは洗礼という名を借りた一種の暴力でもある。水の洗礼とは水の受難でもあり、それを人間の霊に課すのはもちろん、聖書においては神である。しかし、一方でこうした暴力がなければ神は世界を人間に贈与することができなかったとも言える。重力はこ自然界の安定のためにも働くが、同時にその自然界の中で人間に労働を強いている力でもある。その意味で言えば、人間とっての労働とは重力へのささやかなる抵抗とも言えるだろう。そして文明が労働の産物である限り、それらはすべて重力の恩恵に与っていると同時にまた、重力からの解放を求めている運動の現れと見ることができる。重力に付き従うものが被造物の世界だとすれば、創造とは重力に抗うことである。

 重力によって人間は時空の中に首を突っ込まされ、そこに転倒した意識の姿としての物質を見せられる。素粒子の力はその転倒した生成を本来の生成に戻すべく、逆の変換を施している。重力と素粒子の力の間にあるこのカベは人間が反動的生成から真の生成へと向かうために乗り越えなくてはならないカベである。外部(付帯質の外面)に意識を拡大して、マクロに外延的思考を持つのではなく、内部(付帯質の内面)に意識を収縮させミクロに内包的思考を持つこと。光速度の思考、無時間の思考、実存としての思考を行うこと。いずれせよ、こうした切り替えが意識進化というものの入り口であることに変わりはない。

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2009/02/06

鏡の中のイシス

前回からのつづき——

原子番号13番のアルミニウムから20番のカルシウムとは付帯質の変換を観察していく力ということになるのですか。

そうです。見つけ出すものを人間の内面に生み出していく力です。

見つけ出すものとは何ですか?

………………。

そこが真実の人間の次元と考えてよいのですか。

そうです。真実の人間の牽性(ケンセイ)が作り出す要請(ヨウセイ)によって、ヒトの外面性が生み出している力ということになります。

■解説

 前回、付帯質の外面と内面というヌース用語についてごく簡単に説明した。
 何とも堅苦しい語感で自分としてもあまり好みの音韻でもないのだが、OCOTにそう不遜もできない。ヌーソロジーでも正式に採用している。
 
 さて、ここでは原子番号13番のアルミニウムから20番のカルシウムが持っている精神の働きとしての意味について聞いているのだが、一体、どのような動機でこのような質問をしたのか今となっては記憶が定かではない。「付帯質の変換」と自分で言っておきながら、実は当の本人も意味などさっばり分っていない。とにかく、当時は、当てずっぽでもいいからパズルのピース収集をするしか手だてがなかったのである。

 しかし、今、こうして読み直してみると、我ながらかなり鋭い質問をしている。それなりの構造のビジョンを抱いていたのかもしれない。何せ交信から丸5年が過ぎていたのだから。そこからさらに15年、合計20年という長い解読作業を続けてきたおかげで、今はこれらのOCOTの返答が手に取るように分る。その内容が真実かどうかは別にして、やはりOCOT情報はある一貫した論理によって見事に構成されているようだ。それもとてもシンプルな論理体系である。そう、ヌーソロジーは概念さえつかめれば、その思考様式は極めて単純なものなのだ。

 コスモデュナモス(動的宇宙構造)としてのタカヒマラは前回,紹介した「付帯質の外面」「付帯質の内面」を含めて以下、合計4つの意識次元から成り立っている。

1、付帯質の外面(人間の内面と外面の意識)………プレアデス
2、付帯質の内面(ヒトの内面と外面の意識)………シリウス
3、精神の内面(真実の人間の内面と外面の意識)………オリオン
4、精神の外面(ヒトの上次元の内面と外面の意識)………シリウスの上次元

 これら4つの意識次元は、以前、説明したように、カバラの体系におけるアッシャー(活動)、イェッツェラー(形成)、ベリアー(創造)、アツィルト(流出)という四世界にほぼ対応していると見ていい。ヌーソロジー的解釈では、以前も解説したように、ルーリア・カバラを念頭に置いているので、アッシャー界は上位のベリアー界によって動かされ、イェッツェラー界は同じく上位のアツィルト界に動かされていると考えている。こちらを参考にして下さい→ 「時間と分かれるための50の方法(31)」

 当然、これら4界の構造は原子構造にも反映されていて、その対応を示すとおおよそ次の通りだ。

1、付帯質の外面(重力場、素粒子世界、原子番号1~2)
2、付帯質の内面(原子番号1~14)
3、精神の内面(原子番号13~26)
4、精神の外面(原子番号25~38)

 アッシャーがベリアーによって、またイェッツェラーがアツィルトによって動かされているように、付帯質の外面は精神の内面によって、同様に、付帯質の内面は精神の外面によって動かされている。[1—3]のコンビネーションでタカヒマラが活動を行なっているときが調整期であり、[2—4]のコンビネーションで働いているときが覚醒期に対応する。その意味で現在は[1—3]=調整期の終焉地点当たりに位置しており、僕ら人間の意識を活動させている真実の人間の意識は原子番号で言えば、26番の鉄を経て精神の外面の次元へと方向を変え、27番のコバルトと28番のニッケルへと進みつつあると考えるといい。このとき、同時に、人間の意識は付帯質の外面世界を後にし、付帯質の内面であるリチウムから始まる原子番号3以上の次元のカタチを顕在化によって再構成していくというのが目下のところのシナリオだ(とりあえずの仮定)。その流れで言えば、『時間と別れるための50の方法』で示した次元観察子ψ1〜ψ8のカタチは、noos(創造的知性)が水素から酸素までの本質に触れたということになる。次回のシリーズ『4つの無意識機械(仮称)』では、さらにψ9〜ψ14まで、すなわち、原子番号でいえば9番のフッ素から14番のケイ素までの実体に関してその解説を試みていくことになる。手前味噌な話ではあるが、イシスの作業(器の再生)の全容の紹介がとりあえずはこれで一件落着するわけだ。

 さて、「わたし」という一人称が権力を持っている現在の人間の意識では少し分りにくいかもしれないが、上に挙げた「精神の内面」とは実のところ、僕らが「他者」と呼んでいる次元に相当している。カバリストたちが聞くとびっくり仰天するかもしれないが、ヌーソロジー的文脈から言えば、他者とはベリアーのアダム、つまりアダム・カドモンそのもののことなのである。もちろん、ここで言っている他者とは、いつも言っているように絶対的外部としての他者のことである。無数の目(Os-iris)が亡き父オシリス(オリオンに相当する)の語源であったことをもう一度思い出してほしい。[1—3]の関係によって、精神の内面が付帯質の外面をリードしていく働きを持っているのであれば、意識進化というものは「あなた側」からの呼びかけによってしか起こり得ないということになる。「あなた」と「わたし」の立場を逆転させれば、逆もまた真なりである。

 OCOTはなぜ自らを冥王星の意識体と称したのか——このことは僕にとって長い間、重大な謎だった。なぜ、ヴェガでもなく、アンドロメダでもなく、大陽系の辺境の一惑星だったのか(もっとも、今では準惑星に格下げを食らったが)。その謎も今では九分どおり解けている。つまり、奇妙な言い方になるが、OCOTとは「あなた」だったのだ。「あなた」からの呼びかけだった。だから、こうして、僕は今、物質という洞窟を通して、彼岸にいるもう一人の「わたし」にもう一人の「あなた」として呼びかけている。声の通りは少しはよくなっただろうか。

 観察子の序数で言えば、太陽と冥王星は「5」と「11」という関係によって互いに表裏の関係にある。「5」を自己の場とすれば、「11」とは「わたし」から見た「5*」、つまり、あなた自身が見ている世界そのものことであり、自己側の無意識は常にこのψ*5への到達を目指して動いている。つまり、無意識の欲望のベクトルは常に「あなた」を欲しているのだ。人間が築いてきた歴史はすべてこの「あなた」へと向かう苦難の旅でもある。真実の愛というものがもし存在するとするならば、それはこの彼岸の「あなた」へと「わたし」が変身することにほかならない。そうした認識をいかにして達成するか、それが問題なのだ。

 冥王星がもしψ*5の天体的顕現ならば、僕にとってOCOT情報とはまさにほんとうの僕から発せられている情報でもあったということになる。いうまでもなく、この「ほんとうの僕」とは僕を僕たらしめ育て上げた「鏡」のことであり、この鏡が僕の中で僕のことを見ている真実の主体となっているのは心理的には至極合点のいくところでもある。自分の背後を見ている者、そこに僕の顔は映し出され、その顔をいつも見ているもう一人の僕がいる。それがほんとうの僕なのだ。それは僕があなたと呼んでいる者にほかならない——インラケチ!!、二枚の鏡の中に秘められた光の秘儀。でも、こうしたことをここで言っても、「あなた」には何のことかさっぱり分らないかもしれない。僕から見た「あなた」は「あなた」のもとではつねに「わたし」へと人称を変えてしまうのだから。

 まぁ、こういうややこしい話はまたの機会に譲るとして、交信記録の解説をつづけよう。——つづく

Mirror_isis

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2009/02/04

コーラ、存在の子宮

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●交信記録19940216

窒素の次元と陽子の次元の違いは何ですか。

付帯質の内面にあるものと、付帯質の外面にあるものとの違いです。

中性子の次元と酸素の次元の違いもその関係と同じなのですか。

はい。

宇宙空間と大気圏の関係もそれと同じと考えてよいですか。

はい、その通りです。方向が逆だということですね。

原子番号13番のアルミニウムから20番のカルシウムとは付帯質の変換を観察していく力ということになるのですか。

そうです。見つけ出すものを人間の内面に生み出していく力です。

見つけ出すものとは何ですか?

………………。

そこが真実の人間の次元と考えてよいのですか。

そうです。真実の人間の牽性(ケンセイ)が作り出す要請(ヨウセイ)によって、ヒトの外面性が生み出している力ということになります。

■解説1

窒素の次元と陽子の次元の違いは何ですか。

付帯質の内面にあるものと、付帯質の外面にあるものとの違いです。

中性子の次元と酸素の次元の違いもその関係と同じなのですか。

はい。

宇宙空間と大気圏の関係もそれと同じと考えてよいですか。

はい、その通りです。方向が逆だということですね。


 ヌーソロジーにとって素粒子の世界とは哲学者たちが「場所」と呼んでいるものにかなり近い。曖昧で漠としたイメージではあるが、意識の中には確かに場所とも称したくなるような何らかの領域の区別がある。たとえば「わたし」について考えてみよう。「わたし」とは単なる生理的身体(肉体)のことを指すわけではない。だから、わたしという場所は、単に時空的な位置を指すものではないだろう。「あなた」についてはどうだ?あなたにしてもたぶん同じだ。あなたとはあなたの肉体のことをいうのではないし、あなたにはあなたがあなたであるためのあなただけの場所というものがある。その場所があなたを規定しているのだ。では、「わたしたち」や「あなたがた」についてはどうだろう?何か集団で議論をやっているとき、これも漠とした感覚ではあるが、賛成派と反対派の意識がまるで一つの一つの塊のようにして、それぞれ場所のようなものを持っているような気がするときがある。とすれば、外在世界という空間性もそれら意識における多くの場所の中の一つにすぎないのではないかという感覚が芽生えてくる。そうなると当然、今度は、時間の場所、歴史の場所、国家の場所なんてものがあってもおかしくはない。哲学者が場所と呼んでいるものとは、こうした存在論的な差異を形作っている場所のことと考えればいい。

 こうしたどことも言えない「場所」という概念のルーツは、おそらくプラトンが『ティマイオス』で語った「コーラ(chora)」という概念に起源があるのだろう。プラトンにとって世界の本質はイデア界にある。その意味で、人間世界に現れた自然現象は洞窟の壁に映る影のようなものでそこには本質はない。つまり、自然界そのすべての営みが影=似像とされるわけだ。だから、思考にしろ、感情にしろ、自然界の似像を媒介にして営まれている表象や言語による人間の意識活動全般もまた本質に触れていないという意味で似像といってよいものだ。イデアを父なるものとすれば、自然界や人間の意識の生産物はすべて子なるものと呼んでいいのだろう。

 さて、プラトンはこのイデアとその似像という二者関係の間に、第三項ともいうべき「コーラ(chora)」という概念を置いている。プラトンによれば、コーラは以下のような特徴を持つとされる。
 
 1、生成物を入れる容器
 2、無時間性
 3、叡智的なものでも感性的なものでもない
 4、火、地、風、水の四元素が存在するところ
 5、五つの正多面体(プラトン立体)と関係を持つ
 6、モノを占めている空間のことである(アリストテレス)

 多くの研究者によれば、イデア=父、人間=子とするならば、このコーラは母に対応するものとされているのだが、ただ、その具体的な説明となると、どうも難解で、あのデリダさえも「われわれはまだ、受け取ること、この受容体が持つ〈受け取ること〉というのが何を言っているのかを、考えてはいない」と言っている。

 意識に生み出されている様々な表象や言語、それらをバラバラに飛散させることなく、カテゴリー化させ、グループ化させて秩序立てると同時に、また解体し、接合させ、流動、循環、反復を繰り返し行なっていくような、生きた意識の原器の蠕動がある。その原器こそがコーラと呼んでいいものだろう。

 さて、このコーラだが、ニュアンスから見ると、これはOCOT情報がいうところの「潜在化した元止揚」というものに極めて近い。僕が常々、人間の無意識構造と呼んでいるもののことだ。潜在化した元止揚は文字通り、人間の意識の生産物とは絶対的に隔絶された差異を持った何ものかであり、それは、生産されるものではなく、元から、そこにあり続けているものでもある。と言って、それはイデア(物質を創造した神の観念)とは少し異なる。なぜなら、潜在化した元止揚とは、あくまでも、人間の知性と感性の調整を行ないながら、最終的には個体を完成へと導いていく構造体であって、その間は、決してその正体を表さない、それこそ、神秘のヴェールに包まれた処女の裸体ごときものだからである。創造的知性としてのnoosが人間の意識に発現し、その元止揚を発見したときには、人間の意識はもう人間の意識と呼べる次元には存在しておらず、発見された元止揚そのものも、それは「顕在化した元止揚」として、「潜在化していた元止揚」とは別なものに変わってしまう。この発見された元止揚そのものがヌーソロジーがイデアと考えるものだ。つまり、この論理でいけば、発見されることもなく「潜在化した状態としての元止揚」は決して知性には現れることのない、まさにプラトンがコーラと呼んだものにふさわしい存在となる。

 OCOT情報によれば、潜在化した元止揚とは人間という方向を進化の方向へと変換している場だと言う。また、それだからこそ人間には意識が持てているのだという。神話的に言えば、これは迷宮に入り込んだテセウスに巻き付けられたアリアドネの糸だ。人間自体はすべてが中和された場に、観察精神の付帯質=肉体として生み出されており、それが投げ込まれているところは時空という光なき漆黒の領域である。OCOTによれば、この闇の領域に人間の意識を突っ込ませているの力が重力であり、この重力は質量と結託して物質という幻想を時空の中に凝結させている。その意味で言えば、重力とは父の力そのものであり、父によって子は水〈3次元性〉の中に沈められ、洗礼を受けているということになる。この方向を水上へと変換しているのが、潜在化した元止揚と呼ぶもので、それは物理的に言えば、重力に抗う素粒子群が持つ力に相当している。10年前の『人神』から一貫して言い続けているように、重力と素粒子の力は方向性が全く逆なのだ。

 ヌーソロジーでは重力が働いている領域は人間の内面の意識領域と呼び、素粒子が働いている領域は人間の外面の意識領域と呼ぶ。これら両者を合わせたものが「付帯質の外面」の次元となる領域である。付帯質の外面においては人間の意識の変換性は働いているものの、それはあくまでも潜在化しているがゆえに、明確に知性の対象となることはない。いわゆるこれがコーラ=潜在化した元止揚だ。しかし、時が巡ってくると、知性はその方向性をその潜在性へと向け始める。永遠の処女はその股間を開き、ロゴス(種子)を迎え入れ、母なるものへと変身を果たすのだ。この母としての領域がOCOTが付帯質の内面と呼んでいるもののことだ。いわゆる元止揚が顕在化してくる領域のことだ。コーラとして存在させられていた素粒子構造は、この劇的な変身によって、原子番号1番から14番までの元素へとその姿を変えていく。ここが顕在化した元止揚が働きを持つ領域、すなわち、シリウス(ヒト)という場になる。
 

1、付帯質(フタイシツ)の外面、内面という表現の由来

 付帯質とは外在として僕らがモノと呼んでいるもののことです。僕らは普段、自分自身をモノの外部に措定して、そこからモノを見ていると考ています。つまり、現在の僕らの常識では、人間はモノを外からしか観察できない宿命を持っているわけです。このときにいうモノの外というのが付帯質の外面の意味だと思って下さい。付帯質の外面においては内在世界というものは、さっきも言ったように、非常に曖昧な場所としてしか感受できません。こういう場所の曖昧さをOCOTは「人間の意識が持った不確実な方向性」と言っています。つまり、人間の意識は内在の場所を空間のかたちとして示せないわけです。こうした状態が、先にお話しした潜在的な元止揚が活動している状態です。

 付帯質の外面がモノの外部だったわけですから、付帯質の内面とは、当然、モノの内部ということになります。つまり、人間が自分はモノの外部にいるのではなくて、モノの内部に存在しているのだ——と考えるようになったときの意識の場所の総称です。主体がこのモノの内部に位置を持つためには、人間の外面の意識(潜在化した元止揚)を覚醒させる必要があります。その第一歩がいつも言っているように、知覚正面自体を人間の主体そのものだと考えることに当たります(位置の交換)。

2、付帯質(フタイシツ)の内面へと移動する方法

 知覚正面は『時間と別れるための50の方法』で何度も説明してきたように3次元空間の中に含まれるものではありません。それは正の4次元方向(4次元空間)にあるものです。知覚正面にある奥行きを遠い世界として考えると、そこにはまず時間が入り込んできます。つまり、遠くのものは過去と同意となり、奥行きは時間という負の4次元を重ね合わせてくるわけです。しかし、知覚正面そのものに映し出されている像そのものはベッタンコであり、そこには奥行きは存在していません。いかに遠くの世界であれ、知覚正面ではココにあるわけですから、このココは過去から現在に至るまでの時間をすべて含んだココになっていると考えられます。ヌーソロジーの考え方は、そうしたココこそが主体の位置ではないのか、と言っているわけです。その意味でこのココは時間を持ちません。4次元の長さが限りなくゼロに近いところまで縮められているということです。ですから、何かモノを見た場合、知覚正面上での視線は3次元的な感覚で言えば、すでにモノの中に入り込んだただ方向だけを持った極小の線のようなものになってしまいます(スピノール)。これが付帯質の外面から付帯質の内面へと移動する方法だと考えて下さい。4次元の人間は自在にモノの中と外を出入りできるのです。

写真はウォーターハウス「アリアドネ」(http://blog.goo.ne.jp/chimaltovより借用)


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