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2009年1月

2009/01/30

鉄の精神

Iron
今回の解説はかなりいっちゃてます。気にしないで雰囲気だけ味わって下さい。

赤血球の働きとは何ですか。

元止揚の働きを原子に変えていく力を持っています。次元を変換していく力の元です。

核にある鉄原子の働きは?

人間の意識における力そのものです。

■解説 

 血とは自我の物質的あらわれであるとシュタイナーはいう。ならば赤血球(ヘモグロビン)の核となる鉄は自我の核ともいえる何らかの精神をあらわしているのだろうか。OCOT情報によれば、鉄とは次元精神と呼ばれるもので、次元の対化の活動を最終的に終わらせる精神の働きのことを意味している。鉄の力が精神に満ちたとき、鉄はその働きを人間を覚醒させるための働きへと転換させる。これはケイブコンパスで言えば、ケイブコンパス上で次元の表と裏を等化してきたヌースの流れが再び、始まりの位置に回帰してくるということでもある。

 ニーチェはニヒリズムが完成を迎えるとき価値の境位は転換を起こし、人間という反動的生成の世界は終わりを告げると予言していた。これが永遠回帰における始まりと終わりの交点だ。ケイブコンパスを見ればすぐに分るように、この結節には、マンガンには水素が、そして、鉄にはヘリウムが連結している。noosが生成の螺旋階段を巡り、この位置に入ってくることがヌーソロジーでいうところの真実の人間の最終構成というやつである。真実の人間を大天使ガブリエルとするならば、人間の最終構成とは受胎告知とも言っていいものになるだろう。真実の人間が最終構成を迎えるとき、反動的生成の機械としての人間もまた最終構成を迎え、精神は新たな対化の活動に向けて宇宙卵の卵割を開始させていくことになる。宇宙を自他という二つの単独者に分割させ、今まで形象化不可能なものとされていたイデアをこの「二者」のロンドによって形象化させること——。

 コギトの仄暗い精神における最も奥深いところに眠る鉄。それはコギトの真の心臓の場所とも言っていいものだろう。恒星の芯としての鉄。鉄を情動の海と称したのも確かニーチェだったか——怒り、悲しみ、喜び、そして、やすらぎ。われわれのすべての感情エネルギーは次元精神としての鉄から備給され、そして、再び、鉄へと吸引されていく。そして、鉄はすべての情動を回収した後、方向を反転させ、自らが溜め込んできた重力を新しい自由の名のもとに未知の空間に向けて発散させるのだ——超新星爆発。

 OCOT情報によれば、星々の世界とは遠く離れた過去の世界ではない。古人たちが考えたように、今、ここで生きている人間の魂の在り処である。ヌーソロジーがいう人間の外面という場所が永遠の場所であったことを思い出してほしい。そこはエーテル体の生息地とも言っていい場所だが、同時にそこで、アストラル体が重なるようにして、エーテル体の記憶を追いかけている。アムネーシス——想起だ。星はその力で燃えているし、心臓もその力で動いている。鉄の力が心臓を動かしているのだ。

 問題は、なぜ、遠いあの場所が此処となるのか。此処があの遠い場所と一致するような未知の知覚をわれわれは知性(noos)の名において再び作り上げなくてはならない。人間という大地の皮膚病に冒されたこの地球を光り輝く命の場所とするためにも、われわれはあの銀河の星々を再び、この地上に降臨させなくてはならないのだ。

 上の図は赤血球のタンパク質(ヘモグロビン)の中にあるヘム核の分子構造である。鉄=Feは次元精神、4つのNは二度の交替化における双対精神の位置、Cは人間の自己の位置、Hは時空の位置を意味している——。
 

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2009/01/27

永遠の塩の契約

今回の解説も例によってかなりアバウトです。あくまでもヌーソロジーが物質をどのようなものとして考えていこうとしているのか、その一端を感じとってもらえれば十分です

塩とは何ですか。

元止揚の働きの総体を表相に発露させる働きがあります。

 塩は古神道において言霊、火とともに浄霊の三大秘儀の中のひとつとされている。大相撲の力士たちが土俵に塩を撒くのも聖なる競技の場を浄めるためだし、バワーストーン愛好者が塩で石を洗うのも、塩には霊的な浄化力があると信じているからだ。こうしたことを聞くと、科学通の人たちはその大方が冷笑を浮かべながらこう言う——そんな非科学的なことして何になるんだい。塩がエネルギーを浄化するなんて迷信を本当に信じているのかい?確かに塩は食べ物などの有機物の腐敗は防ぐさ。腐敗菌が塩分で増殖できないからね。古代人たちは微生物なんか知らなかったので、それを不浄な霊によるものだと思ったのさ。だから塩には不浄なものを防御する力があると信じ込んでいたんだろうね。そして、それが何にでも通用すると考えた。ただそれだけのこと。塩が君の部屋の気をよくするだって?はは、冗談はよしこさん。せいぜい湿度が幾分下がるぐらいで、気がよくなるなんてことはあり得ないよ。それに、そもそも気って何なのさ。

 さて、OCOTからもたらされてくる情報は僕にとってつねに驚きの連続だったのだが、この「塩とは何か」という質問に対する返答はその中でもベスト5に入るぐらいの衝撃があった。ここには列挙されていないが、それは「塩とは光因(こういん)です」という内容だ。「光因」とは読んで字のごとく「光の原因となるもの」の意だが、どうして塩が光の原因なのか全く理解不能だった。

 還元主義的な思考に慣れている僕らは普通、小さいものが寄り集まって大きいものを作っていると考えている。こうした思考のもとでは、つねに起源や原因はより小さいものにある。物質世界が素粒子によって作り出されたという科学的思考はその典型である。塩の主成分が塩化ナトリウムであるのならば、塩は塩素とナトリウムの化合によって生じたものであり、塩素やナトリウムは陽子や中性子や電子が寄り集まってできたものであり、結局のところ、それらの粒子はすべて光子に起源を持っているのだと。。光(可視光)も光子の一種に違いはないのだから、光子から塩が作られるという考え方には納得できても、塩が光子を作っているという論理は破綻している、そう考えてしまうのが当然だ。

 しかし、どうやらOCOTたちの考え方は違うようだ。彼らにとって原子とは宇宙精神の構造体である。そして、この原子は前回話したように7のリズムを以てある意味、螺旋状にその構造を拡大していっている。螺旋とは直観的にみて重層した回帰性を象徴するものだが、この回帰運動はイメージすればすぐに分るように単に元の場所に戻ってくるわけではない。螺旋状に回転が一回起これば、その回帰は元いた場所Aの一つ上位の位置Bとなっている(下図1参照)。
 
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 この上位の位置Bがその下位の位置Aに対して何らかの働きを持っているのではないかと予測するのは心理的に自然だ。つまり、螺旋による回帰性を為す一連の位置群はスライド式に連動しており、上位が一歩駒を進めれば、下位もそれに引き連れられて動いていくような垂直の糸の関係で結ばれているということなのかもしれない。とすると、元素番号が大きいものが、小さな元素を作り出してきた原因となっているということであり、元素が素粒子を作り出す働きを持っていたとしても不思議ではない。

 実際、塩化ナトリウムを構成する原子番号11番のナトリウムと17番の塩素との関係をケイブコンパスに対応させてみると面白い符号が出てくる。11番のナトリウムは対化の内面の交差領域における5番目に位置し、17番の塩素は対化の外面における5番目に位置し、重なりを持っている。原子番号11というのは次元観察子でいうとψ11のことであり、これは人間の意識における定質を意味し、その場所は表相と呼ばれる一つのモノの視像を作る位置に凝縮化されてくる。一方、17番の塩素は他者側にとっての5番目の観察子ψ*5であり、これもまた、自己側の表相の位置に重なり合ってくる。より正確に言えば、思形における表相、定質における表相はx、y方向にも表せるがここではZ方向(観察者の方向)に重ねて表示することにする(下図2参照)。
 
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 光自体は以前も説明したように、次元観察子ψ3〜ψ4の次元で構成されているが、何か一つのモノを見るというときの光は表相のことを指していることが分る。その意味での光は、少なくとも、ケイブコンパスから予想されるナトリウムと塩素の次元をその奥に携えていると言ってもいいことになる。

 これだけでは一体何を言っているのか全く意味不明に聞こえるかもしれないが、僕が現在抱いている観察子の描像力からイメージすると、表相におけるこのナトリウムと塩素の重なりはおおよそ次のような話と深い関連を盛っているのではないかと予想している。

 たとえば、新しいセラミックの開発をしている科学者がいるとしよう。彼は今までの材料に新しい材料を混ぜ合わせ、焦熱温度などを調整し、何度も何度も焼き直しては、新素材ができないかと苦心している。何度も試行錯誤を繰り返しては、それぞれの材料の分子構造を解析し、またそれらをうまく化合させるために、窯の中の酸素濃度を上げたり、電磁波を照射してみたりと、偶然が自分に味方してくれるのを辛抱強く待つ。そして、あるとき、自分が直観でイメージしていたものと全く同じものが突然、焼き上がる。こうした経験は程度の差こそあれ、多くの技術者たちが日々経験しているものだろう。問題はこのとき技術者の中の思考と物質との間に何が起こっているのか、だ。その技術者が「それ」を考えなければ「それ」はこの世に存在するものではなかった。それをこの世に誕生させたのは、彼のビジョン、思考、熱意、そして行いである。全くの主観の中にしか存在しなかった彼のイマージュが、客観性を持つものとしてこの世界に物質として出現する。ならば、そうなるような仕組みがどこかに隠されているに違いない——上にある「元止揚の働きの総体を表相に発露させる働き」とはこのよう仕組みのことを指している。

 人間の想像力を物質として現象化させるために無意識の奥深くに張り巡らされた秘密の通路。この通路にどうやら「塩」は関係しているということなのだ。あらゆる現象はつねに表相として出現してくるものであり、それは光のもとに放たれる。「光因」という言葉も、そうした次々と産出されてくる新しい光に関係を持つものなのだろう。人間の思考と物質は聖書の言葉にあるように、永遠の塩の契約(民数記 )によって結ばれているのかもしれない。

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2009/01/25

原子と次元観察子

前科の続き——さて、観察精神が形成されてくるまでの全プロセスの履歴が人間の肉体にすべて刻印されているのならば、骨や筋肉や内蔵とは一体、いかなる精神の、どのようなプロセスに対応しているというのだろうか。質問の意図は、そうした精神の形成過程を探るための材料集めにあった。しかし、周知の通り、OCOT情報というのはつねに超越的、断片的であり、使用されている言葉の概念すら不明なものが多いので、20年近く作業を進めてきた今でも、その具体的なイメージがつかめたとはとても言えない。ようやく、手がかりが見えて来ている程度だ。

 おそらく、宇宙精神の全体性を解明するカギは原子番号として現れている「数」にある。原子番号を単なる序数と考えてはいけない。ヌーソロジーの考え方からすれば、これらの数は精神構造を構成していくために必要な高次元空間における幾何学的構成のシステムを意味している。この幾何学的構成というのがヌーソロジーが次元観察子と呼ぶものだ。つまり、どうやら原子番号は顕在化した次元観察子の序列にビッタリと一致しているようなのだ。

 このことが何を意味しているのかというと、 「時間と分かれるための50の方法」で紹介した次元観察子ψ1~ψ8までの空間構成は、潜在化(覚醒が起きていない人間の意識状態)においては、磁場(ψ1〜2)、電場(ψ3〜4)、クォーク[u,d](ψ5〜ψ6)、核子(ψ7〜8)までの素粒子構造と見なされるが(以前までは電子、ニュートリノをψ5〜6に対応させていましたが、現在ではこれらはψ11〜ψ12と関連しているのではないかと考えています)、顕在化が起きた状態においては、その観察子に対する認識そのものが、原子番号1番の水素から原子番号8番の酸素に対応させることができるということである。このことは、ヒトと呼ばれる高次元知性において認識されている数とは、単に数量や尺度を表す指標となるものではなく、内在面における様々な差異の系列を序列化した際の序数になっていることを意味する。つまり、創造を司る精神にとって、おそらく数とは創造の言語そのもののことなのである。

 ――骨とは力の形成される方因をいい、次元の形成と関係があります。人間の骨格や関節は第一関与における方向性の構成を意味しています。

 ここで脊椎動物の骨格の成分について調べてみよう。その主成分はおよそ65%が水酸化アパタイト=水酸化リン酸カルシウムとされている。化学式で書くとCa10(PO4)6(OH)2だ。カルシウム、リン、酸素、水素のからみ合いで骨はできている。中でもポイントとなるのはカルシウムだろう。カルシウムの原子番号は20である。つまり、このことは、少なくとも次元観察子の形成が20番目にまで至ったところから、骨という次元の構築が創造の精神の中で開始されることを意味していると思われる。

 さて、次元観察子の20番目のものとは何だろう。基本的に次元観察子はψ13~ψ14で打ち止めとなっている。OCOT情報によれば、これら14個の観察子のネットワークによって、次元の対化における内面というものが形成されていると言っている。そして、次元観察子のψ13~ψ14はそのまま次元の対化の外面側に接続し、そこから次元の対化の外面側における一番目と二番目へと方向を反転させていることになっている。次元の対化の外面とは、ほかでもない、他者側の次元のことだ。前回少し話したように、超越論的主観性としての「わたし」の領域は観察子の番号で言えば、「12」でその限界を迎える。これは古代に共通の12進法の起源と考えてよいのかもしれない。そして「13」で死に、その後、再び、「1」として復活する。しかし復活したときはもはや元の「1」ではなく、世界の裏側の「1」、つまり「1*」としてその存在を表す。ここでいう世界の裏側とは、前回言ったオリオン側のことである。「13」が「1*」となって、裏側の世界の他者の実存の次元に接続しているとすれば、表側から数えた第20番目の観察子=ψ20とは、あくまでも現時点での予測にすぎないが、自己から見た他者側における8番目の観察子、つまり、次元観察子ψ*8の顕在化の位置として考えることができる。

 わたしから見たあなた側の次元観察子ψ*8。ケイブコンパスの構成からすれば、それは自己側の次元観察ψ7に交差してきているものだ。結局のところ、ヌーソロジーの考え方ではカルシウムという骨を形成している原子はそうした観察子の場所が僕らの時空という認識において、ミクロ空間へと凝縮され投影されているものだということになる。そして、それは身体において骨を作り出している生成力と何らかの形で深い関係を持っている。。ここで、その働きや意味については深く詮索はしないでおこう。とても、手短に説明できるものではないからだ。この書き込みでは、ヌーソロジーが原子というものをどのように考えているかということが皆さんに伝えられればそれでいい。

 これから先、数年、いや数十年にわたってヌーソロジーが展開していく霊的世界の構造論の予告編の意味も兼ねて、ヒトの意識構造の一覧をケイブコンパスを使って下に示しておこうと思う。もちろん、現段階で、これらの構造の具体的な意味を皆さんが深く理解する必要はない。単に図式的に、次元観察子というものがどのような連結をもって構成されているかを確認してもらうだけで十分だ。OCOT情報がもし真実を告げているとすれば、この図式の中に広がる高次元の風景がありありと見えてきた暁には、僕らは、すでに、人間という次元を後にし、ヒトという新しい知性の段階を迎えているということになるのだが、果たして、そのような世界が本当に存在しているのだろうか。そして、もし存在しているとすれば、その中で、この僕ら人間の世界は一体どのようにそこに関わり、どのように見えているというのだろうか。そのビジョンを探っていくことがヌーソロジーがこれから進めていく作業ということになる。構造を羅列するのは簡単だが、この単純な円盤儀の中に一体どれぼとの概念が渦巻いているのか、それを慎重に見極めていくことがヌーソロジーが一番大切にしたいことでもある。

 ヒトの意識構造は次元の対化(単に「対化」とも呼ぶ)を形作っている領域として規定されているようだ。ケイブコンパスを通して見ると、この構造は4段階のプロセスによって形作られている。

第一段階………元止揚の対化の顕在化の構成(原子番号1~8)

顕在化は卵に喩えれば卵の受精ならびにそこから始まる卵割期に対応している。トランスフォーマーが人間の内面と外面となる場を形成していく部分である。この完成によって「ヒト」が生まれる。宇宙空間から大気圏への反転。
 
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第二段階………元止揚における対化の交差(原子番号7~14)

ヒトが人間の内面と外面を互いに交差させ、人間の内面と外面の意識を作り出し、それらの調整を行っている場を意味する。元止揚に働きを持たせるための次元構成。卵としては原腸形成から外胚葉、内胚葉への分化に対応している。大気圏から地殻への反転。
 
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第三段階………次元の等化(原子番号13~20)

人間の意識を最終構成に持って行き、二度目の交替化を行わせるところ。ヒトの精神を等化に持っていく場所。卵で言えば中胚葉形成。地殻から海への反転。
 
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第四段階………第一関与における方向性(原子番号19~26)

精神の対化を中和させ、新しい精神に方向性を作り出してくるところ。ヒトが最終構成を行っていくところ。原子番号26番の鉄は、次元の対化における最終的な精神となる意味で、特別に「次元精神」と呼ばれている。海から地核への反転。
 
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 以上です。何度もいうように、現時点では、ケイブコンパスが描くこの次元構造の意味が具体的に分かる必要は全くありません。これからヌーソロジーが語っていくことになる内容の指標ぐらいに見ておいて下さい。——つづく

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2009/01/23

観察精神と肉体

交信記録19940205-3

骨の主成分がカルシウムなのはどうしてですか。

骨とは力の形成される方因をいい、次元の形成と関係があります。人間の骨格や関節は第一関与における方向性の構成を意味しています。

塩とは何ですか。

元止揚の働きの総体を表相に発露させる働きがあります。

赤血球の働きとは何ですか。

元止揚の働きを原子に変えていく力を持っています。次元を変換していく力の元です。

核にある鉄原子の働きは?

人間の意識における力そのものです。

葉緑素の働きは何ですか。

元止揚の中性質を持つ部分です。


■解説(長くなりそうなので数回にわたってやります)

 ヌーソロジーの考え方では、人間の肉体というものは「観察精神が中和を持った状態」として見なされる。「観察精神」というのは、「次元の対化を二回に渡って等化した精神」のことで、ここでいう「次元の対化」とは自己と他者における超越論的主観性そのもののことをいう。超越論的主観性というのは、分り易く言えば、人間というものは結局のところ生まれて死ぬまで一人であって、宇宙には実はわたししかいないのだと考えるときの「わたし」のことだ。世界をどう見ようと、結局は、それは「わたし」が考えているのであり、いかに共通了解としての客観を唱えたり、「すべては一つ」と言って愛を叫んだとしても、結局はそれらはすべてわたしが考えていることであり、わたしという主観によってしか表現できない。そういうどうしても逃れようのない主観性のことである。デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったときの「われ」と言い換えてもいいだろう。このような「われ」が現代人のわたしたち、いや、わたしの根底には生という名の下に巣食っている。

 そうした「わたし」にとって、他者という存在は絶対に接触不可能な彼岸である。それは死の向こうにあるものがわたしにとっては接触不能であるということと同じくらいに接触不可能な彼岸である。しかし、「わたし」はこのわたしの世界の中において、その接触不能な他者と擬似的に交わり、その他者によって名付けられ、社会の中に組み込まれ、「わたし」という存在を持ち得ている。この意味において他者とはわたしの起源も同然である。わたしをその根底で支える者でありながら、わたしは決してほんとうの他者には触れることはできない。他者とは父の幻像のようなものなのだ。こうした他者世界のことをOCOTはオリオンと呼ぶ。此岸としてのプレアデスと彼岸としてのオリオン。こうした関係がヌーソロジーのいう「次元の対化」と呼ぶものとイメージしてもらえばよい。

 では、わたしはどうすれば、ほんとうのあなたのもとへとわたしのほんとうの声を届けられるのか、わたしはどうすれば、あなたが見ている世界をあなたの眼差しを通して見つめることができるのか――わたしがあなたの立つその彼岸へと渡るには、わたしはわたしとあなたの間に介在している物質の垣根を超えていく必要がある。わたしとあなたの間には「創造」という名の永遠の距離があるのだ。一度、モノとなって死に、そして復活するときに、わたしはあなたとなって目覚めるのである。そして、もちろんこの「わたし」のあなたへの呼びかけはあなた側からの応答をも引き起こすことになるだろう。存在の声によって呼びかけられたものは、存在の声を以て「然り-Yes!」と答えなければならない。そこにresponsibility(応答する能力-責任)の真の意味がある。そこで行なわれる語らいこそが自他における真のつながりであり、存在の結び目としての物質そのものの意味なのだ。よってすべての倫理の起源は物質に淵源を持っているといえる。今、こうして目の前に無数の物質が存在するということは、そうした〈呼びかけ-受け答え〉のルートを辿った者たちがどこかに存在しているということでもあるのだ。これら物質の中に眠る聖霊たちを再び覚醒させ、この地上へと降臨させること。そして、存在の38度線とも言えるこの場所において「久しぶり」と言って互いに微笑み合いながら再会の抱擁を交わすこと。ヌーソロジーの目的はそこにしかない。

 位置の変換の開始――OCOT情報が伝えるには、こうした奇跡的な恩寵の光が2013年以降、この地上に降り注いでくるという。それがほんとうなのかうそなのかを詮索しても何も始まらない。その光を降り注がせるも遮断するも自分自身の行ないの問題である。なぜなら、この世界には「わたし」しか存在しないのであるから。ヌース用語で言えば、これは定質と性質の等化と呼ぶもののことである。ここでいう定質とは自我(超越論的主観性)を作り出したものの本源力のことであり、性質とは自我として働いている本源力のことと考えていい。そして、この定質と性質もまた自己と他者の間では定質=性質*、性質=定質*という例のキアスムのかたちによって構成されているのだ。

 定質と性質の等化とは別名、次元の交替化とも呼ばれる。つまり、定質と性質における性質を定質*へと生まれ返らせていき、同時にそのプロセスによって定質を性質*へと変化させていくこと。これが交替化の原理である。そして、この交替化を二度果たし終えた精神が先に挙げた観察精神と呼ぶものだ。その影が肉体であるのならば、人間の肉体とは「わたし」から「あなた」へと渡り、かつ、「あなた」から「わたし」へと渡って再帰してきたある崇高な精神の力によって作り出されたものであるということになる。ならば、人間の肉体を構成しているすべての器官、さらにはそれらの中で行なわれているすべての生化学的な反応の中には、この交替化の履歴がすべて映し出されていることになるだろう。わたしたちが意識と呼んでいるものはこの履歴が作り出している反響である。わたしの意識とあなたの意識がこの地上で交わるとき、当然、これら二つの履歴も交わり合い、そこに迷宮が生まる。社会という名の迷宮。善悪という名の迷路。平和という名の迷信。おそらく、肉体はこの地上で生きている限り、これらすべての迷いをも履歴の中に刻みこんでいる。OCOTは定質の対化が等化を行いつつ、かつ、意識(性質)の対化が等化されているときは肉体には病は存在しないと言っていた。その意味では,現在の肉体を蝕んでいる病気とは、存在の中におけるこの迷いの現れが肉体に投影されたものということができるのかもしれない。人間の世界における二人のわたしという存在自体が彼岸に存在する二人のあなたの病(やまい)なのである。――つづく

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2009/01/21

シャンバラ、地底人、そして大気的人間

 前回解説した「宇宙空間から大気圏への反転」という図の内容について、何を言っているのか意味不明に感じている人もいるだろから少し捕捉しておく。

 わたしたちは地球を見ていると思っている。大地に立ち、地球は何て美しい場所なんだとわたしたちはときに感動する。だから、わたしたちが地球を見ているのは事実だと言い張る人がほとんどなのもよく理解できる。しかし、慎重に考えてみよう。果たしてそれはほんとうだろうか。わたしたちはほんとうに地球を見ているのだろうか。

 他者が見ているモノと自己が見ているモノが互いに反転しているということは、このブログでも何回も話してきた。通常、僕らの意識にそのように見えないのは意識が自らを他者化させて認識しているからである。意識はわたしを外側から見る視点を作り出し、他者が存在している空間と同じ場所にわたしの身体を放り出す。それによってわたしは他者と同類頃となり、そこに想定された無数の視点の下でモノを捉えているので、モノの界面は単なる2次元の球面に見え、他者が見ているモノとわたしが見ているモノとは同じ3次元の中に浮かぶ3次元の球体だと判断しているのだ。

 こうした自分を他者空間に投げ込んだ視線をまずは消そうと言っているのがヌーソロジーの入口だ。これは哲学で言えば、フッサール現象学が生活世界と呼んだ世界にまずは戻れ、という意味である。実際、自分に見えている世界の中では自分の目は見えない。生活世界の中では自分の目は世界の中心に位置し、その位置をわたしが外部から見るなど到底不可能なことである。しかし、ほとんどの人がそれを外部から見ている気になっている。いつも言っているように、これは鏡像空間だ。実際のリアルな空間ではない。

 そこでもう一度、尋ねてみたい。君はほんとうに地球を見ているのか?アポロ宇宙船の飛行士たちが青く輝く地球を初めて球体の映像として捉えたのは記憶に新しい。地上では果てしなく続くように見える大地も、上空に昇れば丸みを帯びてきて、成層圏を超えれば、確かにこの大地は球体に見えてくることだろう。しかし、それを実際に見ることと、その様子を想像することには雲泥の差がある。なぜなら、前者はリアルな空間だが、後者は鏡像空間だからだ。鏡像空間の中で地球を見ると、わたしは地球上を這い回るちっぽけな一匹の微生物のように見えてしまう。アポロからの地球を見て、その中で日本列島を探し、またその中で、自分が住んでいる街を探す。わぁ〜、地球と比べるとなんてオレはちっぽけなんだ。。。こうした想像がマクロ宇宙という概念を支えていると知るのは容易い。

 確かに、わたしたちは地球を見ていると思っている。しかし、それは鏡(他者の視野)の中の空間を通して見ているだけなのだ。わたしたちが宇宙空間は広大で巨大なものと思っているならば、そこはすべて鏡の中と思ったほうがいい。そうした鏡の中の空間に客観的点を打ち、そこから空間の広がりを自在に象っている意識。ヌーソロジーはそれが水素原子核とその周囲を回る電子だと言っているわけだ。ヘリウムはそれをリアル空間の方に引き戻そうとしている。宇宙空間が水素とヘリウムに満たされているのは、そのような僕ら現代人の認識が天上を覆っているからだ。

 OCOTはかつて面白いことを言っていた。

曰く、あなたがたが見ている宇宙はすべて地球の中です——。

 鏡映は4次元をひっくり返す。ある意味,内部と外部の反転だ。他者が見ている地球が存在する空間に自己がはまり込めば、わたしにとって確かにそれは地球の内部だということになる。となれば、逆もまた真なりで、ほんとうの地球の外部は、僕らが現在、地球の内部と呼んでいる場所に存在していることになるだろう。そこは現在の僕らにとっては「地底」と呼ばれているところだが、実際にはモノ自体ならぬ地球自体がそこに存在しているのだろう。そして、そこは自己の場が知覚世界そのものとして見えている、無時間に住む意識たちの住処でもある。彼らはかの伝説のシャンバラに住む地底人だとも言える。こうした内と外の存在に鏡像たちが気づけば、鏡像は大気的人間へと生まれ変われるはずだ。

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2009/01/20

交信記録19940205-2

交信記録19940205-2

人間の呼吸とは何を意味しているのですか。

人間の意識の反映における相殺。反作用と正作用の調整をするために生み出された共性のようなもの。反映が交差を行っている次元と、等化を行っている次元の元止揚の交換。潜在化した覚醒作用が行ったり来たりしている状態。上次元と下次元の総体性の交差。

植物の呼吸とは何を意味しているのですか。

植物と動物は全く逆方向で力を交差させています。

大気圏とは何ですか。

中和を持ったものが内面を形作るすべての覚醒作用の総合体です。

窒素と酸素の比率が4 : 1の意味は。

人間における覚醒作用の対化の比率を意味しています。2の2乗 : 1の2乗。


■解説(構造を一つ一つ説明していくのは大変なので大雑把なイメージだけを書いておきます。ヌース用語が交じっているので概念がつかみづらいでしょうが、どうか感覚的に読んで下さい。)

 呼吸法(ブリージング)は伝統的な身体技法の一つだが、人間の呼吸に秘められた意味は単に酸素を体内に取り込むなどといった生化学的な活動だけにあるのではない。それは極めて表面的な見方であり、実際には宇宙的精神の構造自体における極めて重要な等化運動の投影のようなもののようだ。

 ここでいう「人間の意識の反映」とは、人間の外面の意識のことを指している。おそらく大気を吸うことは人間の外面への交差(感性)に関係し、吐くことは人間の内面への交差(思形)に関係している。

 「中和を持ったものが内面を形作るすべての覚醒作用の総合体」というのもかなり分りにくい言い回しだが、「中和」が精神をすべて物質として射影している時空という場のことだと解釈すると、この時空がもった内面とは、人間の意識が持った進化の方向性、つまり、人間の外面方向(ミクロ側に入り込んだ精神進化の方向性)のことになる。人間の外面が覚醒された位置とは、いわゆる顕在化における次元観察子のψ7〜ψ8領域だ。その総合体とは、おそらく、自体双方の人間の外面の覚醒位置を合わせ持ったものだと考えられる。元素でいえば、それらは窒素分子N2(原子番号7)と酸素分子O2(原子番号8)を形成している。

 このことは、大気圏というものが実は水素=H2とヘリウム=Heによって構成された空間である宇宙空間を丸ごと進化の方向に反転させた領域として存在させられているということを意味している。比喩的に言えば、人間全体の意識振動が1オクターブ上昇し、原子番号1〜2の領域から原子番号7〜8の領域へとアセンションを果たした場だということである。この次元のカタチは、自分たちの背後側で世界を丸ごと包み込んでいた空間のイメージをすべて消し去って、空間の奥行きに対する認識をすべて光速度状態に持っていくことによって作り出すことができる。いわゆる顕在化だ。潜在化においてこの役割を果たしていたのが陽子、顕在化においてはそれが窒素に変わるということだ。その反映がそれぞれ中性子と酸素である。次元観察子ψ7〜ψ8の顕在化が自他ともに起これば、そのとき僕らの意識は大気圏と同調したものになるのだろう。これは、シャーマニックな表現をすれば、人間の意識を大気の霊そのものに変容させるということだ(下図1参照)。
 
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 大気の霊への変容——このことについてもう少し具体的に書いておこう。水素-ヘリウム空間では、空間はあくまでも客体物が活動する運動場のようなものとしてイメージされているが(実際には水素-ヘリウムがそうさせていると言った方が正しいのだが)、窒素-酸素空間では、事物はすべて主客一体としての精神の現れへと変化している。つまり、そこでは、すべてのモノの縁取りが球精神(次元観察子ψ7のカタチ)に見えているということである。もちろん、現在の人間の意識にはそのことを自覚することはできていないが、人間の意識の奥底にはそのような無意識が働いているのだ。だから、本来は主観の場しか目には見えていないにもかかわらず客観なんてものが成立し得ているわけだ(陽子がそれをさせているということ)。

 このブログで長々と連載してきた 「時間と分かれるための50の方法」の内容はまさにこの客観認識を支えている球精神次元にあたる次元観察子ψ7〜ψ8までのカタチを顕在化させるためのイメージトレーニングだったのだが、このイメージが明確に人間全体の意識に浮上してきたとき、そのカタチが大気圏を支えていたものだということが分ってくるだろう。そのときは、重力によって地表に大気分子が引きつけられているという現在の大気圏生成の見方は、科学信仰が作り出した迷信として解釈されることになるだろう。

 これはちょっと暴走気味の考え方になるが、ひょっとすると人間の意識における元止揚の覚醒は、現在の宇宙空間全体さえをも窒素と酸素で満たす力を持っているかもしれない。そのときは天上の恒星群もすべて消滅するだろう。恒星とは方向性が持てない人間の意識の為に方向を補完している潜在的な精神作用の変換力のようなものなのだ。。。星の輝きは太陽に対する一種の抵抗である。

 大気中の窒素と酸素の比率はおおよそ20% : 80%だが(二酸化炭素、アルゴンなどの希ガスも少しある)、この比率が覚醒作用の比率に関係しているというのも面白い。OCOT情報では覚醒方向に向かう力が1/3、ニュートラルなものが1/3、覚醒に向かわないものが1/3である。ニュートラルなものはそのまま覚醒に引っ張られるらしく、その大まかな比は2 : 1 となるそうな。これが対化として存在しているので、そのまま掛け算の形をとって、4 : 1という比が現れているということなのだろう。個人的にはこうした比率には興味はないが、この分離が人間の個体それぞれの内部での分離であることを願うばかりである。

 これは余談だが、ユダヤの言い伝えによれば、この世で金を貸すものと借りるものの比もまた20% : 80%が理想とされているそうな。オレの場合、金を借りるだけ借りまくって、そのまま覚醒して、銀行さんとは2037年あたりで「バイチャ」と言ってさっさとオサバラしようと考えているのだが、進化の摂理に阻止されるかも。。。冗談です(笑)。

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2009/01/19

交信記録19940205

交信記録19940205

人間において食べるという行為は意識において何を意味しているのですか。

形作る次元を内面に生み出すということ。表相から内面に働きかけるということです。定質の対化によって元止揚を生み出していくためには必要な行為です。

元止揚とは何ですか。

反映としての覚醒作用を意味します。中和の交差の上次元に働かされるもの。変換作用が作り出されるときに働きに変えられるもの。人間の意識の方向性を反映から次元に変えるもの。

生態系における食物連鎖とは何ですか。

位置の交差の次元と反映が生まれるまでは必要な次元です。

変換人の次元に入るとものを食べなくてもよくなるのですか。

位置を形作る必要がないので食べるという行為はなくなります。人間の意識が上次元を関与するようになればそのような状態になるでしょう。

■解説

 この交信内容に登場する内面、定質の対化、元止揚というのは、おそらく人間の意識次元におけるそれではなくヒトの次元におけるものだと考えられる。ヒトの意識構造は人間の意識構造と相似関係こそ持つものの、あくまでも比喩的な言い方だが約七倍の大きさを持っている。

人間の意識構造 ψ1〜ψ14
ヒトの意識構造 Ω1〜Ω14(まだ定かではない)

(ψ7=Ω1)

つまり、次元観察子ψ11が人間の意識の定質だとすれば、これはヒトの意識構造においては大系観察子のΩ5に相当し、ヒトの意識の定質はΩ11に当たる。その意味で人間がものを食べるという行為はヒトの意識の定質の対化であるΩ11〜Ω*11当たりに関係を持っているということになる。

 食べることが肉体を保持するための必要不可欠な行為であることには違いないが、同時に、食べることは精神を保持するための行為でもある。一体、食べることの精神における本質とは何なのだろうか。わたしたちはなぜ生き物を食べるという、一見、残酷に見えるこの行為を必要としなければ生きられないのか——。

 『シリウス革命』にも書いたが、OCOT情報によれば、自然界の生物とは人間自身が持った情念と思考の物質投影物ということになっている。植物が思考で動物が感情に対応しているというのだが、もしそれがほんとうならば、「わたし」が何かを思考したとき「わたし」は地球上のある種の植物へと変身しているということになる。「わたし」の中に怒りであれ、妬みであれ、喜びであれ、何かが感情としてうごめくとき、そのエネルギーは無時間の空間の中のどこかで純粋なアニマの形を取って、ある種の動物へと変態しているのだ。それは野をかける子ウサギのときもあれば、地を這い回るトカゲのときもあるだろう。

 こうした考え方は何もOCOTの専売特許ではない。たとえば、ドゴン族の伝承では、ひとりの人間が死ぬとき、自然界のすべての動植物の一対もまた死ぬと言い伝えられていた。これもまた、人間の意識自身の中に全生物種のゾーエーが凝縮されているとする思想を反映している。

 人間の内在野の中にある霊的自然。そこで連なっている霊的な連鎖体と、物質的生命としての生態系を重ねてイメージしたとき、無数の補食行為とはリゾーム状に張り巡らされた霊的なネットワークにおける交通空間の在り方のように見えないこともない。たとえば、悲しみの感情が慰めの感情により沈められたり、怒りの感情が冷静な思考によっていさめられたり、愛の感情が嫉妬の感情によって憎悪の感情に変わったりと、意識はつねに流動を繰り返しながら生成変化を行っている。この状態を動植物の間の食の流れと想像してみるのだ。一見、惨いことのように見える補食の行為もこうしたイマジネーションのもとでは生命システム自体が持った内部コミュニケーションのように見えてきはしないだろうか。

 で、問題は人間だ。幸運にも今の人間は食物連鎖の頂きに立つ唯一の種として生きている。もし、人間という種が神の精神の投影物ならば、人間が経験する思考や感情はおそらく神が味わっている霊の果肉だということになるだろう。僕ら人間の肉が生態系から収穫された様々な食物を味わうように、その霊である神もまた人間の意識の中でさまざまな意識的果肉を人間の経験として味わっているということだ。その意味で言えば、この人間の身体にはありとあらゆる思考、そしておよそ想像される限りのすべての感情のもととなる情動のロゴスが充満していると言っていい。酸いも、甘いも、辛いも、苦いも、美味も、珍味も、そして毒も。。神の精神はその全肯定としての自身の履歴を生態系の多様性として反映させ、その完成を人間の身体として表現し、再び、今、始源の大地に立っている。。。

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2009/01/16

交信記録19940130-3

交信記録19940130-3

生命体が炭素を中心に構成されているのはなぜですか。

それは生命が次元進化の反映として生み出されているからですが、中和の交差が多くのものを作り出すためには必要だからです。中和とは自己と他者を生み出すための重畳した部分。

水とは何ですか。

中性質は表相を内面から生み出します。水とは表相によって変えられたものを内面に生み出します。人間の意識が人間を観察し調整しているところ。

酸化とはどういう意味があるのですか。

中和の交差の還元作用に当たります。

次元の方向性における6番目(炭素)と8番目(酸素)の関係はどういうものですか。

使われたところにあるものを交差させたところに戻すということです。

水素イオンとは。

中和の交差の表相を人間の意識に見えさせているもの。水素イオンそのものには進化を作り出すことはできませんが、水素イオンによって生み出された交差を持つものには進化を作り出すことができます。

水酸イオンとは。

中和の交差の表相を力に変えさせているもの。水素イオンが多いということは力を持つことができないということです。力とは進化の方向におけるすべての力。力を持つことができないというのは反性質が弱いということです。

■解説
 
 OCOT情報によれば、原子番号3〜14までの元素界は人間の意識の覚醒が起こる次元を表していると言う。つまりトランスフォーマーの意識が作り出しているものだ。その意味でいえば、覚醒以前の人間の意識領域はすべて原子番号1番と2番の水素-ヘリウムの内部世界に幽閉されており、自然界の創造活動からは疎外されていると言っていい。つまり、人間という存在は自然界から一方的に贈与を受けるだけの存在であって、その本質はバタイユがいうように、世界を貪るだけ貪り尽くし、消尽するものたということである——太陽肛門としての人間。そこから排泄される熱、放射能、そしてエントロピー。

 意識が水素-ヘリウム構造の中で流動している状態をヌーソロジーでは「潜在化の次元」と呼んでいる。本当は表に出るべきものが、裏に回って人知れず動いている。秘密の舞台裏。これが無意識というものだ。無意識の構造をはっきりと知性によってつかみ取ること。これによって、潜在化は顕在化へと裏返ることができる。無意識という概念が生まれてきたのは20世紀になってからのことだが、フロイトがその概念を提唱して以来、その詮索は、フッサール、ハイデガー等の現象学やベルクソンの哲学とも絡み合いながら、思想の世界では構造主義、ポスト構造主義へと発展してきた。しかし、残念ながらこの無意識構造が明確な構造を持って把握されたことはない。わずか晩年のラカンのみがその幾何学化に果敢に挑んだが、結局、誰一人その後を継承する者はなく、人間精神や意識への言及は相も変わらず、旧哲学の体制が紡ぎ出すジャーゴンによって糊塗されつづけ、重装備化された重苦しい観念の同一性の中で息絶えようとしている。

 潜在的に作動しているもの——無意識構造。それを理念(イデア)と呼んでもいいが、この力はOCOT情報に従えば言語ではなく幾何学の中に宿っている。人間の意識の背景にこうした理念としての幾何学が潜んでいるからこそ、人間は主体と客体を持ち、自己と他者を持ち、希望と絶望を持っていると考えるのが自然だろう。この無意識の構造を支える幾何学を意味する概念が、他でもない、ヌーソロジーが次元観察子と呼んでいるものなのである。

 一般に現代思想においては神秘思想に倣って人間は倒錯者として見なされる。この倒錯を正常な位置に戻すためには、再度、倒錯を行なうのが早道なのだが、倒錯する方向にも二つあるので、一歩道を誤るととんでもないことになる。幼児になること。倒錯者になること。分裂症になること。ニーチェ、バタイユ、ドゥルーズ=ガタリの系譜は軽やかにこの倒錯者への道を語るのだが、これは別に赤ちゃんプレイをしろ、オカマになれ、キチガイになれ、と言っているわけではない。彼らのいう倒錯者への道が具体的に何を指示しているかは残念ながら今ひとつ不明だが、この倒錯への意思をヌーソロジーの文脈に当てはめると、それは潜在化から顕在化への反転の意になると言える。つまり、次元観察子でいうところの偶数系先手の構成から奇数系先手への構造へ。付帯質ではなく、精神を目覚めさすこと。それだ。

 今まで何度も示してきたように次元観察子はψ1〜ψ14、ψ*1〜ψ*14の総計28個の観察子で構成されている。人間の意識ではあくまでも偶数系観察子が先手で動いており、奇数系は後手に回っている。偶数系先手の意識は人間の内面の意識と呼ばれ、これは外在世界、物質世界を流動している言語としての理性の活動を司っている意識のことだ。一方、人間の外面の意識は奇数先手で流動しており、これが一般に言われている無意識に相当している。無意識は等化の連なりであり、ドゥルーズのいうように、絶えず、表裏を捻り合わせながら襞を作り上げ、内在面を形成している。折り紙が元を正せば一枚の平面であるように、この複雑な襞も滑降する一つの連続した面であり、意識はこのn次元連続体としての内在面上をガラス面の上を滑る氷のように滑走していっている。

人間の内面の意識がなぞる順番 ψ2→ψ1→ψ4→ψ3→………
人間の外面の意識がなぞる順番 ψ1→ψ2→ψ3→ψ4→………

 一方、偶数系の系列とは中和作用の連なりであり、それは空間の同質性として作用している。巨大な同一性の大海のことである。平板的でのっぺらぼうな差異なき漆黒の海。この大海に迷い込んだ偶数系先手の意識には自他の意識に方向性の差異があるということは分らない。もちろん、ここには空間の差異もない。外と内の差異もない。もちろん、意識が創造に関わるルートも見えることはない。時空という物質世界の中ですべてを思考し、すべてを説明してしまおうとする貪欲かつ保守的な理性の帝国だ。これが唯物論的な科学主義に代表される偶数先手の中和における人間の意識の在り方と考えるといい。もちろんこの同一性から差異化を諮ろうとする哲学や宗教、芸術の試みもあるが、それらは中和が先手を持った上での後手としての等化の運動ゆえに、力が極めてひ弱い。このひ弱さは後手すなわち反動者として運命づけられたものであり、資本主義の精神回路においてそれらが科学よりも優位に立つことはあり得ないだろう。

 ごたくを並べるのはこのくらいにして、交信記録の解説に入ろう。

 まずは、潜在化と顕在化の次元についてだが、これらは物質世界では次のようなものとして反映されていると考えて欲しい(理由はヌーソロジー本論の中で解説していくことになります)。

 1、潜在化の次元=素粒子構造(ボゾンとフェルミオン)
 2、顕在化の次元=次元観察子ψ1〜ψ14はそのまま原子番号に対応し、原子番号1番の水素から14番のケイ素までの元素に反映されている。 

 よって、上の交信記録にある内容は主に元素についての内容なので、顕在化の次元と関わりが深いことになる。上の内容のすべてを説明するのは大変なので、とりあえずは、水素イオンと水酸イオンについて簡単な解説をしておこうと思う。

 水素イオンと水酸イオンは、ご存知の通り化学ではそれぞれ酸とアルカリの原因となるものとされている。水素イオンはH+、水酸イオンはOH-という状態で、水分子H2Oの電離状態として存在している。ここに次元観察子の概念を当てはめると、水素は原子番号1、酸素は原子番号8であることから、水素分子は点球次元における対化(ψ1とψ*1)、酸素はψ8(転換位置)、プラスイオンとマイナスイオンは潜在化におけるψ3とψ4に対応していることが分る。つまり、イオンとは顕在化が作り出したカタチに対する人間の意識が持った不安定部分の活動を意味していると考えられる。プラスの電荷は人間の内面認識としてのモノ、すなわち客体意識のことで、一方のマイナスは外面認識してのモノ、すなわち主体意識のことだ(下図1参照)。
 
20090109_3
 
 この図の補足説明をしておくと、この場合、O=酸素が外在時空で、H2=水素分子がモノだと考えるといい。モノがH2というように二つの水素原子して表されているのは、モノが必然的に自己と他者という二つの対峙する方向性を持たされているからと考えるといい。すなわち、わたしが見ているモノか、あなたが見ているモノかの二つだ。これは、言い換えれば、人間の外面として知覚されているモノか、人間の内面に想像されているモノかということでもあるのだが、すでに「時間と分かれるための50の方法」を十分に読みこなした方には、これらが客体側としてのモノと主体側としてのモノに当たることはある程度察しがつくことだろう。

 目の前のモノに相互反転性を与えてみよう。まずはしっかりと見えているモノがある。今度はその球空間の表面の輪郭だけを取って、例によって中心点にまで縮め、そこで反転させ膨らまし、もとの輪郭の大きさまで持ってくる。これで相互反転したモノのイメージのできあがりだ。裏返ったモノの輪郭の方は元のモノの表面の裏面に反転し、見えなくなっているのが分かるだろう。

 見えないのになぜ客体としての存在感覚が意識に生まれているのか——それは人間の内面が言葉によって支えられている領域だからだと考えるといい。人間の内面には知覚はないのでモノは存在していないのだが、言語があたかもモノが存在するかのように意識に錯覚を与えている。この言語の場の理念として活動しているのが、水素イオンとしてのH+である。上に書いたように、マイナスの電荷は潜在化においてψ3(人間の外面)、プラスの電荷は同じく潜在化においてはψ4(人間の内面)として働いている。以上、まとめると次のようになる。

H+(水素イオン)=モノ一つを名指している言語の位置。
OH-(水酸イオン)=時空上のモノ一つに対する知覚(主体)の位置。
H2O(水)=知覚と言語の一致。すなわち時空上の一個のモノという認識のカタチ。

 こうした構造から見ても分るように、水は人間の内面と外面の意識の結節点のカタチであり、精神の方向性がニュートラルな状態としての空間、つまり、客観時空に置かれた一つのモノという理念的構成の射影ということになる。 即自としてのモノ(観測者抜きでも独立に存在していると思われているモノ)と対自としてのモノ(観測者が知覚していることによって存在となり得ているモノ)の一致点という言い方ができるだろう。タカヒマラ全体からすると始まり=1と終わり=8をつなぐものの原型である。OCOTたちが水のことを別名、「脈質(みゃくしつ)」と呼んでいるのはこのような理由に拠る。


 ——ここからは私的雑感。あまり物質的な生き方をすると血液が酸性になるぞ。外面優位の意識を志せば身体は自ずと健康になる。ってのはあまりに単純な考え方。人間は内面方向に負荷をかけられている。つまり、内面に負荷をかけなければ外面の発達は望めないのだ。だから、オレは適度な不健全さを生きる。適度な物質性を生きる。健全さを先手に取るとロクなことにならない。黒を極めて初めて白に至れるのだぁ〜。べらぼうめってんだ。

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2009/01/14

交信記録19940130-2

● 交信記録19940130-2

水素原子に中性子がないのはなぜですか。

それは対化の交差が内面を持てないという意味です。中性子は力の交差を持つための次元ですから、それがないということは上次元に関与する力がないということです。

重水素とはなんですか。

人間の意識に内面性を持った位置を送りだすための中和の力だと思います。位置を見るための元止揚のようなもの。

三重水素とはなんですか。

中和の交差を行い、その交差がまた内面を作り出したものの現れではないですか。


■解説(この解説を理解するには「時間と別れる50の方法」をある程度読んでおく必要があります)

 人間の無意識構造と意識構造としての水素とヘリウム。元素界へと直立した脱-人間としての世界認識を形作っていくためには、まずは、この水素-ヘリウム構造をしっかりと理解することが必要だ。宇宙空間をなぜ水素とヘリウムが占め、太陽や星々は何故に水素からヘリウムへと核融合を行い、物質は何故に水素とヘリウムを基盤として生成してきたのか。。こうした問いに対して科学は何も答えてくれない。

 水素やヘリウムをただのエネルギーの粒として見る時代はまもなく終わりを告げる。概念を孕むことのない平板な物質。空間化した時間の中に放擲された無色、無味感想な回転運動の襞。それを外側から見るのではなく、内側から、無時間において見る新しい知性を養うこと——そうすれば、それが「わたし」と「あなた」の真の住処であるということが分かってくる。星はそれら両者の結合力から誕生していくのである。

 水素とヘリウムの成り立ちを直観的に把握するには、元止揚の対化の双対性をイメージするのが手っ取り早い。『時間と別れるための50の方法』の最後で紹介したケイブコンバス表記を使えば、水素分子とヘリウム原子はおおよそ次のように表すことができる(下図1参照)。
 
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 この図での電子の意味づけは少し面倒なので割愛するが、少なくとも陽子と中性子の関係においては、人間の外面と内面の領域が自己と他者の間でキアスムを作ることによって、互いにψ7〜ψ*8、ψ*7〜ψ8という交差関係を持つことが容易に見て取れる。上でOCOTが「位置を見るための元止揚のようなもの」と言っているのは、この交差関係に生まれているψ7に対するψ*8とψ*7に対するψ8の働きのことと考えていい。その意味で重水素のカタチだけをケイブコンパス上に記すと次のようになる(下図2参照)。
 
1994013022

 ケイブコンパス上のカタチだけ見ても何のことか意味不明だと思うが、これは大雑把に言えば人間の外在認識と内在認識の様子である。外在認識が電子で表され、内在認識が中性子と陽子の重なりで表されている。この重なりは付帯質が精神の方向性を持っている状態を表していると考えるといい。OCOTは中性子のことを「こころ=人間の感性」と呼ぶこともあるので、この中性子の位置はこの図で示している位置でほぼ間違いないだろう。図からも明らかなように、「こころ」とは精神が持った方向を付帯質が正しくなぞっている状態だと言える。このようなこころが持った精神への方向性のことを「付帯質が持った進化の方向性」と呼ぶ。

 フロイト-ラカンの考え方を折衷させて言うと、人間の感性は次元観察子が作り出す位置の構成によって次のような四段階の発達段階を持つと考えられる。

第一段階………口唇期。ψ1へのψ*2の交差、
第二段階………鏡像段階。ψ3へのψ*4の交差、
第三段階………肛門期。ψ5へのψ*6の交差、
第四段階………男根期。ψ7へのψ*8の交差

これらの発達プロセスによって想像界の基本的構成が出来上がるということだ。ちなみにヌーソロジーでは「人間の感性」のことを人間の外面の意識とも呼ぶ。一方、この図で電子側が交差しているところは今のところは素朴実在論者が実在だと考えている外在としての客観空間だと考えておくといい。いわゆる即自としての物質的時空のことだ。

 水素にはもう一つトリチウム(三重水素)という同位体があるが、これは重水素にもう一つ余分に中性子がくっついている状態だ。これをケイブコンパス図で表すと下図3のようになる。
 
1994013023

 これは図からも分かるように、重水素に他者側の進化の方向性が加味されたものとなるが、ヌーソロジーの解釈からするとあまりいい働きを持ったものではないと言える。回りくどい言い方になるが、自己のこころが他者のこころ側に呑まれてしまったような状態を作り出すための理念的構成である。

 ヌーソロジーでは元素における同位体とは対化の歪みの次元の物質的投影であり、核子に見られる陽子数を超えた過剰な中性子は進化を疎外する次元の侵入を意味している。同位体が半減期を持ち放射線に崩壊していくのは、観察精神がこの歪みを是正するための調整作用を働かせているからである。対化の歪みを人間の意識自らが是正すれば、同位体はすべて消滅し、放射能は存在の必要性をなくすとOCOT情報はいう。ここでいう対化の歪みとは、人間の意識が自我を他我化させて崩壊させている状態とでも考えておくといい。

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2009/01/09

失われたシリウスファイル発見さる!!

 古い資料を整理していたら昔懐かしいフロッピーディスクが引き出しの奥からひょろんと出てきた。古いMacBookに付属したディスクドライブでファイルを開いたところ、何と粉失していた「シリウスファイル」の一部であることが判明!!だははは、超ラッキー。以前、旧アカデメイアのサイトでシリスファイルの原文を公開していたが(現在も閲覧可能)、19930313までに止まっていた。僕の記憶では1995年の3月にオウム事件が起こる当たりまでOCOTとのやりとりは続いていたので、約2年分のファイルが行方不明になっていたことになる。今回、見つかったファイルは1994年の分だ。プログネタとしては格好の材料なので、解説も含めながら少しづつ公開していこうと思う。ただ解説と言っても、ごくごくアバウトなものであることをご了承願いたい。ヌーソロジーが世界への視座をどのように転換させていこうと考えているのか、その臭いだけでもかいでもらえばそれで十分である。


● 交信記録19940130-1

水素原子とは定質のことですか。

はい、そうです。内面性における付帯質の覚醒を生み出したときに在するものです。

ということは、水素分子とは定質の対化のことですか。

力の交差の方向性。中和の交差が起こったときに定質の対化となります。つまり、次元の対化です。力の交差が反対側を向いているということ。

ヘリウム原子とは性質のことですか。

はい、性質と反性質が性質の対化の意味を持ちます。


●水素とヘリウム

 詳しい構造まではまだ明確に見えないが、OCOTたちには水素とヘリウムという元素は人間という次元の意識の存在を活動させるための受容器のようなものとして見えているようだ。ここにある「定質」と「性質」という言葉は、あくまでも人間の意識における定質と性質という意味であり、ヌーソロジーが用いる観察子の概念で言えば、ψ11とψ12に当たる。これは簡単に言えば、人間の無意識(外面)と意識(内面)という意味を持つと考えていい。つまり、

人間の無意識構造=水素
人間の意識構造=ヘリウム

という言い方ができるかもしれない。実際、宇宙には水素原子は単体ではほとんど存在しておらず、水素分子というペアの形で生成している。これは次元が対化でしか存在し得ないことを暗に表していると思えばよい。対化とは言うまでもなく「わたし」と「あなた」に集約される、存在の淵源にある二元性のことである(ヌーソロジーはあくまで「二元論」である)。

 水素やヘリウムを単なる物質としてしか見れない現在の人間の思考様式にとっては、水素やヘリウムが人間の意識や無意識とどのような関係を持つのか想像もつかないが、今まで『時間と分かれるための50の方法』でも再三にわたって示してきたように、水素やヘリウムを構成している陽子や中性子は人間が経験している外面と内面の空間の全体性をすべて綜合し凝縮化させた構造を持っている。原子核の中で回っている核子のスピンやその周囲を回っている電子などは決して物質として表象される存在ではなく、意識が空間を把握するときのカタチそのものだと考えると分り易いのかもしれない。

 たとえば、球体イメージを目の前の空間に描いてみよう。そのとき同時に空間全体が3次元的な広がりとして現れる。意識はその球体を球体然として把握するために、その周囲をグルグルと回っているはずである。こうした意識の運動力は時空に依存してはいない。半径10cmの球体だうろうが、それこそ半径137億光年の球体だろうが、自由自在に描像が可能だ。そして、ここが肝心なところなのだが、こうした描像力には他者からの視点が必要となる。ヌーソロジーでは陽子や中性子が持った回転とはこうした視点群の一括把握の時間的投影と見るのである。陽子は外面であり凝縮化(内包)として現れ、中性子は内面であり弛緩(外延)として現れる。

 目の前に球空間を想像してみよう(下図1参照)。そこには中心点となるものと球空間を覆う球面がイメージとして現れる。その時点ですでに君は他者から見たその球空間のイメージをも包摂させている。中心が陽子で、球空間のふくらみ自体が周回する電子である。もちろん、この球空間の大きさはさっきも言ったように自由自在に調整できる。そして、このとき中性子はその球空間自体を「図」として浮かび上がらせている「地」としての空間の広がりと言えるだろう。
 
20090109_1
 
 つまり、先に示した人間の無意識構造=水素、人間の意識構造=ヘリウムという文脈から言えば、人間の無意識構造=精神はモノ=物体というかたどりの概念の中に入り込み、人間の意識構造=付帯質はそれを図として浮上させる周囲の空間(時空間)の中に反映されてくることになる。そして、このような認識構造のカタチが自己側と他者側、双方からキアスム(交差配列)として存在させられていることによって、そこに主観や客観を含めた人間の世界に対する認識の形式がそれこそアプリオリに生まれてくることになる。水素分子とヘリウム原子とはこのキアスム構造に由来するものだ。

 宇宙空間を満たす水素とヘリウム………それは宇宙空間を一様な時空として認識している人間の意識の認識構造そのものの投影であると考えてみるのも面白い。つまり、人間の意識からそうした時空認識の力が除去されれば、そのようなものは跡形もなく消え去るかもしれない、ということだ。

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2009/01/06

「2013:The Day God Sees God」ようやくamasonに。

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いろいろなトラブル続出で発売が大幅に遅れた英語版『人神』が、ようやく"2013:The Day God Sees God"としてamason USAに登録されたようだ。

2013:The Day God Sees God on Amason

現時点ではセールスランクは百万位台とボトムラインに位置しているが、数ヶ月後には1ケタぐらいは位が減ってくれることを祈りたい。日本でもマイナーな本が米国で売れることを期待する方が愚かしいが、ヌースの場合は特異な路線を進んでいるので、マニアックな連中には意外とウケがいいのだ。実はすでにハリウッドの大物スターが本書をゲットしたという情報もこちらには入っているぞ。。へへ。英語になるとこういうことが起こり得るから楽しい。。

 追伸 

 ちょっと厚かましいお願いですが、どなたか英語でこの本の感想を書ける方がいらっしゃいましたら、是非、レビューの方お願いいたします。ペコリ。

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2009/01/05

紀要用の原稿書き終了!!

今日から、2009年の仕事始めです。
さっそく昨年、依頼のあったM大の日本総合研究所の紀要に掲載する小論を仕上げました。
論題は「知覚正面における本性上の差異に関する一試論」です。

大森荘蔵、ベルクソン、メルロ=ポンティから1センテンスづつを引用し、
4次元時空に被投された知覚正面の状況について簡単な考察をしています。

ヌーソロジーでいう「人間の外面」の哲学的裏付けを取るには、
この大森荘蔵の「知覚正面」論はシンプルですが、とても重要な概念です。

知覚正面(大森荘蔵)→イマージュ(ベルクソン)→奥行き(メルロ=ポンティ)。
この三者を時間をキーワードにして横断させたところに「人間の外面」というヌーソロジーの重要な概念が立ち上がっています。

記憶とは脳ではなく、今みている光の中に蓄えられている——。

ってことなのかな。。。証明は難しいけどね。。

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