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2008年11月

2008/11/26

時間と別れるための50の方法(54)

前回の続きです。

3、第3のたま 次元観察子ψ5~ψ6………垂質次元(聴覚空間?)

 観測者が自分自身の身体を3軸回転させたときに、自分の前側の綜合によって形成されてくる球空間(知覚球体)と、そのとき同時に形成される背後方向側を半径とする球空間。前者がψ5で後者がψ6になる。ここで「前」は見えるが「後」は見えていないということに注意。この段階で、自己を規定する場所性が空間領域として規定されることになる。ψ5の半径に当たる部分は人間の外面なのでψ3と同様に一点で同一視されて潰されており、結果、ψ5の球空間は微小半径を持つ3次元球面(この時点ではまだ多様体ではない)となっており、この球面の自転軸(絶対的前としての視線)が数学的にはスピノールになっていると予想される。ψ6はψ5の逆側。すなわち絶対的後(下図1参照)。
 
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 ψ5の球空間はイメージしやすいでしょう。単に「わたし」の周囲に見えている球空間のことです。ただし、球空間と言っても、普段僕らが3次元空間として認識している場ではなく、奥行きの潰れによってミクロに収縮した主体自身の位置であるということに注意して下さい。この球空間の中には上図1のように無数の垂子(ψ3~ψ4=モノの図と地)が見えているのが分ります。このことは人間の個体を規定する空間が無数の主観的なモノから構成されているということを意味しています。それぞれの垂子にはモノ一つにまつわる記憶がすべて入り込んでいるわけですから、このψ5の球空間には観測者がこの地上に生まれてからのすべての記憶が詰まっているということになります。それらの記憶に時系列を与えて時間の経過として順序立てているのはψ6とψ*6を同一化させているψ8の次元です。時間とはすべての精神階層における中和の総体が生み出しているものだと考えられます。

 ψ5が人間の内面側へと反転したψ6は言うまでもなく中和作用側ですから、ψ5とψ*5の相殺の結果として生み出されたものです。ψ6は自己の後側が回転して構成されている球空間のイメージになりますが、それは自己側から見た他者の前方向を半径とした球空間とも言えます(背中合わせの自己と他者)。今、あなたの目の前に他者がいて、その他者の目から発する視線がグルリと回転したときに構成されている球空間を想像してみて下さい。そのとき、おそらくあなたには他者が巨大な宇宙空間にポツンと一人点打ちされたような存在として見えていることでしょう。もし他者のそばにモノがあれば、あなたにとってはそのモノの外部に広がっている空間と、他者から広がっている空間には何の違いもないように見えているはずです。もっと言えば、それはバスケットボールの内部を膨張させた空間とも違わないはずです。しかし、少し注意して考えれば、他者から広がっているψ6の球空間にはψ*5としての他者の実存的な空間が内蔵されているのが推測できます。その意味でこのψ6は、中和された空間ではあるのですが、ψ1~ψ2領域(バスケットボールの内部)やψ3~ψ4領域(傍らのモノの外部空間)よりも一段階次元の階層が上がった空間です。僕らの認識では一見のっぺらぼうのように平板的に見える身の回りの空間は、このように多重なレイヤー構造を持って存在しているのです。

4、第4のたま 次元観察子ψ7~ψ8………球精神次元(名の発生空間?)

 自分の位置を対象の中心点にイメージし、視線をその対象の奥行き方向の半径と見る。これがψ5。こうした状況で、対象の周囲に無数の他者を配置して、それら一人一人のψ5としての視線の対象への入り込みをイメージする。結果的に、対象の内部は自他の視線で埋め尽くされることになる。この視線を綜合した球空間が次元観察子ψ7と考えていい。

 一方、ψ8はψ7の逆方向となる。同じく、自分の位置を対象の中心点にイメージし、そこで自分の背後方向を想像してみる。この方向性はモノの中心点からモノの外側にある肉体としての自分の顔面を突き抜け背後方向へと無限に延びていく。これがψ6。そして、ψ7のときと同様、対象の周囲に無数の他者を配置して、他者においても同じ状況を想定する。結果的にモノの内部と外部は身体の背後空間で埋め尽くされることになる。この球空間が次元観察子ψ8と考えていい。(下図2参照)
 
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 たぶん、このψ7~ψ8の描像が皆さんにとって一番厄介なものになっていることでしょう。というのも、ここで人間の意識に深く入り込んだ3次元的思考が4次元への脱出を妨害するからです。この4次元の方向性を描像するためは以前も言ったように、知覚球体自体を一本の線分と見なす必要があります。しかし、僕らが慣れ親しんでいる3次元認識では、どうしても球体が線のようには見えてこないはずです。この理由は3次元認識が世界を知覚している身体をも3次元空間の中に投げ込んでいることにあります。こうしたイメージの中では、前後、左右、上下という身体における3軸はモノの(x,y,z)軸と何ら変わるものではなくなってしまいます。この認識が4次元の通路の障害物となっているのです。

 第35回目の『眉間鉛筆』のところでも書いたように、4次元方向は「わたしは動いてはいない」という感覚の内で捉えられた身体空間の中から浮上してきます。「わたしが動いているのではなく、世界の側が動いている。」そう考えることによって、「わたし」は3次元空間内へのモノとの同一化から解放され、無限遠点という3次元を超越した位置に立つことができるようになるということです。そして、その位置からは現象界のすべてがこの身体の「前」という一つの方向の中で展開しているように見えてきます。この思考様式への変更が次元観察子ψ5とψ6の球空間において「面点変換」を行うということの実質的な意味だと考えて下さい。この「面点変換」の結果として、ψ5とψ6の球空間は身体を中心とした双方向の一本の線分として認識されてくるようになります。いわゆる「絶対的前」と「絶対的後」。これが4次元の正と負の方向の実体なのです。この線分が知覚正面に対する回転軸となったものが物理数学でいうスピノールとなります。

 次元観察子ψ7~ψ8の球空間は結果的にψ1~ψ2の球空間に重畳してくることになりますが、ψ1~ψ2がモノを規定する空間だったことを考えれば、この重畳がモノが陽子と中性子から構成されているように見えている理由になります。もちろん、このψ7~ψ8の生成段階では単に陽子と中性子だけですから、モノのもとになっている様々な元素を生み出すまでには至っていません。電子も足りませんしね。しかし、いずれにせよ、物質と意識が結節する創造空間の扉はこの次元観察子ψ7~ψ8の顕在化で開いたことになります。

 喩えて言えば、物質とは3次元空間を張り布とするヌースの刺繍のようなものです。刺繍の針が張り布の内面と外面を幾度となく反復して様々な美しい刺繍模様を描いていくように、物質もヌースの針が3次元空間の内面と外面を何度も往復しながら、そこに結び目や綴じ目を重ね合わせていくことによって作り出されてきたものと考えてみましょう。次元観察子ψ1~ψ2とψ7~ψ8の重なりが見え出したということは、ヌースがこの反復運動の元となるもっとも基本となるルートを発見したことと同意です。本当のエルサレム(天上都市)の風景がまもなく見えてくることでしょう。位置の変換後はそこが地球人類の居住空間になっていくはずです。「そこ」に入ったもののことをヌーソロジーでは「ヒト」と呼びます。シリウスです。

 海よ、汝が紅き苦悩を紺碧の希望へとかえ、
 その眠りの水を天の水と地の水の二つに分け給へ。
 さすれば、轟々と響く水音とともに、
 失われし伝説の宝塔が、
 天を引き裂かんと海底より聳え建ち上がることだろう。
 
 ――存在世界は自分自身を前と後に分離させた。前を世界の内在性と呼ぶのであれば、後は世界の外在性となる。しかし、これらは存在世界にとっては二つの場所性を示すものにすぎず、単なる場所性だけではそれらを「観る」という意識の行為は生まれない。そこに自らの存在の自覚はないのだ。存在世界が意識たるためには、観るもの(ノエシス)と観られるもの(ノエマ)という「男なるもの」と「女なるもの」における性的な力が必要となる。ここに象徴界と想像界の発露がある。外部=女はもう一つの内部=男によって〈外部-化〉され、内部=男はもう一つの外部=女によって〈内部-化〉される。互いの尻尾を噛み合う二匹の龍。こうして二つの対照的な性格を持つ人間の意識の類型である水星的なものと金星的なもの、すなわち言語と表象の生産機構が見えてくることになる。ヌーソロジーでは前者を「人間の内面の意識」、後者を「人間の外面の意識」と呼ぶ。次元観察子ψ9とψ10の世界である。――つづく


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2008/11/25

時間と別れるための50の方法(53)

●4つの霊珠(たま)

 七つの玉には7人の姫がついて守っておるのじゃぞ。
 その姫たちが目覚めて、いよいよ岩戸開きの到来じゃ。

 天と地がぐでんとひっくり返るぞ。
 こころしてかかれよ。
 
 今まで見えぬものが見えるようになり、見えたものが見えなくなるぞ。

 あるものがなくなり、ないものが出現するぞ。

 ちょっとヌーソロジーっぽくないコテコテの前振りではありますが、今まで説明してきた次元観察子ψ1~ψ8の構成をごくごく単純にまとめると下図1のような4重階層の球空間として表すことができます。これでヌース(旋回的知性)が7つの玉のうち4つをつかみ取ったことになります。もちろん、残りの3つの玉とは次元観察子ψ9〜ψ10、ψ11〜ψ12、ψ13〜ψ14のことです。

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 これら4つの球空間のうち、次元観察子ψ1~ψ2を除く三つの球空間はそれぞれが相互反転関係にあるペアを持っていると考えて下さい。そのペアが奇数系観察子と偶数系観察子が形作る球空間の関係に相当します。各球空間について再度まとめておきましょう。

1、第1のたま(点球)………次元観察子ψ1~ψ2(触覚空間?)

 モノの内部を構成している球空間。モノがどんどん膨張していくようなイメージの方向が次元観察子ψ1。反対にモノがモノの中心方向に縮んでいくようなイメージの方向がψ2に当たる。結果的にミクロからマクロへの空間の膨張イメージがψ1となり、マクロからミクロへの空間の収縮イメージがψ2となる(下図2参照)。
 
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 上で次元観察子ψ1~ψ2だけは相互反転性を持っていないと書きましたが、これはどういうことかと言うと、現在の人間の意識にはψ1とψ*1、ψ2とψ2がそれぞれ同じものに見えているために、球体の表面を単なる球面としてしか捉えることができません。これは自己側のψ1~ψ2と他者側のψ*1~ψ*2が相互に捻れを持った関係(キアスム)で認識されていないということです。このようなノッペリとした球体認識がψ3に始まる次元観察子の顕在化を抑止しています。ヌーソロジーではこの抑止状態のことを「止核(しかく)」と言います。比喩的に言えば、プレアデスに降ろされた錨のことです。この「止核」は端的に言えば「物質」という概念のことと考えるといいでしょう。

 「止核」は人間の意識次元を安定して活動させるために真実の人間の意識が作り出しているものです。しかし、止核の力が強大になりすぎると人間の意識は精神の方向性を持つことが難しくなってきます。止核がもたらす最も大きな弊害の一つに尺度概念の絶対化が挙げられるでしょう。尺度は空間を均一的な場と見立て、モノが存在しないところにまで長さや面積、体積等の度量衡をあてがい、空間に潜在化している次元の差異を見えなくさせてしまいます。『人神/アドバンストエディション』にも書きましたが、例えば、科学者たちが「宇宙の大きさは半径約137億光年である」と言うとき、そこでイメージされている空間は目の前にあるパスケットボールを極限にまで膨張させたようなイメージの空間になっていることが分かるはずです。このイメージ形成はモノの内部の球空間の表象が、そのままモノの外部空間=ψ3や人間が生きる場=ψ5、さらには人間全体の生きる場=ψ7を闇で包み込んでいるも同然です。この尺度化の体制は今や地球の外部空間はおろか宇宙全体の空間までをも支配し、人間の意識を物質的な空間の中に閉じ込めてしまっているわけです。

 このように空間を次元観察子ψ1~ψ2のみの中で思考することは、人間の空間認識がモノの内部に幽閉されているのと同じ意味を持っていることが分ります。モノの内部次元である点球は、そこには観測者は存在し得ない(つまり、見えない)という意味で光なき世界であり、点球の内部にすっぽりと包み込まれてしまって認識されている宇宙はある意味、すべて幻影世界と呼んでいいものです。しかし、ヌーソロジーの観点から言えば、これは意識進化のための必然だと考えられます。というのも、こうした尺度化の体制がミクロからマクロの全域に及んだとき、上次元が止核を解除し、人間の意識に最終構成を働きかけてくるような仕組みが精神構造の全体性には存在させられているからです。——鍋の底抜けたら、帰りましょ。というやつですね。
 
2、第2のたま(垂子)………次元観察子ψ3~ψ4(視覚空間?)

 観測者がモノの周囲を巡ったときに、モノの外部を構成しているように認識されている球空間。この球空間には二通りのものがある。一つはモノの背景方向を半径とする球空間。もう一つはモノの手前方向を半径とする球空間。前者が次元観察子ψ3で後者が次元観察子ψ4。ψ3の球空間の内壁は見えるが、ψ4の球空間の内壁は見えない(下図3参照)。
 
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 ψ3の球空間への方向性は、まずはモノの背景空間として出現してきます。この背景空間の登場によって、モノを「図」、背景を「地」としたモノの内部と外部の差異が出現してくることが分かります。このときモノの背後方向に無限の長さを持つと想定されている奥行きの線分は人間の外面では一点同一視され、4次元空間のルートを通してモノの中心点付近まで縮んで入り込んできます。いわゆる光のゼロベクトルです。これは人間の外面がモノの内部側に入り込んでくる最初のルートとなります。この空間ではモノにおける全表相の見えの記憶がイマージュ(ベルクソン)として蓄えられていると考えられます。結果、ψ3の球空間は一つのモノに対する主体の位置となります。

 ψ4の球空間はψ3がψ*3によって相殺されて生まれる位置です。ψ4にとってはψ3が消え去っているわけですから、このψ4は意識がψ1~ψ2に戻されている領域という言い方もできますが、ψ3を経験したあとに戻されているという意味で、最初のψ1~ψ2とは位置的に若干の違いがあると考えて下さい。つまり、ψ1~ψ2では観測者は不在ですが、ψ4になると観測者が内面(対象の手前側の位置)に把握されるようになるということです。人間が一つのモノの外部に広がる3次元空間を描像するときには必ずそのどれか一方向に自分の目の位置を感じ取っているはずです。その目の位置がモノの周囲を動き回ることによってψ4が形成されているということになります。言うまでもなく、自分の目の位置というのはψ3とψ*3(自己の視野と他者の視野)があって、初めて存在できるものなのです。――つづく

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2008/11/21

時間と別れるための50の方法(52)

 ●相互反転した二つの客観の位置

 顕在化した次元観察子ψ7とψ8。前回までの話でこれら両者の関係が客観的な点概念と時空概念の関係であり、その3次元世界への射影が僕らが陽子と中性子と呼ぶものになっているという結論を引き出してきたわけですが、もっとシンプルに言ってしまえば、単に人間全体の身体における「前」が陽子で、「後」が中性子だということになります。つまり、「前」は潰されて点の中に入り込んでおり、「後」は広げられてその周囲を囲い込む広大な空間となっているということです。あまりに単純すぎて、僕自身この描像に行き着いたときは驚愕すると同時に拍子抜けしたものです。その描像を皆さんも理解していただけるように、第49回で示した図2を使って再度、次元観察子ψ7とψ8の関係を示してみることにします(下図1参照)。
 
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 キアスムの関係をそのまま図示しているのでちょっと分りにくいかもしれませんが、言わんとせんとするところは極めて単純明解なことが分るでしょう。例えば、観測者Aにおける絶対的「前」は青い矢印で示したψ5のスピノールの部分に集約されて入り込んできています。すると、自動的にその絶対的「後」は原点Oを挟んでψ5の反対方向となる赤い矢印で描いたψ6の矢印に対応してくることになります。結果、ψ7とψ8はこのψ5とψ6の関係を形作る2本の矢印を、モノ(点でもよい)の周囲を取り込んだ無数の観測者の位置に交差させるように回転させていけばいい訳ですから、図2に示したような様子になります。陽子のアイソスピンはψ5-ψ*5の等化回転を一本のスピノールに集約させ、同様に中性子のアイソスピンはψ6-ψ*6を同一化させる回転を一本のスピノールに集約させています。結果的に、このアイソスピンの軸を3軸回転(SU(2)になります)させれば、相互反転した二つの3次元球面が形作られることになります。このときの二つの球空間が次元観察子ψ7とψ8の球空間に対応します。ψ7が客観的な点概念、ψ8が客観的な時空概念という意味が容易に理解できるのではないかと思います。

 人間の内面の意識にとっては、この二つの球空間には半径無限小か無限大かという違いが出てきますが、人間の外面認識は時間距離tが存在しない永遠の領域なので、ψ8は単にψ7の反映にすぎず同じく無限小空間の中で構成された形で見えることになります。このような意味を付加させて図1を書き直したものが下図2です。3次元球面の相互反転関係と陽子と中性子がともにミクロ方向に重なり合って形成されている様子と、その意味が何となくは理解していただけるのではないかと思います。
 
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 さて、ここで付け加えることがあるとすれば、人間の外面の意識が顕在化してくると観測者の身体の位置は対象の中心点Oと同じ位置として見なされてくるということです。人間の外面においては奥行き方向はどこも同じ位置であるので、対象の中心点に自分がいるという感覚が自然な感覚に思えてくるようになります。このような認識で身体の位置が捉えられたとき、この位置のことをヌーソロジーでは「重心(じゅうしん)」と呼んでいます。重心とはヌーソロジーの理論構成全体から言えば、精神構造におけるあらゆる対化の等化を行なっていくための変換の中点という意味ですが、この次元観察子ψ7〜ψ8段階では、人間の内面と外面を相互変換させるための支点というぐらいの意味で解釈しておけばよいと思います。重心はまたOCOT情報では神の定義ともされています。

 重心とは何ですか。

 地球と太陽の交点。あらゆるものの交点。交点が神。神が交点。(シリウスファイル)

 重心感覚という表現もあるように、OCOT情報によれば、この「重心」は字義通り、僕らが物体の重心と呼ぶもののことでもあるようです。重力や質量の本質がヌーソロジー的に何か分ってくれば、OCOT情報のいわんとするところがより明確になってくるでしょう。地球と太陽の交点という言い回しも何やら意味深で興味深いところです。

 ほんとうの身体的位置が重心であり、それが人間の内面と外面の変換点そのものだとすれば、図1や図2に示したような形で把握されている僕らの一般的な身体位置のイメージとは一体何なのでしょうか。これはOCOT情報では「転換位置(転換位置)」と呼ばれます。いわゆる物質的身体のことです。転換位置は精神が等化作用を進めていくときに、その反映として作り出された中和の力が何層にも多層化されていくところと呼び変えてもいいかもしれません。物質側が等化作用(精神)の多層化ならば、肉体側は中和作用(付帯質)の焦点化と言い換えることができると思います。タカヒマラの精神構造は次元観察子ψに始まって、大系観察子Ω、脈性観察子φというように、数えきれない等化と中和の作用の階層構造を持っているので、その関係性が外界の物質構造全般と人間の肉体を構成している物質構造の違いとなって現れてきます。その意味で言えば、現代医学はこうした、単なる物質と人間を構成する物質のその次元的な差異が全く見えていないと言えます。

 別の言い方をすれば、転換位置とは人間の内面の意識における身体の把握の仕方にすぎず、この身体には裏身体とも呼べるような本当の身体が存在しているということでもあります。それは言うまでもなく、人間の外面としての身体性のことであり、その位置は人間の内面の意識においてはモノの中心点にあるということなのです。転換位置としての身体認識は、主体が他者の身体と空間の関係性を見て、その様子を自分の身体と空間の関係に上書きすることによって生まれてきているものにすぎません。次元観察子で言えば、ψ5がψ6を見て、ψ5にψ*6のイメージを重ね合わせてしまうということです。想像的自我の土台を作るということですね。『人神/アドバンストエディション』ではこのへんの仕組みを次のように書きました。
 
 ——つまり、「君の前」がいつのまにか「僕の後ろ」とすり替えられてしまい、君は他者にとっての他者として自分を把握してしまっているのだ。君が前の集まりとして感じている空間、僕がいくら前には距離がないと言っても、いや、現にあるじゃないかと言って、前に3次元の奥行き感を作り出している思考性、それが君自身の自我の本性であり、ここでψ*6と呼んでいる次元観察子のことなのだ。つまり、君も僕も「前」を「前」として見ることができず、互いの「前」を相手側の「後ろ」として見て、自分からの広がりを想像的に認識してしまっているということだ。これが鏡像交換、想像界的癒着を作り出しているψ6〜*ψ6の空間構造的な意味合いである。(『人神/アドバンストエディション』p.407)

 こうして今度はψ6(他者の身体からの空間の広がり)とψ*6(自己の身体からの空間の広がり)を同一化させるための回転がψ7の反映として起こってきます。その結果生まれてくるのが次元観察子ψ8だというわけです。ここでは詳しく書きませんが、これは物理学的に考えると時空座標の回転群に相当してきますから、特殊相対性理論に顔を出すローレンツ変換と呼ばれる変換の群の構造と同じものだと考えられます。その意味で言えば、ニュートンの絶対空間、絶対時間をベースにした古典力学からアインシュタインの相対論に始まる現代物理学への遷移は、事象分析に観測者が組み入れらていないかいるかの違いとも言えるでのかもしれません。現代物理学の骨格は相対論と量子論ですから、その流れから言えば、相対論においてまず人間の内面における観測者の役割が取り込まれ、次に量子論で人間の外面における観測者を取り込まなくてはいけない状況に入り込んできてしまったのでしょう。ヌーソロジーから言えば、この両者は次元観察子ψ8とψ7の空間領域を人間の意識が理性によって数学的に解析し始めたことと同意です。では、なぜ、そのような発展を物理学は辿ってきたのか………。OCOTに言わせれば、それ自体が「人間の最終構成」を行なわせるための準備活動だったということになります。冥王星の力です。——つづく

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2008/11/19

時間と別れるための50の方法(51)

●中性子と客観的時空

『人神/アドバンストエディション』に補填した「トランスフォーマー型ゲシュタルト・ベーシックプログラム」の補足解説版として連載し続けてきたこの「時間と別れるための50の方法」というシリーズも気がつくとすでに50回を超えてしまいました。スタート当初は、まぁ、50回くらいやれば何とかまとめられるだろうと高を括って「50の方法」とタイトリングしたのですが、ちょっと見通しが甘かったようです。ごめんなさい。目的の次元観察子ψ7~ψ8までの構造を単純明快なものとしてまとめるためにはあと10コマぐらいは必要かなぁ。。。とにかく、一段落するまで続けたいと思います。

 前回は「陽子とは愛である。愛とはスタートである。」と言ったOCOT情報の意図に留意しながら次元観察子ψ7の説明を試みたのですが、皆さんもご存知のように物質の基礎とも言える原子核にはもう一つ中性子と呼ばれる複合粒子が存在しています。陽子を次元観察子ψ7とするならば、この中性子はψ7の反映としての次元観察子ψ8に当たるというのがOCOT情報の内容です。つまり、陽子と中性子という存在はきっちりとヌーソロジーにいう「対化」の関係になっているということです。
実際、物理学の中においてもこの陽子と中性子の関係はアイソスピン+1/2と-1/2の関係として相対する角運動量の方向性として示されています。その様子をまずは下図1で示しておきましょう。
 
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 前回、説明したように、陽子はuudで構成されていますが、中性子の方は陽子とは反対に二つのダウンクォークと一つのアップクォークの複合粒子となっています。

 中性子 ddu(ダウンクォーク2個とアップクォーク1個の意)

 次元観察子ψ5をuクォーク、同じくψ6をdクォークと置いた前回の仮定からすれば、陽子=ψ7の状態とは、ψ5とψ6を対化に持った次元がψ5を先手にその反映であるψ6を後手に持って、そこからこの両者を等化するために回転を行い、二つ目のuクォークを陽子のアイソスピンとして作り出している状態として考えることができます。一方、その反映としての中和の方は、ψ5とψ6の対化において例によって先手と後手が転倒しており、ψ6=dクォークが先手、ψ5=uクォークが後手となり、二つ目のdクォークを陽子のアイソスピン+1/2に対して中性子のアイソスピン-1/2として作り出しているものと解釈ができます。

 次元観察子ψ5とψ6の中和の意味を持つこの次元観察子ψ8の状態は、次元観察子ψ3とψ4の中和作用が次元観察子ψ6を作り出したときと全く同じシステムによって作り出されていると考えられて結構です。つまり、ψ6(他者の時空)においては無限遠点が他者自身の主体の位置であるということが見えなくなっているので、ψ6とψ5を統合するときに、ψ5の代わりにψ*6(自己側の時空に当たります)を持ってきてしまうということです。するとその統合もまた人間の内面として現れ、今度はψ6×ψ*6という掛け算のかたちで時空自体を多様体化させる状態を作り出してきます。ψ6とψ*6を掛け合わせることは、「わたし」の時空の広がり全体にわたって無数の他者の時空の原点を存在させる自由度を作り出すことと同じです。こうした状況は「わたし」の目の前に広がっている世界を見ればすぐにイメージすることができるでしょう(下図2参照)。
 
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 「わたし」から広がる空間内=ψ*6には無数の他者がいて、その一人一人を原点とする時空=ψ6が広がっているのが確認できるはずです。それらの時空をすべて綜合したものが次元観察子ψ8の描像になります。これは僕らが普段慣れ親しんでいる風景ですからかなりイメージしやすいのではないかと思います。次元観察子ψ8では観測者は単に肉体という物質的存在に見立てられ、それらを呑み込んだ巨大な空間のイメージが出現することになります。要は客観的時空のことです。

 ということは、僕らは普段、中性子を時空上の超ミクロな点の中に見ているわけですから、結局は宇宙の広がり自体が極微世界の中に映り込んだものが中性子であるということになります。次元観察子ψ7が精神という能動的な存在であることに対して、この次元観察子ψ8は反映(鏡映)という意味で受動的な存在です。その意味で次元観察子ψ8が単独で存在するのは難しいことになります。実際、物理学においても中性子は単独だと極めて不安定ですぐに崩壊してしまいます。このことの意味を意識的状況に置き換えて言えば、人間の内面世界である時空という領域はあくまでも精神の反映として後手に作り出されたものであって、ちょうどカントの言うように観念による直観の一形式として精神によって組み立てられたものにすぎないということです。時空世界が先にあってそのあとに物質進化の延長として精神が出現してきたとする現在の科学的な意識観はヌーソロジーの観点からすれば全くのトンデモ話だということになりますが、果たして真相はいかに。。。

 コ : 物理学が考えているようなビッグバンとは本当にあったのですか?

 オ : 全く意味をなしません。

(シリウスファイル)

 ——つづく

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2008/11/15

時間と別れるための50の方法(50)

●「陽子とは愛」が意味すること

 スピノールの回転のヌーソロジー的解釈を一通り終えたところで、OCOTがなぜ「陽子とは愛」と言ったのかを考えてみましょう。

 陽子は、皆さんもご存知の通り、物質の核をなす粒子です。この陽子は現代物理学では二つのアップクォーク(u)と一つのダウンクォーク(d)で構成された複合粒子として存在しています。

 陽子  uud(アップクォーク2個とダウンクォーク1個の意)

 uクォークとdクォークはスピン±1/2を持つ粒子でその自転角運動量は電子と同じでスピノールになっています。ここで、今までお話してきた次元観察子ψ5をアップクォーク、同じく次元観察子ψ6をダウンクォークのスピンとして解釈してみます。すると陽子に含まれている二つ目のアップクォークが持つスピンは、この次元観察子ψ5とψ6を等化する回転が持ったスピンとして解釈することができます。この回転が意味するところは、自他を統合するところに無数の自他関係の対化を構成する自由度を設けているということでもあります。結果的にスピノールの回転の次元そのものは、主-客関係が形作られていた空間より、より大きな対称性を持った次元観察子ψ7を作り出してくることになります。物理学ではこのようなスピノール自体の回転によって生まれるスピンをアイソスピンと呼んでいて、ψ5やψ6のスピンとは区別して考えるようです(下図1参照)。
 
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 アイソスピンはスピノール空間における球空間の回転軸のようなものに当たると考えば分かり易いかもしれません。その意味で、このアイソスピンの内部自由度もSU(2)=S^3になります。この自由度が形作られている空間がψ7の球空間で、シリウスではこれを「球精神」と呼んでいます。球精神……どこかで聞いたことがある言葉ですね。いやいや、あれは「精神球」だったような。精神球とは現在の人間が巨大な空間の広がりとして認識している場所のことです。それが反転したもの。。。これが球精神です。あ〜、もう面倒臭いったらありゃしない。。果たして球精神って何でしょ?

 実はOCOT情報は球精神は人間の意識では客観的な点概念として働いている力のことだと伝えてきています。目の前の空間の中に、「ここに客観的な点を打ちます」と言って、多くの人がそれを了解したときには、その点自身が陽子になっているということです。もちろん、前にも言ったように、点概念とはそのまま「点球」のことを意味しますから、これはモノとしての客観的球体概念と言い換えても同じです。人間は点や球の概念の背景にこうした球精神の力が働いているということも露知らずに、そのまま、無意識に球精神の力を借りて、モノの境界面の描像を宇宙空間の果てにまで拡大して、空間の広がりを概念化している………それが精神球だということです。この球精神と精神球の反転関係は次元観察子ψ9の領域に入るとはっきりと見えてきます。

 さて、クォークのuスピンが観測者の絶対的前を意味し、それが主体の精神の在処だとすれば、この陽子のアイソスピンとは人間全員の「前」を綜合した空間であり、そこはまた人間の意識における持続の全体性が息づいている場でもあるということになります。このことは言い換えれば、主体が人間全体の観察の視線が焦点化されていると考えているところには陽子が生じるということでもあり、モノが陽子でできているのも、このような主客認識の一致点が空間構造として物質生成の根底にセットされているからです。観念論と実在論の見事な調和がここにはあります。これまで哲学を呪い続けてきた「もの自体」という亡霊を払拭することができてくるわけです。

 コ : では、愛の達成が人類の最終的な目的ではないのですね。

 オ : はい、さきほども申し上げたように、あなたのおっしゃっている愛とは、人間に進化の方向を与えているものであって 目的ではありません。むしろ、スタートです。

 コ : 愛がスタート………。
 
 (『シリウス革命p,98』)

 人類の過去の歴史の中で何度も声だかに叫ばれながらも空しいリフレインとなり続けてきた「愛」。OCOT情報によれば、その愛が2013年から結実を開始すると言います。正直、「ほんまかいな」というのが大方の人たちの反応でしょう。現実の世の中を見てもそのような気配は一向に感じ取ることはできませんし、むしろ、社会のいたるところでルサンチマンが増殖してきており、世界全体が受動的ニヒリズムへとまっしぐらに堕ちて行っているようにも見えます。一体OCOTは人間の何を見てこのような予言めいたことを言っているのでしょうか。このことについては僕自身、いろいろな可能性を探りました。結果的に下した決断は、OCOT予言の真意の理解のためには、人間が長年抱き続けてきた愛のイメージをその根底から変える必要があるということです。

 普通、「愛」というと、男女の性愛や、隣人愛、人類愛など、他者に対する慈しみの感情を指します。こうした感情は今までは人間の精神面や心の問題とされ、認識の問題とは区別して語られるのが常でした。しかし、認識を無視したこのような愛の在り方は虚妄だとも言えます。なぜなら、人が他者への愛を諭すとき、大方の場合、他者は自分の外部に想定された別の主体的存在となっているからです。「他者」をはじめから〈外部〉において、そこで「他者」との融合を切々と訴えたとしても、実際には「他者」を遠ざけていることにしかならず、せいぜい、折り合いをつけてうまくやっていく程度のことしかできません。こうした疎遠さの中で、どんなに「わたしはあなたを愛しています」と叫んでみたところで、そこでは「他者」は永遠に自己の〈外部〉に放擲されたものでしかなく、根本的に断絶を持った「他者」でしかありえないのです。

 ですから、自他一体という愛のかたちを形成するためには、人間におけるこうした旧態依然とした〈自己-他者〉図式を払拭し、他者を絶対的外部に置かないような世界像を作り出す必要があります。たとえば、前回示した図のように、多くの人間が一つのモノを取り巻いて観察している様子を想像してみましょう。そのとき僕らは見ている主体が「多」で、見られている客体が「一」だと考えています。この認識は僕らにとって極めて自然なものであり、別に無理してそのように見ているわけではありませんね。モノには無数のアスベクトがあるにもかかわらず、そのアスベクトの「一」への統合がなぜかモノ側ではいたって自然に起こっている。それならば、いっそのこと、主体が今見えているモノの像側にいるとする考え方と感覚を作り出せば、主体の交換がいとも簡単に成立し、愛が一気に現実化することになるわけです。

 このためには、いつも言っているように、モノの手前側に想定されている鏡像を消してしまわなければなりません。もちろん、この作業は鏡像的自我自体が時空という概念で統制された世界体系(人間の内面の意識)によって幾重にもガードされているので、そんなに容易なことではありません。しかし、もし、そのガートを突き崩せるだけの別の認識の体系が作り出されてくれば、愛はごく自然な身振りで天から舞い降りてきて、人間を次なるステップへと進ませることができるのではないかと考えています。愛とは陽子である——これほど痛快な落ちを用意している神さま。あなたはつくづくセンスがいいお方だ!!——つづく

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2008/11/10

時間と別れるための50の方法(49)

●たて、よこ、高さ、そして「誰が」という次元

 スピノールの回転が次元観察子ψ5とψ6の等化運動を意味しているのならば、次に問題となるのは、4次元空間上に生まれるこのスピノールの回転の位相(角度)とは何を意味しているのかということです。スビノールが4次元空間上で回転しているとすれば、それこそ回転のどの位相にもスピノールが巡ってこなくてはならないわけですから、スピノールが円形状にグルッと無数並べるような自由度が必要となってきます。そして、その中でわずか0.1度でも回転させたこのスピノールは、一つの位相のスピノールが自己の知覚球体を綜合したものだというのであれば、自己から見たものとはまた違う知覚球体を綜合させている必要があります。こういう状況をセッティングするためには、下図1のように一つの対象を取り巻いている無数の主体というシチュエーションを設定する以外、方法はないように思えます。
 
49_1
 
 つまり、彼の視線、彼女の視線、誰々の視線というように、視線が各々の主体の一人称を反映させたものであるならば、その視線自体がスピノール的意味合いを帯びたものになっているのではないかということです。このとき、この対象を見つめている周囲の無数の主体(知覚球体)は、4次元空間ではそれぞれが一つのスピノールとなって、対象の内部空間を下図2のように埋め尽くしていることになります。
 
49_2


 このとき、対象を取り巻いている無数の観測者には、その各々の位置で認識されている知覚球体がおそらく存在していることでしょう。二人の観測者が同じ位置を占めるのは不可能ですからそれぞれの知覚球体にはどれとして同じものはありません。この差異がそれぞれの観測者の単独性を保証していることになります。そして、この単独性が4次元空間では、対象の内部性を形成しているスピノールの各位相に対応してくるのではないかと考えるわけです。僕はこうした描像から、空間の第4番目の次元とは「who――だれが」を決定する次元だと『人神/アドバンストエディション』で書きました。ですから、ヌーソロジーが解釈する4次元空間とは、タテ、ヨコ、高さ、という従来の3つの次元に「誰が」という自由度の次元を加えたものになります。

 さて、こうした回転が何を行なっているかはかなりイメージしやすいのではないでしょうか。それは人間の意識における現れの部分では、一つの対象(背景面も含む)に対する様々な観測者の視線の綜合に対応してくることになります。実際、そのような回転が皆さんの意識の中でもごく普通に起こっているのが分かるはずです。一つのモノを取り巻いて、その周囲から次々にその対象の違った側面を眺めているような意識の運動です。もちろん、このとき「わたし」の視野の中に他者の視野に見えている像が直接リアルに入り込んでくるわけではありませんが、意識には対象を様々な角度から同時に見ているような力が想像力として働いています。言い換えれば、わたしの意識に対象が立体的事物であるという認識が成立しているウラには、このような「もし、彼、彼女、彼ら、彼女らがいるあのそれぞれの位置から見ればこの対象はおそらくこれこれこのように見えるに違いない」という可能的現実が意識に作用しているからです。この可能的現実の存在はとても重要なものです。なぜなら、もしそのような可能的現実への探知能力が意識に備わっていなければ、主体にとって世界は全く断片的なバラバラの平面像の連続としてしか映らないと思われるからです。立体の正面像がわたしの視野に「図」として浮かび上がっているとき、他の見えない側面の像の一群は「地」として潜在化しています。しかし、その見えない潜在化した像を存在としてウラで支えているのは、まさに他者の知覚野とその知覚野に対してわたしの意識が感じ取っている可能的現実なのです。つまり、他者とは客体世界が成立するための絶対条件となっているわけです。こうした他者は普段僕らが気軽に「あなた」と呼んでいるものとも違いますし、また、別の「わたし」としての他者でもありません。なぜなら、客体を形作るために必要不可欠な他者なわけですから、これは「わたし」の一部を為している他者と言ってよいものです。

 主体はこのように可能的現実としての他者の絶対的前を包含することによって主体の意識を拡張し、その拡張を支えているのがスピノールの回転ではないのか、というのがヌーソロジーの考え方です。つまり、スピノールの回転は人間の意識に3次元的な客体概念の場を形成させる働きを持たせている精神作用の現れでなかろうかということです。

 一つの事物に対するこうした多視点からの同時的知覚の張り合わせ状態は、『光の箱船』にも書いたように20世紀初頭にピカソやブラックが分析的キュビスムで用いた手法です。その意味で言えば、キュビストたちはスビノールの回転の次元に自身の眼差しを置き絵画制作に勤しんでいたと言えるのかもしれません。このキュビスム的感覚は現代では「バレットタイム」というデジタル技法によってよりリアルな映像表現として映画やCMクリップなど身近なところに氾濫しています。これについては以前、『マトリックスに未来はあるか』というタイトルでエッセイにまとめていますので、興味がある方はそちらを読んでみて下さい。
 
→→マトリックスに未来はあるか

 さて、今までの説明はあくまでもスピノールの回転が人間の意識にどのような働きとして現れてくるのかということに関する説明です。しかし、ヌーソロジーからの真の問題提起とは、スピノール自体が実は真の主体そのもの姿であるということにあります。ということは、スピノールの回転している次元とは無数の主体が集合した高次の精神の場だということになってきます。となれば、もはや次のような言い回しをしても皆さんに怪訝な顔はされないと思うのですが、いかがでしょう。

 4次元知覚を獲得した者にはモノは3次元球体ではなく3次元球面として見えてくる。そして、そのときのモノとはもはや客体というよりも、個体性を脱したトランスパーソナル的主体の姿と言っていいものである――。
 
493

 
 3次元球体に重なって存在させられている3次元球面という観念のカタチ。4次元知覚の獲得によってモノがこうした形象として見えてきたとすれば、もう皆さんの認識力は物質と意識の垣根を超えた領域に侵入を開始していると言ってもいいでしょう。過去の神秘家や哲学者たちが直観や深い思索の果てに垣間見た「見ているものと見られているものとが一致する主客一体の空間領域」を来るべき進化に向けてヌース(旋回的知性)の働きが逆探知させてきているのです。近代以降、主客二元感覚を頑なに遵守してきた人間の意識がモノ自体との邂逅を求め始めていると言ってもいいかもしれません。物質の内部へとその内側から意識を侵入させ、神の思考を辿って創造のルートを想起していくこと——4次元知覚とはまさにそのエントランスに相当するものなのです。

――つづく 


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2008/11/07

時間と別れるための50の方法(48)

 ●双子のスピノール

 (47)からの続き→
 さて、もう一度スピノールの描像を順序立てて整理しておきましょう。

1、知覚球体は「わたし」の身体を中心とする3軸回転のうちの2軸での回転によって構成されている。
2、この回転によって構成される知覚球面を「面点変換」という概念操作によって「点」と見なし、知覚球体そのものを4次元方向の線分として解釈する。
3、このとき、この線分は観測者自身の絶対的「前」という方向を意味することになる。
4、絶対的「前」は奥行き方向の一点同一視によって潰されているので、知覚球体は4次元方向の微小長さを持つ一本の線分によって束ねられていると考えられる。
5、この線分を軸とする回転は絶対的「前」であるところの知覚正面そのものの回転となる。
6、このときの回転軸に当たるものがスピノールだと考えられる。
7、よってスピノールは次元観察子ψ5と等価なものと考えられる。

 この描像に沿ってスビノールと通常の空間認識の関係を描写すると下図1のような関係になります。
 
48_1
 
 図を用いた説明では、どうしても客観的な図式になってしまうので少し分かりにくいかもしれませんが、この図に上の説明の描像を当てはめると、観測者にとって奥行き方向はつねに一点で同一視されているので、スピノールは観測者が時空上に観察するあらゆる点状の球体の半径部分にこの図に示したようなかたちで入り込んでくることになります。

 図1では点状の球体を故意に大きな球体として描いています。これは次元観察子ψ1~ψ2の説明にあったように、ヌーソロジーでは点概念とモノ概念(球体概念)を「点球」というヌーソロジー特有の概念で一括りにし、同じものとして考えるからです。点と球体が同じものと聞くと、皆さんは怪訝に思うかもしれません。一般的には点はゼロ次元で球体は3次元とされているからです。しかし、4次元空間の世界はもはや時間が存在していない永遠の場所なわけですから、そこでの対象は実際のモノのかたちというよりもむしろ「観念のカタチ」だと考えられます。

 観念のカタチとは、真の形相とも言っていいものです。たとえば現象世界には完全な円というものは存在しません。しかし、人間の意識はそれを観念として感じ取ることができています。球体の場合は3次元という性格上、その形を知覚に出現させるのは不可能です。「このボールは球体である」と思ったとしても実際に球体という形は目には見えませんし、手で触ったとしても球体という視像が視覚に出現してくるわけではありません。純粋なカタチの世界はプラトンが言うように、観念世界の彼方にその起源も不明なままただ存在しています。こうした「観念のカタチ」という意味においては、点も球体もさほど違いがありません。実際、僕らが3次元空間上に点を打つためには、そこに小さな丸い仁丹のような粒を措定する以外方法はありません。その意味で言えば、むしろ、幅も厚みも高さも持たず、ただ位置だけを持つ、といった従来のユークリッド的な点概念の方が不完全で曖昧な概念なのです。

 ヌーソロジーでは以上のような理由からモノとしての球体の内部を3次元空間の範疇とは見なしません。3次元空間というのはあくまでもモノの外部に広がる空間に対応します。こうした区別を持ち込むのはモノの内部と外部の間に絶対的な差異(次元的な差異)が存在していると考えるからですが、これは物理学的に言えば、今のところスカラー空間かベクトル空間かの違いに対応しているのではないかと考えています。

 ヌーソロジーが考える3次元(ベクトル)空間とはあくまでもモノの外部、モノからその外側に広がっているように感覚化されている空間のことです(この領域は以前説明したように観察子でいうとψ3~ψ4に当たります)。このことは観測者(モノの背景面)の存在があってこそ初めて空間に方向が与えられるということを意味しています。空間に方向を与えている力の本質とは観測者の意識の存在だということです。このへんは説明が長引くので、また、別の機会に詳しく説明していきましょう。

 さて、話をスピノールに戻します。ここでモノを挟んで「わたし」と対峙し合う「あなた」という別の主体の存在を想定してみることにします。すると、「あなた」を取り巻いている知覚球体もおそらく「わたし」の知覚球体が一つのスピノールφによってまとめられたように、原点Oを挟んで逆方向を向いたスピノールφ*として活動していることが予想されます(下図2参照)。
 
48_2
 
 このスピノールφ*は「わたし」側からしてみれば、わたしが「前」を見ているときに常にその前を背後で支えている「後」の集合、つまり観測者にとっての絶対的「後」に当たるものですから、今までの話の流れからすればこれは次元観察子ψ5の反映としてのψ6に相当してきます。当然。「あなた」側から見れば、これらψ5とψ6の関係はψ*6とψ*5の関係になっており、この二つのスピノールは言うまでもなくキアスム(交差配列)の関係を形作っています。つまり、「あなた」と「わたし」の関係においては、等化作用と中和作用の関係が正反対になっていて、どちらも3次元における無限遠点にその主体本来の位置を持ってはいるのですが、それぞれの位置はS(+∞、-∞)とS*(-∞、+∞)として互いに表裏を逆にした関係を形作っているわけです。

 このSとS*の位置関係は、4次元空間においては原点Oを挟んで対称的な位置関係を持っていますが、3次元空間では区別する術がありません。以前に挙げたメビウスの帯で喩えれば、ちょうど一周して辿り着くウラの世界だと思って下さい。3次元空間の球面上にはこのような捻れが存在していないので、SとS*はリング上の同じ位置にしか見えないわけです。このような捻れを実際の空間認識でどのように描像すればいいかというと、おおよそ次のようなイメージになると思われます。

 たとえば、皆さんは、普段、モノが目の前にあるとき、その手前に自分がいると考えているはずです。そして、その位置はモノの位置を原点Oとすれば、3次元上のある一点として表せると思っていることでしょう。もちろん、それは3次元認識の範疇では間違いではありません。しかし、そうやって指定された「わたし」の位置は、客観的に外部から自分を見たときの物質的肉体としてのわたしの位置であって、今までお話してきたように持続を持った実際の観察の現場としての「わたし」の位置ではありません。

 この「持続を持った観察の現場としてのわたし」の位置を指定する空間が4次元だと考えて下さい。その位置は3次元認識では肉体の位置のように感覚化されていますが、本来は4次元方向に位置しているので、3次元空間上では無限遠点Sとしか言いようのない場所になり、それはまた光速度の世界であるがゆえに無限小の長さの中に入り込んできます。そして、モノを挟んでそこで向かい合って対峙している「持続を持った観察の現場としてのあなた」も当然のことながら4次元空間上の位置S*を持って無限小の領域の中で対峙していることでしょう。

 4次元空間で対峙するこうしたスピノールを次元観察子ψ5とψ6に対応させると、スピノールの回転はこれら両者を等化している運動ではないのかという推測が立ってきます。ψ5とψ6の等化はヌーソロジーでは次元観察子ψ7の領域への意識の侵入を意味しますが、これは自己の意識場と他者の意識場を入れ替えても何の影響も受けない、つまり、自他間の変換対称性を持つ空間の生成運動の次元になってきます。平たい言い方をすれば、スピノールが回転している次元は「わたし」と「あなた」の区別がなくなった空間を作り出しているわけです。次回はその詳細について書いてみます――つづく

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2008/11/04

BETWEEN TIDES(ビットウィーン・タイズ)

Between001
 

 マヤ暦関連の書籍を数冊出している高橋徹氏との対談の企画が決定した。主催者の意向でなるべく少人数でやりたいということで、小田急線の狛江駅のそばにある泉の森会館という小さなホールが会場に選ばれた。日時は12月20日の土曜日、午後6時半から9時半まで。3時間の長丁場だ。高橋氏とお会いするのは実に5年ぶりぐらいだろうか。きっとスリリングなイベントになるに違いない。今から楽しみでならない。

 イベントの詳細を知りたい方はこちらのベージへ→http://www.point0.jp/symmetry/exhibition.html

 高橋氏との初めての邂逅は確か1992年だった。そのときの様子は『2013 : 人類が神を見る日』に詳しく書いたが、当時の僕にとってこの邂逅は実に鮮烈な体験だった。ニューサイエンス系の知識一辺倒だったその頃の僕に、ブラバツキーやシュタイナー、さらにはグルジェフなど、20世紀思想の地下水脈とも呼べる世界の存在を教えてくれたのが彼だったからだ。

 当時、高橋氏の研究はマヤ暦(ツォルキン)を中心としたものだったが、マヤ暦が巷でブームとなるにつれ、本人自身、マヤ関連の動きからは身を引いていったようだ。その当時,いつも「マヤ暦のメッセンジャーとしての高橋徹という肩書きは持ちたくない」と話していたっけ。彼のオリジナル研究は大陽系の各惑星周期と人間の無意識構造の発展に潜む関係性を調べることにあった。占星学に言うように、人間の無意識構造と大陽系構造の関係をまずは自明のものとし、さらにそこに、公転や会合などの惑星周期と歴史的無意識の進展関係を時間的な比率の観点に立って構造的に明らかにしようとする野心的研究だ。彼の研究が現在どこまで進んでいるのかは僕は詳しく知らないが、当時でさえかなり精緻な理論構築に驚かされたものだ。今はおそらく常人の想像力が及ばないところにまで進んでいることだろう。

 あれから20年近くの月日が流れたが、彼の思考空間にヌーソロジーの入射角からアクセスできるかどうかはまだ不明だ。素粒子空間と大陽系空間の連結のルートがまだよく見えてこないからだ。ヌーソロジーの思考が大陽系空間に出て行くためには、身体空間の射程をまずは明確に捉える必要があると考えている。身体と大地は単なる物質的なエネルギー循環だけではなく、意識的にも分ち難く結びついており、その大地が一つの球体として出現している場所が大陽系空間なのである。実存的地球とでも言えばいいのだろうか、人類全体が意識している身体空間の在り処を僕らは深く掘り下げて思考する必要がある。回転が精神の象徴であるならば、大陽系とは人類全体の身体空間の奥にさらなる深みを持つ惑星的身体が具備している精神の表現の場として出現してくるはずである。

 その意味から言えば、現在の科学的な大陽系観は矮小極まりないものに堕している。コペルニクスの地動説以降、科学の目は常に世界視線となって地上を俯瞰するものとなってしまった。この世界視線が持った眼差しは、普遍視線(地上での人間が持つ等身大の視線)の中に育まれた人間の内在野での生活をことごとく隠蔽し、ごく表層的にしか事象を捉えることができていない。物質は常にその外皮に置いて分析され、物質の内的生活など存在しないと言わんばかりに、ただただ物理化学的知識のもとに記号の帝国を作り上げているだけだ。この記号の多様性は確かに饒舌だが、いかんせん概念がない。機械的な思考だけがまるでスケートリンクの上を滑る石ころのように単純な軌跡を描いて反復しているだけだ。そんなつるっ禿のような空間に大陽系を浮かべて分析したところで、大陽系はその深み方向にある本質を決して露にすることはないだろう。

 内在野に存在するn次元多様体として大陽系を捉えること。精神に内在する差異の連動系として諸惑星の回転を捉えること。これは身体空間の延長に地球空間や月空間を感じ取り、そこに生まれてくる身体的意義を通して、諸惑星の調和的運動を思考していくことに他ならない。満月や新月とは何なのか。白道とは黄道とは?そして、太陽はなぜ核融合の場となっているのか——etc。

 こうした問題まで語り合えるかどうかは分らないが、空間を思考することと時間を思考することの対称性が垣間見える場所が作れれば、まさに「BETWEEN TIDES」というタイトルにふさわしいイベントになるだろう。ぶっ飛ばしまっせ!!


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