2009/07/08

空間を哲学する——対話編その4

●男と男、女と女、そして男と女

藤本 なるほど、つまり感性=前が感じている時間というのは別に過去から現在というようにしっかりと秩序立てられて並んでいるわけじゃなく、今・現在の中にアーティストが作り出すコラージュのように順不同で一緒に重なり合っているようなもので、それを一週間前だとか一年前だとかを目盛りがついた物差しのようなイメージに沿って判断しているのは悟性=後が作り出している時間だということなんですね。

半田 後そのものが悟性というわけじゃないけど、ベルクソンが言うような「空間化した時間の場所」はおそらく後にあると言えるだろうね。その意味で感性の時間における「今」と悟性の時間における「今」というのは全く別な意味を帯びてくるんだよね。つまり、両者には絶対的な差異があるってことなんだけど。感性の時間における「今」というのはすべての過去を含んだ生きる現在そのもののことを言い、それは極端な話、ニューエイジがいう永遠の今と言い換えてもいいような今なんだよね。でも、悟性における「今」というのはそれこそ物理学でいう点時刻のように一瞬に過ぎ去ってしまう「今この瞬間」のことで、それは数量化されている時間の素のようなものでもあるよね。時間はこの二つの「今」があるからこそ時間として成り立っているのであって、物理的な視点だけで時間のことを考えてもほとんど意味をなさないと考えた方がいいんじゃないかな。

藤本 それら二つの時間もまた、身体における「前」と「後」の関係にある考えていいのですか?

半田 うん。ヌーソロジーの観点では互いに反転した4次元の関係にあるものと見なせるからそういうことになるね。「時間と別れるための50の方法」にも書いたように、4次元空間と4次元時空の関係にある。哲学的には持続と延長、内在と外在という言い方ができると思うよ。

藤本 4次元空間が持続で、4次元時空が延長ということですね。

半田 そうだね。ベルクソンと表現は逆になっちゃうけど考え方は同じだ。

藤本 う~ん、なるほど、「前」が4次元空間で僕らが内在と呼んでいるところ、つまり主体の世界。「後」が4次元時空で僕らが外在と呼んでいるところ、つまり客体の世界ということですね。

半田 まとめて言うとそういうことだね。

藤本 ヌーソロジーが身体の前と後をどう見るかということは何となく分かってきたんですが、となると、自己と他者の間ではこれら両者の関係も相互に反転した関係になっているということですか?

半田 そうだね。恐ろしいくらいに見事にひっくり返されていると言えるんじゃなかろうか。

藤本 でも、それだと話が少しおかしくなりはしませんか?

半田 どうして?

藤本 さっきの続きになりますが、たとえばここにある灰皿は、今、半田さんと僕の間で互いに共通して外在世界にある客体と見なされていますよね。

半田 そうだね。僕も藤本さんも外の世界にあるものとして見ているね。

藤本 ということは僕の外在認識が別に半田さんの内在認識にはなっているわけではないですよね。

半田 うん、なっていないね。

藤本 それはなぜなんでしょ?

半田 いいところをついてきたね。これでようやく例のアリストファネスの寓話に隠されている意味についてヌーソロジーの視点から話すことができるかな。。再度、おさらいしておくよ。あの寓話の中では、人間は太古の昔、背中同士がくっつき合った生き物だったとあったよね。これはあくまでもヌーソロジーからの解釈になるけど、この話は決して人間の物質的肉体がシャム双生児のようにくっつき合っていたという意味じゃないんだ。霊的な身体の問題を言ってると思ってほしい。

藤本 霊的な身体?

半田 うん。さっきから僕が身体空間と言っている身体における前後、左右、上下という空間のことさ。背中同士のくっ付き合いということは、特に自他の身体空間における前後を問題としていると思ってほしい。

藤本 太陽が男・男の背中合わせ、地球が女・女の背中合わせ、月は男・女の背中合わせというやつですね。

半田 うん。とにかく話を分かり易くするために図を書いて説明してみよう。

藤本 お願いします。
 
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半田 まず、今、僕と藤本さんがモノを挟んでこうして向かい合っているとしよう。青い矢印が僕の「前」と藤本さんの「前*」を表し、赤い矢印が僕の「後」と藤本さんの「後*」を表している。僕と藤本さん、それぞれの前と後はこの図のように互いに重なり合って存在させられていることが分かるよね。

藤本 はい、確かにこの図のような関係になっていますね。

半田 さて、さっきも言ったように前は現実として"見えている"ものであり、そして、その奥行き方向は完全に潰されているので、視野空間上においては長さ無限小にまで縮められてモノの中心点と重なって同じものに見えているはずだよね。

藤本 視野空間は面としてしか見えていないからそういうことになりますね。

半田 そして、このとき気をつけなくちゃならないのは、この無限小にまで縮められた「前」はもう3次元空間(x,y,z)の中のz方向としての奥行きではなく、それは時間でもあるのだから4次元としての方向を持っているということなんだ。

藤本 分かります。モノだけの世界ならばモノからの空間の広がりは3次元と見ていいけど、そこに観測者、つまり見ることが関与していると、その見るという出来事が起こっている空間は4次元になっているということですね。

半田 おお、優秀!!ヌーソロジーの言ってることが呑み込めてきたね。

藤本 半田さんの分身ですから(笑)。

半田 するとどうなる?この4次元方向は3次元空間の中で見るとモノの中心である0点付近にごくごく短い4次元の矢印として入り込んでいるということにならないかい。

藤本 3次元の中に映し出されるのであればそういうことになりますね。

半田 だろ。で、ちょっと信じ難いかもしれないけど、さっきも言ったようにこの潰れた奥行きの中には一秒前のモノ、一時間前のモノ、一週間前のモノというように、それこそモノの認識を支えている記憶の連なりがイマージュとして入り込んでいる。つまり持続の場所になっているわけだ。

藤本 モノの背景にある空間の方向のすべてが縮まって全部入り込んでいるということですね。。。

半田 うん、奥行きが射影として潰れているということだから、アバウトに言えばそうだ。ヌーソロジーのいう精神の位置だよ。そして、こうした精神が僕側だけではなく、当然、藤本さんの前である前*側にも存在している。だから、藤本さんの精神*も今度は、僕の精神が入り込んでいる方向とは逆方向から同じく極めて短い矢印としてモノの中に入り込んでいるってことになる。

藤本 モノの中心点を中央にして、長さがほとんどゼロに等しいお互い逆方向の矢印として入り込んでいるというわけですね。

半田 だね。これら二つの矢印を図として表すとこんな感じになる。
 
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藤本 あれぇ〜、僕と半田さんそれぞれの前が身体ではなくモノの中心から始まってます。これはどうしてですか?

半田 「前」が主体であるということが分かるとモノの手前に存在していると思っていた身体の位置がモノの中心点にあるように感じてくるからだよ。

藤本 身体がモノの中心点にあるように感じてくる………?

半田 うん。普通、僕らは自分の身体が見えているモノの手前側にあると思っているよね。でも、これは人間の内面の意識によって把握されている身体の位置だと考えるといい。つまり、いついつの何時何分には身体はどこどこの位置にありました、っていうときの物質としての身体の位置だ。これはあたかもモノのようにして捉えられている身体だから、他者から見た自分の身体、つまり、鏡像空間に存在している鏡像的身体だってことになるよね。いつも言ってるよね。自分の顔、もしくは目玉は自分じゃ決して見ることができない。なのに僕らは他者の目に映っている自分の顔や目を想像して、それらをあたかも見えるものとして認識してしまっている。そのようにして認識された身体の位置がモノの手前にいると感じられている自分だってことなんだ。でもほんとうの主体(実像)は今までずっと説明してきたように「前」そのもののとして存在している。前はモノの中心と重なっているだろ。だから、生きられる空間に位置しているほんとうの身体というのはモノの中心に位置していると考えるべきなんだ。

藤本 それってもう肉体ではないってことですよね。

半田 うん、物質的な肉体じゃない。そこに記憶が入り込んでいるならば精神そのものと考えるべきだ。

藤本 ということは、ヌーソロジーのいう精神とはモノの中にあるってことなんですか?

半田 3次元的な表現ではそうなるね。モノの中に微小な4次元となって息づいている。つまり、僕の精神と藤本さんの精神*は背中合わせでくっつきあっていて、モノの中でこの図に示したような二本の青い矢印として存在しているってことなんだ。青い矢印は精神=男なるものを表しているから、この様子がつまり、男・男が背中合わせになっている状態だということになる。

藤本 それが太陽の子ってことですか?

半田 そうだね。モノの中に入り込んでいる精神の対化が等化されている状態だ。物質を作っている本質的な力のことさ。具体的な説明はここではできないけど、この男・男の一体化(等化)はいずれヌーソロジーの中では太陽の中で起こっている核融合の本質力として語られて行くことになるんだ。

藤本 核融合。。

半田 OCOTも言ってたろ。なぜ、太陽は燃えているのか?って。

藤本 『人神』の内容ですね。

半田 うん。太陽が燃えている理由を一言でいうと、それは創造の精神が人間に物質という概念を与えるため、と言えるだろうね。客観的世界に物質が存在する。。そうした概念はどうやら太陽の核融合が原因になっているようなんだ。いや、逆かな?人間が客観的物質概念を意識に形作っていることが太陽の核融合を起こしていると言っていいのかもしれない。。

藤本 それって、つまり、人間型ゲシュタルトそのものの力ってことじゃないですか。何でですか?理由が知りたいなぁ。。

半田 一言じゃ語り尽くせない。興味があるなら、これから先もじっくりとヌーソロジーを追っかけるといいよ。詳細に説明していくことになると思うから。

藤本 ん〜、楽しみだなぁ。分かりました。じゃあっと話を戻しますね。。反対に僕の後*と半田さんの後が結合しているものは何になるんですか?

半田 赤い矢印同士の結合かい?それが僕と藤本さんが共通認識として持っている時空のことだね。つまり、物理的客観世界の広がりのこと。これが女・女が背中合わせになった地球の子って意味だろうね。とりあえずこれも分かり易くするために図で示しておくことにするね。 
 
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藤本 あれっ、この図でも後がモノの中心点から始まってるなぁ。

半田 そうだね。人間の外面が見えてくると、モノの手前側と認識されている方向はすべて人間の内面、つまり後と見なされてくるようになるってことだよ。

藤本 ははぁ〜ん、それってつまり、モノ側から自分の方向に向かってくる矢印の方向だから、自分にとっては背後方向として見なされるってことですね。

半田 うん、しょうゆうこと。方向性が問題なんだね。

藤本 ということは、僕と半田さんの前同士がくっついたものは物質になっていて、後ろ同士がくっついたものが時空になっているってことですかね。

半田 正確に言うとちょっと違うんだけど、今はそう考えていいよ。男・男*結合と女・女*結合が物質と空間という二元性として現れているってことだね。

藤本 そうか。。二元性というのは男と女のことをいうのではなくて、男・男と女・女のことを言うんだ。

半田 うん、初めにもいったよね。宇宙を流動している力の性関係はよく言われているように陰と陽の二種類だけじゃないって。それらは「わたし」と「あなた」の関係と同じように互いに反照し合っていて、陰と陽、陽*と陰*という四値的な関係でできているんだ。つまり、陰陽が互いに捻れの関係にあるってことだね。だから、意識の構造について考えるときは必ずこの捻れを念頭において考えなくちゃいけない。

藤本 二元論という考え方そのものが二元論からは決して抜け出せない構造になっているということなんですね。

半田 二元論的な思考や弁証法的な思考の中には他者がいないということさ。だから、二元論者たちは自他さえも「二元」の関係で捉えてしまうことになる。自他は二元ではなくて、四元でしか語れないはずなのにね。

藤本 じゃあ、男・男*、女・女*ときたわけだから、男・女にも男・女、男*・女*というような二つの種類があるということですよね?

半田 そうだね。その働きを持ったところが月だと考えるといいよ。アンドロギュノス的存在の意味だね。この月の力が女・女である時空(=地球)と男・男である精神(太陽)の間を天使的な力として行き交っている。OCOT情報にもあったよね。「月は自己と他者の間を行った来たりしています。」って。つまり、月というのは人間が精神の方向を持たされている状態の象徴なんだ。これが無意識と呼ばれているものだ。だから、人間の外面と内面を持ち合わせている。言い換えれば、肉体そのもののことだね。精神が宿った物質。。

藤本 ということは、太陽が精神、地球が時空。その地球に太陽が映し出されると物質になっていて、地球から太陽、太陽から地球の往復路に月が働いているってことなんですね。

半田 キリスト教的に父と子と聖霊の三位一体と言いたいところだけど、これでは女なるものが抹殺されている。正確には父と母と子の三位一体とすべきなのにね。ここにキリスト教の欺瞞があると思うよ。イエスは単なる子ではなく聖霊としての子だと考えると、処女懐胎なんて話には絶対ならないからね。でも、人間世界が母になってしまうと、神にとっては非常に都合が悪い。なぜなら、神を生んだのは実は人間ってことになるからね。だから、隠蔽のために子を産める万能の父が必要だった。「われらがすべて神の子なり」とする万能の父がね。キリスト教だけじゃなく宗教は物質世界を見下し精神主義に貫かれているという意味で、すべて父権的なんだよ。これじゃだめだ。ほんとうのことが見えてこない。ほんとうのことが見えてくるためには、精神なる父と時空なる母が対等な存在として現象の中で向かい合わなくちゃならないんだ。

藤本 物質もまた重要だということですね。

半田 そう、精神と物質を対等なものとして見れる思考が必要だということさ。それによって、物質はそこから放たれる光の中に新しい精神を宿すことができる。。

藤本 ほんとうの子としての聖霊だ。。

半田 月の目覚めだね。妊娠だ。言葉がカタチになること。。月の中に次代の太陽となるべく新しい精神の子が生み出されてくるってことさ。そのとき、僕らは大いばりで言っていいと思うよ。僕らがすべてイエスなんだって。

藤本 わあ〜、なんかすごい話になってきたなぁ。何だかヌーソロジーは宗教を哲学や科学によって証明する作業のようにも思えてきました。アリストファネスの話にしても単なる神話的なおとぎ話じゃなくて、宇宙的な摂理を分かり易く喩えたものだということかもしれないですね。太古の人たちは今、半田さんが言ったような物質と精神の関係を知ってたんだ。きっと。。

半田 ヌーソロジーの考え方で言えば、当然そういうことになるね。人間は時が経てば経つほど宇宙的な真理から疎外されていく。でも、その疎外は単なる忘却ではなく、新しい想起(アナムネーシス)のための忘却だと考えるといいよ。宇宙は忘却の果てに必ず想起に向けて方向転換する運命にある。宇宙の意思の展進がそうさせるんだ。この発進によって人間は人間の内面に張り巡らされたあらゆる価値のネットワークの転換をはかり、そこにイデアを見出し新しい宇宙の創造を始めるビジョンを持つってことなんだけどね。

藤本 ヌーソロジーが語るアセンションですね。

半田 そう。今は月の中に眠ってて見えないけど、無意識を構成する高次元の存在物を知性の対象として把握することが可能になるってくるってことだ。そういう時代が今から確実にやってくる。だって、僕みたいなパンピーがこんなことを言っているのも、その兆候だと思わないかい(笑)。

——おわり

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2009/07/06

久々のレクチャー

 この5年間レクチャー活動を休止していた。
 理由は会社の状況や私生活等、プライベートな生活環境が何かとガタついていたからだ。とは言え、ヌース自体は牛歩の歩みながらも着々とその内容を密度の濃いものにしていっている(と感じている)。この間、ヌース理論はヌーソロジーと名を変え、より大きな枠組で宇宙や意識について語ることができるようになった。そろそろ再始動に入るか。。という気分だ。2013に向けてスパートせんと。。

 というわけで、とりあえず福岡でレクチャーを開始します。
 
福岡ヌースレクチャー第1回 「トランスフォーマーとは何か」

日時 2009年8月2日(日曜日)
   レクチャー   午後2時〜6時
   2次会(夕食) 午後6時〜9時

場所 ヌースアカデメイアオフィス(株式会社ヌースコーポレーション内)
   住所 〒815-0074 福岡市南区寺塚1丁目26-7
   詳しいアクセス図はこちらへ→http://www.noos.co.jp/contents/04_gaiyou.html
   
料金 レクチャーのみ 3.000円
   2次会会費    2.000円

準備の都合もありますので、
参加希望者はメールか電話にて下記のところまでお申し込み下さい。

mail ヌースアカデメイアサイト→
http://noos-academeia.com/のJapanese→contactをクリックするとメールアドレスが出てきます。
Tel  092-402-6999

お申し込みの締め切り期限は7月31日までとなっております。
尚、定員になり次第閉め切らせていただきます。

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2009/07/03

空間を哲学する——対話編その3

●記憶が存在する場所

半田 視覚的にはモノの存在は常に前において確認されているのだけれど、問題はモノが目の前に見える、モノが目の前にある、というのはどういうことかを考えなくちゃならない。

藤本 はっ?一体何を言ってるんですか?

半田 モノがあるという認識がどうして意識に可能になっているのかってことだよ。

藤本 それはさっき言われましたよね。言葉じゃないんですか。モノが名を持つことによって認識されているということじゃないんですか?

半田 悟性的にはそうだね。でも、感性的には違う。言葉を知らない赤ん坊でもおそらくモノの存在を直観しているはずだ。その証拠に、母親が笑顔を作ると赤ん坊も笑顔で応えるだろ。そこに何かが存在しているという認識の前提に直観があり、直観が意識に成り立つための最も重要な要素は記憶じゃないかと思うんだ。

藤本 「ある」という認識は記憶がもとになっているということですか………。

半田 うん。知覚自体は言ってみれば現在の切り取りでしかないよね。今、この灰皿を見たとしても1秒前の灰皿はもうそこには存在していない。1分前の灰皿や1時間前の灰皿について言えば尚更だ。それらはいわゆる過去に飛び去ってしまっていて、今、現在、この瞬間にはもうそこにはなくなってしまっている。だから知覚だけでは灰皿が「ある」という持続状態を意識することはできない。つまり、灰皿はあり続けているからあるのであって、この「あり続けている」という認識には当然のことながら知覚されたものが記憶として継続してなくちゃならない。

藤本 なるほど、面白いですね。普通、僕らはモノは自分の意識とは無関係に外の世界にあるものだと思っている。人間がいなくたって外の世界は太古から存在していたに違いないと考えていますよね。このような捉え方だと記憶はモノがあるということに対して従属的な関係を結んでいることになります。とにかく外の世界は人間の意識とは無関係にあり続けていて、そのあり続けている世界を意識で想起したときの知覚が「記憶」と呼ばれている。こういう考え方では、世界があり続けていることと記憶は全く別物になってしまう。でも、ヌーソロジーでは人間が持った記憶自体が「ある」ということを支えている力だと言ってるわけですね。

半田 うん、全くその通りだね。もっともこれはヌーソロジーというよりもベルクソンという哲学者が言っていることなんだけどね。つまり、何が言いたいのかというと、物質が存在しているという認識自体が実は記憶だということなんだ。物質が無条件に外在世界にあって、それを人間が知覚してその記憶を所持しているのではなくて、物質があるという認識が意識に起きていること自体が実は記憶だということなんだよ。いやもっといっちゃうと物質自体が記憶と言ってもいいね。記憶というのは僕らの一般の感覚では内在の働きだよね。だからベルクソンはこうした内在の息がかった物質のことを外にあるとされる従来の物質概念とは区別してイマージュと呼んでいるんだ。だから、ベルクソンにとってみれば宇宙が存在するといったとき、それはイマージュの総体を意味している。

藤本 わぁ、なんかそう聞いただけで、宇宙自体が自分自身みたいな気がしてきますね。世界があるということ自体が一気に自分の内なる広がりのような気分になってきます(笑)。

半田 だね(笑)。ベルクソンのねらいもそこにあったと思うよ。このイマージュという概念は19世紀までの哲学が引きずっていた旧態依然とした主体と客体の二項対立を解消するためのベルクソンなりのキーコンセプトなんだ。

藤本 ん~、確かにそう考えると主体と客体を分離して考えることなんてできなくなりますね。概念にパワーがあるなあ。天才的閃きですね。

半田 うん。すごいよね。

藤本 で、そのベルクソンのいうイマージュというものがヌーソロジーとどう関係してくるのでしょう?

半田 イマージュという概念はそれまで主体サイドの働きと考えられていた記憶という作用を客体サイドの物質に重ね合わせることによって、主体の居所を対象側に移設しようとする試みだと言えるんだけど、ヌーソロジーは単に対象だけではなく対象の背景空間についても考えないと、このベルクソンのいうイマージュという概念に論理的な整合性を持たせることは難しいのではないかと考えてるんだ。実際、ベルクソン哲学のことを神秘主義的だと言って批判する人たちも多くいるしね。

藤本 対象の背景空間についても考える?

半田 そう。つまり、僕がさっきから「前」と呼んでいるやつだね。対象の存在は確かに「前」で確認されている。でも、その「前」は対象だけじゃなく対象の背景空間も含んで初めて「前」と呼べるってことさ。

藤本 半田さんがいつも言ってるモノは図と地の関係によってしか認識できないというゲシュタルト心理学の内容のことですか?

半田 もちろんその意味もあるけど、ここでいうモノの背景空間というのは「前」という方向が持った空間の奥行きについて言ってると思ってほしいんだ。

藤本 奥行き………。

半田 一言で言えば、「奥行きこそがイマージュの源泉である」ってことかな。

藤本 奥行き………がイマージュの源泉?

半田 うん。さっきも言ったように目の前にモノがあるという認識はベルクソンの言い方を借りれば必ず幾ばくかの時間の経過を含んでいるということになるんだけど、この時間の経過を漠然と記憶や持続という言葉で観念的に説明するのではなく、その時間の経過がどこにあるのかを知覚を通して論理的に探索してみると、どうしてもモノの背後にある奥行きの中にあるんじゃないかって思えてしまうんだよね。

藤本 時間の経過がモノの背後としての奥行きにあるってどういうことですか?

半田 藤本さんはアインシュタインの相対性理論に出てくる時空という概念は知っているよね。

藤本 ええ、多少は。時間と空間は別物ではなく4次元の連続体として一体になっているってやつでしょ。

半田 ご名答。僕らはアインシュタインが現れてもう百年以上も経つというのに、空間や時間に対する見方は実際のところ相変わらずニュートン的で、空間は3次元で、それとは別に時間が刻一刻と流れていると考えている。つまり、時空一体として空間や時間を見ることにまだ不慣れなんだよね。しかし、時空としてこの空間の広がりを見れば、それは遠くに行けば行くほど過去になっているということになる。

藤本 ええ、半田さんも『人類が神を見る日』で書かれていましたよね。視覚的な情報は光で運ばれてくるわけですから、遠方から情報が届くまでに時間を要するということですよね。たがら、100万光年彼方に見えるアンドロメダ星雲は今現在のアンドロメダ星雲ではなく100万年前の姿になっている。

半田 そうだね。科学者たちがブルーバックスなんかで一般人向けによくやる説明だよね。しかし、これは極めて重大な内容だと感じないかい。奥行きはそれが深まれば深まるほど過去となっているということ――つまり、このことは人間が前に見ている空間の中には過去から現在に至るまでの一切の時間の流れがぎつしり詰まっているということを言ってるのと同じだよね。

藤本 なるほど。科学者たちの言ってることを真に受ければ確かにそういうことになりますね。

半田 つまり、時空という概念を通して「前」を見た場合、奥行きは単なる空間としての3次元の一部ではなくて4次元になっているということなんだよね。

藤本 時間は4次元ですもんね。

半田 うん。このことは裏を返せば過去は空間的にはどんどん遠ざかっていっているものとして翻訳が可能だということなんだ。僕らの知覚との関係でいえば、たとえば今、目の前に灰皿があるとして、一秒前の灰皿という存在は現在の時点では30万km彼方の奥行きの中に遠ざかっているということになる。昨日の灰皿は同じく一光日(光が1日かかって進む距離)彼方の奥行きの中だ。

藤本 ………つまり、それが記憶だということですね。記憶は奥行きの中に畳み込まれていると。。

半田 そうだね。ベルクソンの考え方とアインシュタインの考え方を繋ぎ合わせるとどうしてもそういう推論が出てきてしまう。モノというのは記憶をも含んでモノとして存在していて、ベルクソンに言わせればその記憶というのは一般にいうような断片的な記憶のことではなく、常に在り続けているという持続感覚のことなんだ。その持続感覚は言い換えれば僕らが感じている時間の流れそのもののことだから、それは前の中に、つまり、奥行きの中にあると考えても論理的には矛盾はないよね。

藤本 なるほど。。だから、前が主体だというわけだ。。

半田 うん。まだまだ不明瞭なところはあるけれど、ヌーソロジーはそういう考え方をしていると思ってくれればいいよ。

藤本 ん〜、前が主体で、後が客体かあ。。ぐるっと体を回したときに、前だけで作られている球空間と後だけで作られている球空間の二つがあるってことなんですね。そして、僕らが普通、外の世界と呼んでいるのが後が集まってできている球空間で、こころの世界と呼んでいるのが前でできている球空間になっていると。。

半田 ああ、大まかにいいうとそれらが順に次元観察子のψ6とψ5と呼んでいるものになるね。

藤本 でも、なぜなんでしょ。そういう仕組みがこの空間にセットされているとしても、なぜ僕らは前を客体世界と感じ、むしろ後側を主体世界と感じているんでしょうかね。それってやっぱりさっき言われた言葉の力のせいでしょうか。言葉が後の空間にバラまかれることによって、その言葉の集まり自体を主体と感じているからなんでしょうか?

半田 そうだね。前が後側に鏡像を作っているんだよ。その意味で言えば、僕らが普段、外の世界と呼んでいるものは鏡の中の世界なのさ。さっきも言ったように想像的なものだよ。

藤本 それも『トランスフォーマー型ゲシュタルトプログラム』に書いてありましたよね。

半田 うん。この際だからしつこく説明しとくね。「わたし」にとっての後の世界というのはさっきも言ったように他者の前に当たる世界だよね。こうして僕と藤本さんが向かい合っているとして、藤本さんには僕の後の世界が見えているはずだ。いや、それだけじゃく、僕の前に見えている様々なモノの背後もおそらく見えているよね。それが僕にとっての「人間の内面」ということになるのだけど、それは何度も言うように僕には実際には見えていないわけだから、藤本さんが前に知覚しているものを僕が認識するためには僕は藤本さんが発する言葉でしか構成するしか方法がない。そして、そのとき同時に藤本さんが前に見ている世界の映像もイマジネーションによってコピーすることになる。つまり、藤本さんの視野空間に僕を含む僕の背後世界がどのように見えているかってね。これは僕にとっては僕の鏡像に等しい。

藤本 ええ。朝起きたとき洗面所に立って鏡を見ると自分の顔だけではなく背後世界も映し出されている。という話ですよね。それは他者の視野空間に映っている自分の像とほとんど同じものだと。

半田 うん。鏡映反転を起こしているわけだ。だから、言葉を他者から聞き取りながら習得して他者が見ている世界を言葉としてコピーし、そのイメージで世界を構成していくというのは、鏡像空間を作っていくことと同じ意味を持っているということになるんだ。

藤本 つまり、僕らが外在世界と呼んでいるものは言葉によって概念として構造化されていて、かつそれは鏡像空間の中に投げ込まれた鏡像的なイメージの集積にすぎないということですね。

半田 おそらくそうだね。だから、本当の主体である前は反転させられてしまって、その鏡像空間の中で自分の顔を主体として感じてしまうことになる。

藤本 半田さんが仮面(ベルソナ)と呼んでいるものですね。

半田 前の面が後の面に反転させられている。そしてそのときの後の面が集約させられたものが顔としての「面」だと考えるといいよ。

藤本 面白いですね。日本語でも英語でも面=顔、face=faceです。こりゃあ偶然の一致じゃないな。ほんとうの主体である前が後になってひっくり返っちゃうんですね。それと同時に前であったものに後が重なり、ほんとうの前は意識から消え去って、客体と呼ばれる世界になってしまう。。主体と客体の反転だ。

半田 ああ、前が無意識の中に沈んじゃうんだよ。フランスの哲学者や文学者たちは神秘思想の影響もあって人間という存在自体を性的な倒錯者だとよく言うんだけど、このひっくり返りもその倒錯の意味と考えていいかもしれないね。ヌーソロジーが4次元の反転と呼んでいるやつさ。おそらく持続としての時間もそのときに普通の時間に化けている。

藤本 普通の時間に化けているってのは?

半田 ベルクソンの言葉でいう「空間化された時間」というやつだね。イマージュとしてモノの背景空間の中に浸透していたはずの時間が鏡像的にヒックリ返されることによって単なる時計的な時間に置き換わってしまうとでもいうのかな。直線上に目盛りを打ったように解釈されてしまう時間のことだよ。

藤本 ?記憶における時間と通常の時計の時間は違うものだということですか?

半田 うん、全く質が違うものだと思うよ。

藤本 どういうふうに違うんでしょ。

半田 その違いを深く理解するにはベルクソンの本(『意識に直接与えられたものについての試論』や『物質と記憶』)を読んでもらうのが一番いいんだけど、ごくごく簡単に言うと、時計の時間は過去、現在、未来がすべて一様で均質的なものでしかないということなんだ。直線を引いて、中央にゼロ時刻を取り、左側に過去、右側に未来をそれぞれ方向づけ、直線上を現在という点時刻が流れて行くってイメージだよね。

藤本 物理学が使う時間軸みたいな考え方のことですね。

半田 うん。でもこれだと時間は単に空間の位置座標のようなものでしかなくなって、実際に僕らが感じ取っている時間とは程遠いものになってしまう。たとえば、現在というのは今、この瞬間のことを言うわけだけど、僕らの実際の生にとっては現在というのは必ず過去や未来を含んでいるよね。現在は過去の集積によって初めて現在となり得ているのだし、また、未来への希望や不安も抱えて初めて現在足り得ている。現在というのはこのように過去と未来の間に挟まれながら、それらを絶えず含んであるものだ。しかし、直線的な時間においては現在というのは、その直線上の単なる点時刻のことでしかない。点時刻の中には当然、その瞬間、刹那しか存在しておらず、過去や未来と有機的なつながりは何一つ持っていない。つまり、点が集まって線を作るという思考と同じで、瞬間瞬間の集まりのようなものとして時間の流れを想定しているわけだ。

藤本 そうですね。今、今、今という今の連続的な連鎖で時間が成り立っていると確かに思っています。

半田 しかし、そんな瞬間、瞬間なんてものは存在していないと考えた方がいいんじゃないかな。大森荘蔵という哲学者がうまい喩えをしていて僕も思わず笑ったんだけど、ハムの切り口をいくら集めたところでハムにはならないってことだね。それと同じで点時刻をいくら集めたところで時間の流れになることはない。それはせいぜい真の時間である持続に対する一つの参照の仕方にすぎず、単に整然と数字のラベルを貼付けて序列化しているだけってこと。ベルクソンが時計の時間のことを空間化された時間と呼ぶのはだいたいそんな内容かな。

藤本 でも、半田さんはさっき、奥行きの中に時間があると言われましたよね。そのときの時間も奥行きが深まれば深まるほど過去で、浅ければ浅いほど現在に近づくってことにはなりませんかね。なんだか空間化した時間のイメージに近い感じがしますけど。

半田 そうだね。奥行きに距離があるのならそうなるよね。でも奥行きに距離なんてないとしたらどうなる?

藤本 ………? 一応、奥行きというからには長さがあるような気がしますが。

半田 それは奥行きではなくて「幅」だと思うよ。奥行きを真横から見たことを想定して幅としてイメージしてしまっているんじゃないかい。僕が奥行きと言っているのは身体における絶対的前方向のことだよ。自分がそれを真横から見ることができるのであれば奥行きは幅に変換されて長さを持つかもしれないけど、こと身体空間においては奥行きはあくまでも奥行きであってそこには長さは存在していないよね。つまり、実際の知覚では奥行きというものは1点で同一視されて潰されてしまっている。だから、その厚みは無限に小さいものだと言わなくちゃならない。

藤本 観察の位置を横に出しちゃいけないということですね。

半田 うん、現段階ではダメだ。それだと身体空間における左右が介入してきてることになる。

藤本 確かに前だけ見る限りではそこにある奥行きの方向は点に潰されていますね。ということは、記憶はその凝縮化された点の中にグチャグチャになって蓄えられているってことですか?

半田 おそらくね。そういう考え方もできるってことだよ。射影として潰されている奥行きの中に圧力のようなものが加わっているかどうかは分からないけど、とにかく点に潰されてしまっている奥行きの中にある時間は数直線上で示される時間のように整然と秩序立てられて並んではいないと思うな。それこそ実際の記憶そのもののが僕らの意識に示す在り方と同じように、それは重なり合ってランダムに蓄えられている感じがする。過去に遡れば遡るほど記憶が薄まるってこともないし、時計的な時間の順序で記憶が整然と並らんでいるってこともないだろ。

藤本 ええ。半年前と一年前の区別は記憶だけじゃ判別できないですね。カレンダーをあてがわないと。。

半田 うん。つまり、僕らの時間の観念というのは、それこそ外面の時間(記憶)と内面の時間(時計、カレンダーでの時間)という形で混淆的に作り出されているんだよ。その二つがあって初めて時間は意識化されている。だけど、僕らはこれら二つの時間の在り方をうまく分離することができず意識の中でごっちゃになっているんだ。それを明確に区別していくことがヌーソロジーが言っている人間の内面と外面の見極め作業のことだと言い換えてもいいかな。

藤本 男の時間と女の時間ですね。時計の時間が男のリビドーによる時間、記憶の時間が女のリビドーにおける時間。二つが合わさって初めて時間が存在している。。

半田 そういうことだね。時間もまた悟性と感性の共同作業によって生まれているものなんだよね。

——つづく

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2009/07/01

空間を哲学する——対話編その2

●「前」と「後」が意味すること

半田 その理由付けを話す前に僕が「前」と「後」と呼んでいる身体が持った方向についてその意味合いを正確に把握してもらう必要があるんだよね。その把握が不十分だと何を言ってるか分からなくなる恐れがあるから。

藤本 そうですよね。半田さんが言ってる「前」とか「後」というのは、体を外部から見たときの前や後のことではなくて、あくまでも身体の内部において自分が感じている「前」と「後」という方向性のことですよね。

半田 そう、身体を不動のものとして見たときの言わば「絶対的前」や「絶対的後」のことを言ってる。だから、後だろうが上だろうが空間のどの方向を向いてもそこは「前」ということになるね。

藤本 ということは、自分の周囲をグルリと見渡せば、そこは全部「前」ってことになって、見えているものが存在しているのはすべて「前」ってことになりますよね。とすると、前以外の後とか、左右とか、上下とかってのは一体どこにあるんでしょう?

半田 それが意識の中ってことじゃないかな。意識の中で重なって存在させられている。意識の中で空間が多重に重なり合って存在していると考えるといいんじゃないかな。その畳み込みの構造がヌーソロジーが無意識の構造と呼んでいるものなんだ。

藤本 つまり、普段、僕らは自分の身体を包んでいる球体状の空間というのは3次元だと考えているけど、ほんとうのところは前だけで構成された球体や、後、左、右、上、下といった各方向それぞれの集合が形作る全く別の球空間が、それこそ身体の回りに重なり合って存在させられているということですか?

半田 実際に今、確認してみるといいよ。そうなっているでしょ。

藤本 確かにそうですね。

半田 今、藤本さんが感覚化している空間は身体空間と呼ぶにふさわしいものだよね。そして、ヌーソロジーではその空間こそが高次元空間の正体ではないかと考えているんだ。

藤本 なるほど。僕らは普通、身体というと、いつも自分の身体を外から見て物質的な肉体として解釈しがちだけど、そうすると身体は単にモノの塊と違いがなくなってしまいますね。でも、身体を今、自分自身がいる場所そのものとして考えると身体は物質的存在というよりも空間の中に溶け込んだ境界のない存在のように感じてきます。そして、その空間はモノが存在しているような空間とは全く違う種類の空間のように感覚化されてこないこともない。。。

半田 うん。ヌーソロジーはそうした未知の空間にアクセスしようとしてると思えばいいよ。それを知性に引っ張り上げてくるとでもいうのかな。そして、それらの空間と自分の意識との関係を明確にすることをとりあえずの目標としている。。

藤本 身体空間ってエヴァでいうATフィールドみたいなやつですかね。その空間に入っちゃうと物理的攻撃がまったく意味を為さないというか(笑)。

半田 物理的攻撃というよりも物理的な思考によって形作られた様々な概念の攻撃は一切通用しないよ、ってことだろうね。身体空間そのものにおいて現象を見つめれるようになった意識はもう3次元世界にはいないってことになるだろうから。

藤本 人間型ゲシュタルトから変換人型ゲシュタルトへの遷移。つまりヌース的幽体離脱ですね?

半田 そうした空間認識の中では少なくとも自分が物質的肉体の中にいるという観念は消滅してしまうだろうから、その意味では魂が肉体を離れたという言い方ができるね。

藤本 身体空間に前-後、左-右、上-下という三つの軸があるとして、半田さんはいつも前-後軸から話を始められるのですが、それは意識にとって前-後という方向が最も基本的な方向だからなのですか?

半田 うん。少なくとも「見える」という視覚に関して言えば、被造物のすべては身体に対してつねに「前」に存在しているよね。だから、そこからじゃないと話自体が始まらない。世界は光とともにありきってことだ。というのも、ヌーソロジーでは古代の伝統的な秘教と同じく光そのものが精神だと考えているからね。その意味で言えば、「後」というのは決して光が入り込むことのできない闇の世界のことでもあり、実のところいかなる存在物も存在していない「無」の場所だということになる。ヌーソロジーではそれを「付帯質」って呼んでいるんだけど。

藤本 ははぁん、付帯質というのは無の意味だったんですか。

半田 精神としての力が存在していないという意味でね。

藤本 ということは、精神が男で、付帯質が女ってことですかね。光とともに精神のすべてがある場所が男で、何もない無の場所が女。こりゃぁ、ますます女性群からブーイングが起こりそうだ。

半田 いや、卑下する意味で無のことを女と言ってるわけじゃない。むしろその逆だよ。無とは言い換えれば創造の原初の場とも言っていいし、そこからすべての精神が生み出され、かつ、それらの精神がそこで物質として表現されるという意味では創造自体を創造をする本源力と言えないこともない。つまり、無は神を創造する場でもあるという考え方もできるということだよ。意識空間全体から見れば、万物が存在者として存在する状態である「有」とは、創造を終えた精神の全体性が創造の始まり以前である無の中に首を突っ込んで、その精神の履歴を物質として見せている状態なんだよね。

藤本 本にも書いてあった「物質世界はタカヒマラ(宇宙精神)の射影である」という内容ですね。

半田 うん。そして、そこから次なる精神への進化の方向性として精神が光を立ち上げていると考えてほしいんだ。われわれ人間が世界を「見る」ということの本質的意味はそこにあるんじゃないかと思ってる。

藤本 人間の女が男を生むように、この女(無)もまた創造者としての新しい精神を生む可能性を人間という存在の中に孕んでいるということですね。

半田 そうだね。より正確に言えば、女が男と女を子供として生むように、この無なる女もまた創造者としての新しい精神と創造を受け取るものとしての新しい無を生み出す可能性の両方を持っているということだね。

藤本 やがて起こる進化が人間の意識を定質と性質の二つに分けるというヌーソロジーの審判の体制!!ですね。

半田 はは、意地が悪いね、藤本さんは。ヌーソロジーはそれほどユダヤ思想的ではないよ。分かれるのはあくまでも自分であって、個体が選別されるわけじゃない。もともと「わたし」というものが二つの意識の流れからできていて、人間には一つの流れしか意識できていない。しかし、もうじきもう一つの意識が目覚て、自分自身を二つに分離するということなんだね。これは裁きでも何でもない。単に一つのものが二つに分離を起こすということさ。

藤本 いゃ、いまだにそうした終末の裁きを信じたがる人たちが大勢いますからね。ヌーソロジーはそうした思想とはきっちりと一線を画したものであることを半田さんに表明してもらうためにも、ここは一発、突っ込みを入れてみました。

半田 おお、さすが藤本さん。僕の分身みたいだね。

藤本 のつもりです(笑)。

半田 さて、さっきから言ってる創造というのは、物質のもととなっている精神の創造のことを言ってるんだけど、「前」というのは文字通り現象世界(phenomenon)が現前(present)する場だよね。理由は分からないけれどもとにかく世界が現象化し、光とともに無数の存在物が僕らの身体の「前」に存在させられている。もちろん僕らはこの由来を露ほども知らない。これらは創造者からの純粋なる贈与として送り出されてきているわけだ。

藤本 ふむふむ。前は神からの贈与だと。

半田 そう。そして、その受取人が実は身体の後だということだ。後が前を受け取っている――つまり、世界がこうして存在しているということは男(神=万有)が女(人間=無)にプレゼントを渡しているようなものとしてイメージしてみようというわけさ。

藤本 ものすごいプレゼントですね。世界そのものを君にあげるよって――か。神ってカッコいいなぁ。で、そのブレゼントの目的は何なのですか?男が女に贈り物をするとすればそこには必ず下心があるはずですよね(笑)。無償の愛なんて言わせませんよ。

半田 そう、ある。やっぱりセックスだと思うよ。存在論的レベルでのね(笑)。

藤本 へっ?存在論的レベルでのセックス?何かすごいエクスタシー感じちゃいますね。

半田 いいかい。後には何もない。おそらく、そこは無底としての深淵だよ。この無の深淵を宇宙的な女性器だと考えてみよう。

藤本 夜は昼よりも深い。そして、女は男よりも深い。ってわけですね。

半田 そう。遥かに深い。遥かにね。たとえ神でもこの深淵には理解が及ばない。

藤本 だからこそ、男はその深淵に首を突っ込みたがる。いったいアソコはどうなってるんだと。。

半田 その通りだね(笑)。この無は「前」である神から彼のイチモツを奥深く挿入されている。神はその無底とも言える場の中に自らの性器を挿入し、そのまぐわいを快楽と感じながら精子をバラまいているんだ。それによって存在と存在者、すなわち現象世界が生まれている。

藤本 現象がこうしてある、ということ自体が存在論的セックス………?

半田 うん。そして、このときバラまかれている精子が実は僕らが言葉と呼んでいるものだと考えてみるのさ。

藤本 言葉が精子?

半田 うん。一般には言葉はコミュニケーションのための記号体系とされているよね。そして、この体系はサルから人間に進化する過程で人間の精神が自然に獲得してきたものだと考えられている。しかしヌーソロジーではそういう考え方は御法度だ。あり得ない。それは人間という存在を物質進化の結果の生成物としてしか見ることのできない科学信仰が作り上げた言語観であって、言葉というものはそんな底の浅いものじゃない。もっと存在全体に根を張った宇宙的な霊力と考えるべきだと思う。宇宙を創造した精神が事実としてどこかに存在している。それがヌーソロジーにおける仮定的前提だ。言葉といものはその精神が歩んだ足跡をあたかも遺伝子のようにして自身の体系のうちに内蔵させている。そして、それは光となって「無底」という名の女の腹の中に流れ込んでいる。そこに生まれているのが言葉ではないかとダイナミックに仮定してみようというわけだ。古代のアレキサンドリア人たちがよく言ってたロゴススペルマティコス(種子としての言葉)というやつさ。初めに言葉ありき。言葉の命は光であった――ていうね。

藤本 ………つまり、前が言葉を精子として後に流し込んでいるということですか?そこに人間が生まれている。。

半田 だね。たとえば生まれたての赤ん坊を想像してみよう。彼、彼女の意識には「前」しかなく、そこにはたぶん後はない。つまり、赤ん坊には無という観念はないんだ。赤ん坊にとってはただあるものだけが見えるものとしてただある。ここでいう「前」というのは純粋知覚の世界だ。その意味で言えば赤ん坊の意識は「前」である宇宙精神と一体化していると言っていい。つまりウロボロス的状態だ。しかし、赤ん坊はそのうち言葉を覚え始める。言葉というものは知っての通り赤ん坊の中に自然発生的に生み出されてくるものじゃないよね。それは親とか兄弟とか近しい他者によって言い伝えられ、教授されていくものだ。そして、当然、彼らは赤ん坊の背後からそれらの言葉を伝えるのではなくて、前から笑顔を以て伝える。ちゅばちゅば、とか、ぶーぶーとかいいながら、哺乳瓶や自動車のオモチャなどのモノを使ってね。つまり、赤ん坊は他者から投げかけられるモノへの眼差しや指差しによって言葉を習得していくんだ。

藤本 そうですね。赤ん坊が母親の視線や指差した方向を辿ってモノを眼差すというのは言葉の獲得にとても大切な条件だと心理学の本で読んだことがあります。でも、どうしてそれが赤ん坊自身の「後」と関係しているのでしょう?母親が指差して名指すものは赤ん坊にとってはやはり前にあるのではないですか?でないと見えないし。

半田 いや、赤ん坊にとっては「母親が名指しているモノは決して見えない」という意味でやはり赤ん坊の後にあると考えなくちゃいけない。

藤本 ?

半田 丁寧に説明するね。こうして僕と藤本さんが向かい合っている。今、真ん中にちょうど灰皿があるよね。僕が藤本さんに向かって「ここに灰皿があるよね。」と言ったとしよう。当然、藤本さんはそれを即座に了解する。しかし、ここで大事なことは僕と藤本さんは決して同じ灰皿を見ているわけじゃないということなんだ。僕が見ている灰皿の面は藤本さんには見えないし、逆もまたしかり。つまり、モノの前と後もまた身体の前と後と同じで、対峙し合う自他の関係においては、見える部分と見えない部分とか反転した関係にあるということなんだ。

藤本 でも、灰皿を回せば、僕が今見ている灰皿の部分は半田さんに見えるようになりますよね。

半田 そうだね。でも、藤本さんに見えていたその灰皿の当の部分は僕の方に回そうとした瞬間に見えなくなってしまう。結局のところ灰皿の全体像を僕と藤本さんが同じものとして同時に見ることは決してできない。たとえグルっと一回転させて互いがそれぞれに灰皿の全体像の記憶をとりまとめたとしてもそれらの全体像は決して3次元世界の中では重なり合うことはできないんだ。

藤本 なぜですか?

半田 さっき言ったように、二人が見ている空間が射影空間のオモテとウラの関係になっているからさ。

藤本 ということは、つまり。。他者によって名指されたものにおいては空間が反転しているってこと?。。

半田 そういうことになるね。射影空間として視像を見た場合、やはり向かい合う自他が見ているモノもそれ自体が反転しているってことだよ。そして、言葉や光ってのはその表裏を自在に反復して行き来している力のようなものなんだ。ということは、僕らが世界を言葉で構成し、その契機が他者からの言葉に依拠しているとすると、赤ん坊が最初に会得した言葉によって構築されていく世界は、他者の前世界が自己の後の空間にコピーされていっている世界ってことになる。つまり、言葉で認識が組み立てられている場所には実際には何もない。。。。

藤本 げっ、何もない無の場所に言葉が次々に投げ込まれていって、そこにある種ヴァーチャルな世界が、目の前に見えている世界を模写するようにして作り出されていっているということですね………ん?でも、それなら僕らはどうして言葉でモノの存在を相互に了解できるんでしょう?

半田 いい点をついてきたね。そのことについてはまた後で納得のいくように説明することになるよ。とにかく、今、考えてほしいのは、言葉の力はないものをあたかもあるもののように錯覚させる力を持っているということなんだ。そして、僕らが言葉によってモノの世界を認識しているということは、この言葉によって構成された世界の方を客体世界、つまり、外の世界だと思い込んでしまっているということなんだ。

藤本 ん~と、今、目の前にモノが見えている。しかし、これが灰皿だ。とか心の中でつぶやいて確認している灰皿自体は、その目の前に見えている灰皿ではなくて、もともとは他者に見えている灰皿で、それは自己にとっては前ではなく後の空間、つまり反転した空間に存在しているってこと。。。。あ~ん、頭がこんがらがってきました。。僕らが外の世界と呼んでいるものは他者にとっての「前」がわたしの「後」へとコピペされたもので、それはすでにわたしの「前」ではなくなっているということですね。じゃあ、「わたし」が今前に見ているものとは、それは外の世界ではないとすれば一体何だというのですか?

半田 俗にいう内側の世界さ。藤本さん自身だよ。いつも言ってるよね。「前」が本当の主体なんだって。つまり、「わたし」という精神自体が息づいているところ、それが「前」の正体なんだよね。

藤本 う~ん。。外の世界というのが言葉によって作り出された空間で、それが後の空間であるというのは何となくですが分かりかけてきました。だけど、前がなんで本当のわたしなんでしょう?泣いたり笑ったり、苦しんだりしているこの「わたし」自身のこころは前に存在しているということになるのですか?

半田 うん。たぶんそうだ。前にある。。。

藤本 どうしてそう言えるのですか?

――つづく

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2009/06/29

空間を哲学する——対話編その1

●男と女が潜む空間
 
藤本 男・男が『太陽の子』で精神、女・女が『地球の子』で物質、そして男・女が『月の子』で意識。これってヌーソロジー的に言ってどのような意味があるんですか?

半田 空間には男性的な性格を持った空間と女性的な性格を持った空間という二つの区分ががあるということだよ。そして、面白いことに空間が持ったこの性差は自己と他者の間では全く逆の構成を取っている。それによって、自己-他者が絡み合った空間では、必然的に、男・男、女・女、男・女、という三種類の力の流れを持った別々の回路が生み出されてくるんだよね。空間に内在しているこうした性差に僕らの意識はまだはっきりと気づいていない。それに気づき出すと、意識というものがこの空間に内在している性差が生み出す差異(力)の流れによって生み出されているものであるということが見えてくるんだ。

藤本 差異の流れ?

半田 違いがあるからその違いを埋めようと力の流れが発生しているってことだね。

藤本 気圧の差によってその間に風が吹くみたいな。。

半田 うん、そうだね。

藤本 確か『シリウス革命』でも書かれていましたね。性愛は必ずしも男・女の間で生まれているものではないって。

半田 もちろんだよ。ホモセクシャルもヘテロセクシャルもどちらもあり得る。宇宙的摂理からすればホモが異常なんてことは決してない。僕はホモじゃないけど、ホモセクシャルな性愛関係は決して否定されるべきものじゃない。

藤本 僕も女大好き派ですけどね。へへ。でも、男・男、女・女といったホモセクシャルな結合というのは何か深い意味があるんですか?

半田 うん、ある。さっきも言ったように、これは宇宙のエネルギー流動が単に(+,−)といった二値的な関係で動いているのではなく、(+,-,+,-)という四値をベースとして動いているために必然的に形作られる性関係なんだよ。具体的にいうと、[男・男]は精神の対化の結合を意味し、それは純粋な理性の世界を形作ってくる。一方、[女・女]は男・男の結合に反映されて付帯的に出現してくる空間でこれが物質世界のことを意味している。ヘテロ結合である[男・女(女・男)]は物質と精神との間を取り結ぶいわば中間の媒介領域としての聖霊が活動する中性領域のようなものだね。アリストファネスが語った「愛の起源」の寓話は、こうしたそれぞれのセクシャリティーの結合の在り方が太陽、地球、月という三つの天体の関係と深いつながりを持っていることを示唆している。

藤本 半田さんの言う空間に内在する性差というのは、ヌーソロジーがいつも内面とか外面とか呼んでいる幾何学的概念のことですか?

半田 うん、そう。簡単に言っちゃうと「人間の内面」というのが女、「人間の外面」というのが男。働きとしては内面が付帯質で、外面が精神だね。さらに付け加えると、外面から内面に向かうのが男のリビドー(欲動)、逆に内面から外面に向かうのが女のリビドー(欲動)だということになるね。

藤本 外面から内面が男のリビドー?内面から外面が女のリビドー?リビドーって?

半田 無意識の流れのようなものと思えばいいよ。無意識はある構造の中を流動している。これは僕がいつも使っているケイブコンパスの図で説明した方が分かり易いだろうね(下図1)。外面から内面というのはケイブコンパスでいう思形(=ψ9)を指し、内面から外面というのは感性(=ψ10)のことを指してる。ブルーの矢印が外面から内面に向かって、反対にレッドの矢印が内面から外面に向かっているでしょ。フロイト流に言えば、ブルーの流れが現実原則で、レッドの流れが快感原則だ。
 
Shikei_kansei
 
藤本 図式だけではよく分からないので、人間の外面と内面を一言で簡単に説明していただけませんか?

半田 内在と外在、もしくは主体世界と客体世界という言い方ができるかな。いずれにしろどちらも意識の在り方の違いによって生まれているものだということ。外在が絶対的な客観世界として存在してそこで意識が生まれているのではなく、外在も意識の在り方の一つにすぎないということだ。

藤本 ということは、上に示されたケイブコンパスの図を参照して言えば、男のリビドーが外在世界の認識の方を作り出し、女のリビドーが内在世界の認識を作り出しているということですか?

半田 そうだね。悟性的なものと感性的もの。思考的なものと感情的なものの関係と言いい変えてもいいよ。神智学-人智学の言葉で言えばメンタル体的なものとアストラル体的なもの関係と言っていいかな。

藤本 男=悟性、女=感性。。何かフェミニストから殴り込みをかけられそうですが。。

半田 はは。美人だったら歓迎します。ユングのアニマとアニムスではないけれど、人間はこうした男なるものと女なるものの両性からなっているということを言いたいのであって、決して即物的に男と女のことを言ってるわけではないよ。

藤本 そうですよね、今までそうした言語的な観念としてしか言い表せなかったものをヌーソロジーでは空間の構造として幾何学的に描像しようとしているんでしたよね。

半田 その通りだね。そのような意識の類型の分別を空間のカタチとして知性の中に再表現しようと思っているんだ。ここで表現されるカタチこそがヌーソロジーがイデアと呼んでいるものだね。もっと卑近な言い方をすれば霊的世界を天上からこの地上に引きずり下ろして、天上と地上の区別を消すってことかな。

藤本 そのカタチを表現するために重要な役割を果たしているのが身体空間だということなんですよね。

半田 うん。科学のように数式や図式上の理解でもなく、宗教のような情緒的理解でもない。身体を通じて空間を見たときの構造的な理解だ。ヌーソロジーは意識変革のためにもっとも重要なことは、従来の空間に対する3次元イメージに大きな変更を加えることが何よりも重要なことだと考えているんだ。空間認識が変わらなければ意識が変わったとはとても言えない、ということだね。

藤本 では、人間の外面と内面を身体を中心にイメージした場合、どのようなものとして出現してくるのでしょうか。

半田 最も分かり易い言い方をすれば、身体の「前」と「後」と言っていいと思うよ。「前」が人間の外面。「後」が人間の内面。

藤本 う〜む。ということは、「人間の外面」というのは主体や内在が存在しているところだと言われてましたから、僕らが主体や心の世界と呼んでいるものは身体の「前」のことで、反対に客体や外の世界と呼んでいるものは身体の「後」のことということになりますね。

半田 だね。その通りだよ。そういうふうに主体や客体概念を変更していかなくてはならないということだね。なぜ、そういう変更が必要なのかを具体的に語っていくのがヌーソロジーの入口の醍醐味でもあるんだよね。とにかく最初のうちは「えっ!!」「うそでしょ。」「まさか!!」のオンパレードになると思うけど、そのうちいろいろなことがビシバシ繋がってきて深く合点が行き出すと思うよ。

藤本 う〜ん、まだまだわっからないなぁ。。。。でも、なんで身体の「後」側が内面で、「前」側が外面なんでしょうか?そのときの内とか外とかというのは何を基準に言っているんですか?

半田 実際に目に見えているか、見えていないかだね。見えている世界のことを外面と呼び、見えていない世界をを内面と呼んでいる。ただそれだけのことだよ。たとえばこうしてタバコを手にとったとき、タバコのパッケージは見えているよね。これはパッケージの「外面」だ。「外面」だから見えている。そう考えよう。だけど、バッケージが印刷されている紙の裏面、つまり内面側は見えない。同様にパッケージの裏側も見えないよね。だから、それも内面だ。それと同じで、人間にとって身体の前方向は常に見えている。でも、背後側は常に見えてはいない。だから、前者を人間の外面と呼んで、後者を人間の内面と呼んでいるんだ。

藤本 外面は見える世界。内面は見えない世界ということですね。確かに見えている世界は常に身体の前側であって後側の世界は見えてはいません。でも、なぜ、それを「面」と呼んでいるのかが分かりません。内面や外面に付いている「面」という呼び方があまりしっくりとこないのですが。だって身体の前方向も後方向もそれなりに奥行きを持っているでしょ。僕らは普通、面というと、テーブルの表面のように平べったい広がりのようなものをイメージしてしまいますから。

半田 そうだね。だから、ヌーソロジーの思考空間に入るためには、普段僕らが「前」や「後」に対して抱いている広がり(奥行き)の感覚を一度幼児に戻った感覚になって頭から消し去ってもらわなきゃいけないんだよね。純粋知覚というやつ。幼児の意識にはどちらが遠いとか近いとかそんな遠近感覚はまだ生まれていないよね。「前」はそれこそペッタンコに潰されて"面的"な空間として見えている。そうした認識に一度リセットする必要があるんだ。数学的に言えば目の前の空間を2次元射影空間として考えるということなんだけど。。

藤本 そうした見方をすることによって何が分かるというのですか?何か有意義な発見でもできるというのでしょうか?世界をより複雑に見て、返って頭を混乱させるようにも感じてしまうのですが。

半田 オッカムのカミソリかい?はは、今の段階ではそうかもしれないね。しかし、ヌーソロジーの思考に慣れてくると、世界をこれほど単純化して見る思考法は他にはまず存在しないということが分かってくるはずだよ。ヌーソロジーはあるがままに世界を見ているだけであって、今の人間型ゲシュタルトの方があるがままに世界を見れなくなっているから、逆にあるがままに世界を見ることの方を難しく感じてしまっているだけなんだよね。禅師が言うように、一度、君のそのお茶碗の中を空っぽにする必要があるね。そして、一からヌーソロジーの概念で自分の認識の成り立ちというものを再構成していってみるといいよ。するとヌーソロジーがなぜ、身体における「前」と「後」の差異を重要視しているかが自然と理解できてくる。保証するよ。

藤本 そこまで言われるなら一応、半田さんを信用しましょう。続けて下さい。


半田 OK。じゃあ、射影空間のところから続けるよ。射影空間というのはとりあえず視野空間を面としてみたときのことを言ってると思えばいい。僕がいつも使う「モノを中央に挟んで向かい合う自己と他者」という思考モデルがあるよね。

藤本 ええ、NC(ヌースコンストラクション)のもとになっている自己-他者とモノの配置図のことですね。

半田 そう。身体の「前」をもし2次元の射影空間(射影平面)として見ると、自己と他者が向かい合った状態では、それぞれに見えている射影平面は互いに裏返しの関係になっているのが予想されるよね。つまり、射影の方向が正反対なので向かい合う自他がそれぞれに形作っている視野空間のカタチは射影平面のオモテとウラという言い方ができるわけだ。

藤本 確かにそうですね。こうして今、僕と半田さんが向かい合っているとして、僕が見ている視野面は半田さんの背後側で構成されており、同様におそらく半田さんの視野面は僕の背後側で構成されている。。これが半田さんのおっしゃる「自己と他者では人間の外面と内面が逆に構成されている」ということの意味ですよね。

半田 うん、その通り。下にイメージ図を添えておくね。
 
Shiyakukan
 
藤本 でも、だからなんだというのでしょう?当たり前のことのように聞こえますが。

半田 確かに当たり前だ。でもね、実は現在僕らが一般に受け入れている時空概念ではこの当たり前のことがうまく説明できないんだよ。

藤本 えっ?どうしてですか?

半田 時空というのは3次元の空間+1次元の時間で4次元時空としているわけだけど、空間だけ取ってみればあくまでも3次元だよね。実は射影空間を裏返しにできるのは4次元空間においてであって、3次元空間じゃ1つ次元が足りないんだ。

藤本 えっ?それってどういうことですか?

半田 たとえば、3次元空間の中に僕と藤本さんがいる、とする。普通は、僕と藤本さんの身体が位置している場所を3次元空間の中で互いに入れ替えれば僕の視野空間と藤本さんの視野空間を入れ換えることができるように思っているでしょ。

藤本 ええ。半田さんの場所に僕が移動すれば、今、半田さんが見ている風景を今度は僕が見るようになるってことですよね。

半田 うん。でも、時空という枠組の中に僕と藤本さんの身体をモノのように位置させてしまうとそうはならないんだ。つまり、藤本さんがどのように移動しようと僕の見ている風景を藤本さんは絶対に見ることができないし、逆もまたしかり。。

藤本 ええ〜?どうして?

半田 僕と藤本さんの物質的身体の位置を互いに入れ替えるというのは、幾何学的に言えば単なる2次元の球面上での回転での位置の入れ替えであって、このような回転移動では視野空間を構成している射影平面を入れ換えることはできないんだよね。というのも、射影平面というのは幾何学的に捩じれを持っているから。ちょうどメビウスの帯みたいにね。だから、この入れ替えを可能にするような回転を起こすには3次元じゃ空間の次元が一つ足りないんだ。4次元空間じゃないと無理。

藤本 だとすると、それは一大事ですね。時空の中では誰も外界を共通のものとして見ることはできない、客観世界なんてものはどこにもない、ってことになってしまう。

半田 そう、見えている世界は常に主観であって、そこに客体などはないってことさ。

藤本 ということは見えている世界自体を自分と呼んでも何も矛盾はないことになりますね。

半田 ああ、そうだよ。世界は4次元時空として構成されていて、それを見る機能を持った物質的身体がその時空内部に存在させられていて、そこから人間は世界を観察している——これが科学を始めとする一般的な世界知覚に対するイメージだと思うんだけど、単に目の前の空間を射影空間と解釈しただけで、現在の僕らのモノの考え方には赤信号が点滅してしまう。科学が意識に対してメスを入れることができないのも、外界と内界という認識が拠って立つ位置の取り方が極めて曖昧というか、事実とはほど遠い概念の中でステレオタイプ化されているからなんだ。その曖昧さが、意識や精神といった概念に対するイマジネーションをより貧困なものにしている。

藤本 つまり、時空の中に物質があって、その物質が複雑に構成された結果として人間の肉体があって、その複雑さの度合いから意識というものが発生し、その意識によって人間は肉体から外部の世界を眺め、自省的意識を持つことができるようになったというような話は人間が勝手にデッチ上げた作り話だということですか。

半田 まぁ、そこまでは言わないけど、どうも真実を指し示してはいないということだね。まず時空があって人間がそこに生まれて来たのではなくて、まず最初に人間がいてその後で時空が概念として生まれて来たとする方が正しいと思うよ。

藤本 時空が概念として。。

半田 そう、時空というのは実在じゃないってことだ。あくまでも概念によって構成されているものにすぎない。

半田 数学では(非)ユークリッド空間よりも射影空間の方がより原型的なものだと考えられているんだ。つまり、射影空間からユークリッド空間が構成されてくるということ。このことが何を言っているかわかるかい?

藤本 ………?

半田 つまり、射影空間がまず先に与えられないとユークリッド的な空間は生まれてこないということ。このことを人間の現実に当てはめれば、幼児期は人間は空間を射影空間として経験している。そして、その空間をもとにして自分中心の空間を作り出して行く。この中心は言うなれば無限遠平面なんだけど、そこに他者が介入し、自分の身体性や言葉を獲得していくことによって、この無限遠平面が排除されてしまう。数学的にはこの排除によって計量が可能となりユークリッド空間が成立してくる。何が言いたいかというと時空は「世界を観察している自分」を消滅させるという脱中心化によって初めて生じてくる世界だということなんだ。

藤本 つまり、自分という中心をしっかりと持っている赤ちゃんや幼児にとっては時空は存在していないということですか?

半田 うん、存在していない、というか実際に認識として成立させてはいないよね。少なくとも僕は覚えていない(笑)。時空というものは人間の意識発達によって後天的に構成された概念の一つにすぎないということだよ。その概念に合わせて僕らがすべての事象を整理しているだけ。カントという哲学者は時間・空間はアプリオリ(経験に先立った)な直観形式だと言って、世界を何とか主観の方向にもってこようとしたのだけど、実はこれではまだデカルトが論じた客観としての延長概念の抗力を消し去るには中途半端で、時間や空間はあくまでもアプリオリというよりもむしろアポステリオリ(経験に準ずる)な直観の形式なんだよね。問題の本質は、どうしてアポステリオリにそうした直観が人間の意識に芽生えてくるのかというところにあるのであって、そこで暗躍している無意識の仕組みこそがアプリオリなものなんだよね。だから、ヌーソロジーはその無意識の中にあるより原型的な空間に立ち返って、時空の発生の契機について考え、かつ、そこを足場として精神と物質の関係性についても考え直そうとしているんだ。

藤本 その原型的空間の立ち上がりとして、人間の内面と外面という概念がどうしても必要になるということなんですね。

半田 そう。絶対に必要不可欠なものだと思う。

藤本 そしてそれが身体の「前」と「後」だと。

半田 うん。

藤本 シンプルですよね。

半田 と思うんだけどねぇ〜(笑)。

藤本 でも何で「後」が女で、「前」が男なんでしょ?

つづく。

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