2011/12/02

近況報告およびロッジ忘年会


 あっと言う間に今年も12月。少し寒くなってきた。例年12月は慌ただしく過ぎていくのだけど、今年は特に頭の中が相異なる三つの方向に引き裂かれ、どれもまとまりがつかない状態なのデス。

 一つは会社の売り上げの心配。年末はどんな経営者も頭を悩ます課題だね。二つ目がドゥルーズ哲学のヌーソロジーへの擦り合わせ。これも一朝一夕で改善されるような問題ではないのは重々承知しているとはいうものの、牛歩の歩みでは多少とも苛立を覚えてくるというものだ。三つ目が完成が遅れている新しい機械製作(NC.generator,ver.2.0)。有り金を全部はたいて製作に取り組んでいるだけに、今回はかなりのプレッシャーがかかっている。何とか完成させて、再度、いろいろな実験にチャレンジしてみたい。ひょっとすると「化ける」かもという予感があるので。。今月はこれに大学紀要の論文書きが加わってくる。う~ん、温泉でゆっくりするヒマなどどこにもない。明日からは東京へ出張だし。。

ということでお知らせがあります。

明後日の日曜日、ヌーソロジーロッジを主催してくれているRicardoにロッジの忘年会に招待されました。前半はRicardoさんと僕との対談トークが企画されています。ロッジのメンバー以外でも参加は可能だそうですので、東京近郊に住まわれている方でヌーソロジーに関心のある人は、是非、Ricardoさんまで問い合わせを。久々にナマ半田の顔を見たいと思っている旧東京ヌースのメンバーも、もしブログを見たら宜しくね!!

Noosology Lodge 忘年会withヌース対談2011

●日時:2011/12/4(日) 18:00~21:00
●会場:パセラ新宿本店
http://www.pasela.co.jp/shop/g_map/psk.html
●会費:7,000円

参加のご意向の方は
ricardoあっとまーくyahooどっとcoどっとjp (平仮名を半角記号に変換) までメールでご連絡下さい。

ということで、近況報告、ならびにロッジ忘年会の案内でした。

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2011/11/09

ヌースレクチャーのDVD BOXセットが完成!!

Blog3

 久々に書くブログがプローモーションというのはちょっとみっともないのだけど。。。あえて。 

 スタッフ(USTでもおなじみのWくんとDくん)の頑張りのおかけで2009年から2010年にかけて行ったヌースレクチャーのDVD BOXセットがようやく完成に漕ぎ着けた。企画当初、ヌーソロジーのレクチャーBOXセットなんて一体誰が買うのか?という懸念は大アリだったのだが、こちとら別に商売でやってるわけじゃない。この作品はヌーソロジーのこれからの歩みの中で重要なメルクマールの一つになるのだ!!そう判断して、高予算ながらも製作に踏み切った。(特に製作費が嵩んだのはレクチャーで配布された資料を一冊にまとめた100ページほどのLecture book。限定50冊をあえてフルカラーオフセット印刷。どひゃー。)

 今回のこのBOXセット、DVD二枚組セットが全部で13巻(vol.12は3枚組)から成っている。全体の収録時間は猶に5O時間以上に及ぶ。とりあえず、ざっと全体を見直してみたが、一年間を通して講師の人の中年太りに拍車がかかっていくのが興味深い。途中、出っ張った腹のせいでシャツのボタンがはだけてみっともない醜態を晒している部分もある。まっ、これが現実のわたしなのだから仕方ない。ヌーソロジーにルックスは関係ない、と一応、言っておこう。

 さて、問題の内容の方なのだが、こちらはDVD BOXに納められた全13巻を見れば、一応ヌーソロジーがどのような〈方向ーセンス〉を持っている思想かその全貌が分かるようになっている。出てくる話の内容はいろいろだ。神秘学、スピリチュアリズム、哲学、物理学、宗教。これら諸ジャンルの諸言説を横断的に統合するためには果たして僕らはどのような思考を築いていく必要があるのか――その方向性がある程度は示せたのではないかと思う。これからヌーソロジーを学んでみようと思う人には格好のベーシック教材となっている。

 今回のレクチャーではOCOT情報(過去の拙著で示したチャネル情報)をそれほど多くはフィーチャーしてはいない。現時点においては、僕の中ではヌーソロジーとOCOT情報を明確に区別していて、OCOT情報の中でもロジックを通して他者と相互了解が可能になった部分を「ヌーソロジー」と呼び、未だに超越的でどのように解釈してよいか不明な部分を「OCOT情報」と呼んでいる。一般にはチャネラーと思われている僕が言うのも変だが、このような区別は僕がチャネリング等がもたらす宗教的な超越性をあまり快く思っていないからでもある。宗教でも科学でもいいのだけど、ヌーソロジーの方針はいかなる超越性にも捕獲されることがないような思考の流れを作って行くことにある。超越性に呑まれて、自らが問うこと、思考することを忘れてしまえばこころは必ず死ぬ。もともとヌーソロジーのヌースとはこころの反復による創造の力のことを意味しているのだから、こころが死んでしまってはヌースどころの話じゃない。こころの反復による創造とは言い換えれば〈想起〉することだ。ヌーソロジーはこの〈想起〉に抑圧をかけてくるような暴力は一切受けつけない。と言ってもちろん、反撃もしない。寛容なる無視を決め込むだけだ。

 ということで、vol.1からvol.12までの簡単なダイジェスト版がヌースアカデメイアのサイトの方にアップされているので、内容を確認したい方はこちらへどうぞ。→noos-academeia.com media

 尚、BOX SETの発売開始日はジョン・レノンの命日となる12月8日(予定)。ただいまヌースアカデメイアにて予約受付中。興味のある方はこちらへ。→ヌースアカデメイア・ブログ

 最後に、製作に頑張ってくれた亘利くんとDieforくんに改めて感謝の意を表したい。それと1年間の長きにわたってレクチャーに参加していただいた皆さんにも。皆さんのおかげでヌーソロジーの足跡をまた一歩、物質の中に刻むことができました。どうもありがとうございました。
 

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2011/04/28

圧倒的な暴力の彼方に

 Fukushima
 
 「二度あることは三度ある」とはフクシマのために用意された言葉なのだろうか。スリーマイル、チェルノブイリ、そしてフクシマ——。このフクシマが「三度の目の正直」ならば、事態はおそらく予想通りの展開を見せていくことになるだろう。それが最善のシナリオなのか最悪のシナリオなのかそんなことは問題ではない。事態はとにかく予想通りの展開を辿り、いい意味でも悪い意味でも人間の歴史はこのフクシマを不連続点として別の時間軸へと移行していくはずである。なぜなら、現在、フクシマから進行している地球規模の放射能汚染とは存在の裂け目の地上への降臨にほかならないからだ。

 核分裂がウラニウムから生起するということの意味について考えてみるといい。ウラニウムとは自然界が生み出した最終的な元素である。「上にあるが如く下にかくあり」というヘルメス知を持ってこのウラニウムの正体を探るならば、それは存在世界自体を支える全精神体の影のようなものと言える。核分裂とは文字通りこの全精神体を分裂させようとする力の介入である。それは存在の引き裂きと言い換えてもいいだろう。存在の裂け目が開くとき、そこには深淵が顔を覗かせる。ポストフクシマというこれからの時間において人間の先に待っているのはまさにこの深淵なのである。

 全精神体の引き裂きとそこで流される夥しい量の精神の血を直視すること。われわれは今まさに殺害されつつある神を目撃しているのだ。刺客は他ならぬわれわれ人間自身が持った物質的欲望である。言うまでもないことだが、神の活力が死に至らしめられれば生命の秩序は木っ端みじんに解体されていく。事実、核分裂がもたらす放射能の暴力がいかに圧倒的なものであるかをわれわれはすでに知っている。連中には空間も時間も関係ない。連中は音も光も熱も発することなく、ただただ冷徹に地球が長年にわたって育て上げてきた生命の調和をその根底から切り裂いていく。その冷血さの中にプリンス・オブ・ダークネスの姿を見るのは容易い。

 放射能が虚無の嫡子であるのであれば、歴史の中で行使されてきた最良の精神たちに対するすべての暴力、すべての陵辱は、今、フクシマで起きているできごとの中に集約されていると考えることもできる。できごとにおいては無意識の潜在的な構造がその症状を繰り返し現実の中に表現してくるのであり、その意味において歴史上で行使されてきたありとあらゆる暴力はすべて同じ暴力なのである。なぜなら、存在の裂け目が神の傷であるならば、それは常に一つなのだから。傷はどこからやって来るというものでもなく、神と同じく「ありてあるもの」なのであり、歴史の終わりに当たって、それは神の出現と共に露になるべきものだからである。

 われわれはこれから出現してくるであろう深淵において、この圧倒的な暴力の正体を自らの意思によってあばかなければいけない。この暴力の由来をあばくことによって、われわれはまた歴史上で行使されてきたすべての暴力をあばくことができるのだ。さて、結果が最善のシナリオとなるか最悪のシナリオとなるのか、そんなことは問題ではない。事態はとにかく予想通りの展開になるだろう。これは最終戦争なのである。


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2011/04/22

「ヌースと原発問題」を語り合う


福岡のヌースレクチャーに参加してくれていた有馬さんが、ミニヌース合宿を臨時に企画してくれましたので、その開催要項を取り急ぎお伝えしておきます。

          ………………………………………………………………………

【「ヌースと原発問題」を語り合う ヌース合宿in博多】

3月11日の東北関東大震災から一ヶ月が過ぎました。
被災を受けられた方々には心よりお悔やみを申し上げます。
この震災は日本全体に、そして世界に大きな衝撃を与えました。
特に、原発や放射能の問題が私たちの意識の中に大きく浮き上がってきました。
東電と経産省そしてマスコミの癒着、情報の隠蔽等の問題は海外からも批判を受けています。
そのような実態を知れば知るほど、やりきれない思いがします。

これらの問題をどのように整理したらいいか、ヌースを学ぶ人たちで、語り合いたいと思いました。
そこで、5月14日の佐藤さんの物理学教室にあわせて、久しぶりの「ヌース合宿」を企画しました。
コウセンさんを中心に「ヌースと原発問題」をテーマに皆さんでたっぷりと熱く語り合いたいと思います。
詳細は以下です。ふるってご参加ください。

●日時:2011年5月14日(土曜日)午後6時から翌朝まで、(部屋の使用は夕方までOKです)
※午後1時〜4時 ヌースコーポレーションで、佐藤さんの「物理学教室」が行われます。
 物理学教室に参加される方は、終了後、車で会場まで移動します。車の方ご協力お願いします。
 合宿のみ参加の方は5時30分にJR香椎駅に集合してください。

●会場:福岡市東区香椎4丁目7−17
※30人宿泊できる(部屋数12、風呂2、トイレ3)一軒家を確保しました。
JR香椎駅から徒歩10分ほど。希望者には地図を送ります。駐車場10台可。
 
●参加費: 宿泊する人   3,500円     宿泊しない人 2,000円
※前日から宿泊希望(2泊)の方、4,500円。  
 食事と飲み物は準備いたします。おつまみ持込歓迎!

●申し込み方法:申し込みは有馬まで
 メールもしくは電話にて メールアドレスはこちらに記載→ヌース合宿企画しました
              電話 090−5925−0785
  
 宿泊日、名前、性別、佐藤さんの物理学教室参加の有無 をお知らせください。
 準備スタッフ募集します。

●申し込み締め切り 2011年5月2日(月)迄。 30名で締め切ります。
 
以上です。

          ………………………………………………………………………

 ちなみに当日、昼間に行われる佐藤さんの物理学教室の開催要項は以下の通りです。

【ヌーソロジー理解のための物理学教室 第3回 量子力学入門(予定)】

●日時:2011年5月14日(土曜日)午後1時〜4時
●場所 : ヌースコーポレーション2Fラウンジ
●参加費 : 1.000円
●連絡先 ツイッターメッセージ @satohakase (佐藤)

 皆さんのこぞってのご参加をお待ちしています。

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2011/03/09

ヌースアトリウム報告

Blog
 
 地元、博多で3ケ月ぶりにヌーソロジーの集まりを「ヌースアトリウム」と銘打って開いた。アトリウムというのは建築用語で空中庭園の意がある。高層ビルなどで透明なガラスのルーフを通して陽光が指し込む開かれた高所の空間のことだ(新宿にあるパークハイアットホテルのフロントみたいなところ)。そこに集った人々が思う存分自らのプラトー(高原=高次元空間)のイメージについて語り合う——そうした主旨を持って久々にヌーソロジーに関心を持つ人たちに集まってもらったわけだが、今回も大盛況。決して広いとは言えない会社のラウンジに総勢40名ほどの人が集ってくれた。いつもながら拙い話にこれだけ集まってくれてほんとうに有り難いことだ。心から感謝、である。

 ヌースアトリウムは何分にもディスカッションスタイルでの進行なので、従来のレクチャーのような下準備は一切ナシのぶっつけ本番である。テーマはヌーソロジーの世界に足を踏み入れるにあたって最も基本となる「人間の外面と内面」という概念と既存の哲学との擦り合わせ。レクチャーでは構造的な側面の解説が多かったので、アトリウムではそれらの概念が含み持つ多様な意味について、2年ほど前に書いた紀要の記事『知覚正面上における本性上の差異についての一試論』をダシにいろいろな角度から話をしてみた。

 ヌーソロジーの思考スタイルを一言で表現するとすれば、同一性に従属させられた差異の群れを、同一性を従属させるような差異の群れへと反転させていくことにある(このへんはドゥルーズのパクリ)。たとえば、世界には様々なものがあり、それらのものには違いがある。しかし、そういった多様なモノの群れは結局のところ時空という同一性の中に従属させられている。人間にしても同じだ。人間には人種、国籍、性格、顔かたちなど、人それぞれ違いがあるのだけど、結局のところ、それは人間という概念で一括りにされ、「人間は所詮、人間である」という同一性の中で一般化される運命にある。一般化された眼差しの中では、個々の人間は互いに交換可能、代替可能な対象としてしか扱われない。「君の代わりはいくらでもいる。嫌なら辞めてもらってもいいんだぞ」という上梓の脅し文句も、「あいつだけが女じゃない、女なんてこの世に掃いて捨てるほどいる」という振られ男の愚痴も、みなこうした差異を従属させた同一性を前提として吐かれている台詞なわけだ。ほんとうは君の代わり何てどこにもいないし、あいつだけが君にとっては女であったはずなのに………ね。

 同一性に従属するこのような差異の中で最大のものを僕らは対立と呼ぶ。お互いに違いがありすぎて真っ向から対峙してしまうこと。それが対立だ。大と小、強と弱、善と悪、対立の場では片方がもう片方を全面否定することになるが、対立が同一性に従属しているのであれば、ここには「皆が同じである」という前提が実は対立を生んでいるという皮肉な構図があることになる。もしくは皆が同じでなければならないという暗黙の要請が対立を浮き立たせ逆に皆を不幸にしているとも言えようか。。人間は神のもとに平等だ。僕らは愛によって繋がりをもたなければならない。天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず。。こうした言説は一見、至極まっとうに聞こえるけれども、実際には憎しみを生む源泉になっている可能性もあるということだ。差異の思考とはそうした同一性を基盤にした思考が生み出す概念とは全く違うものである。ある意味、人間を「みんな同じ」と言い放ってしまうこの暴力的な仮説から人間を解放させる思考のことを言う。

 では、そのような「差異」とは一体どのような差異なのだろう。。この差異こそが唯一意識から同一性に縛られた思考を解放し、それこそ、今度は意識の中に同一性を従属させる思考を作り出すことができるのだが。。ドゥルーズはこの差異をベルクソン哲学を通して即自的差異の中に見た。即自的差異とは簡単に言えば「それ自身における差異」のことである。普通、差異というとさっきも言ったように二つのものの間の差異として僕らは考える。リンゴとミカンの差異。オレとオマエの差異。etc……。だけど、ドゥルーズ-ベルクソンのいう差異とは、目の前にあるものがたとえ一つであっても、それ自身にそれ自身とは違うものが存在していると考えるのだ。それが即自的差異というヤツである。はて、それって一体何?

 目の前にリンゴがある。そこには同時にリンゴではないものが重なっている。それさえ見つけられれば差異の思考に一歩足を踏み入れたことになる。ベルクソンに言わせれば、それはイマージュとしてのリンゴである。イマージュとしてのリンゴという表現が分かりにくければ「持続を内包したリンゴ」と言い換えてもいい。目の前のリンゴは物質の範疇に含まれるものだが、持続を内包したリンゴはもはや物質とは言い難い。なせなら、持続を内包するということはリンゴであり続けているということであり、これはリンゴの記憶に等しいからだ。だから「目の前にリンゴがある」という客体認識は記憶がなければ成り立たないことになる。一秒前にもあった、5秒前にもあった。そして今もあり続けている。だから、今、目の前にリンゴがある——こういう考え方をしたときのリンゴがイマージュとしてのリンゴである。だから、イマージュとしてのリンゴはただの物質ではない。そこには精神が関わっている。精神が関わっているからには、それはもはや客体ではなく主体だ(もちろん今まで僕らが主体と呼んでいたものとは大きく趣を変えてはいるが)——要は、このように主体として解釈し直されたリンゴ。これがリンゴ自身における即時的差異というものだと考えていい。つまり、目の前のリンゴには客体としてのリンゴと主体としてのリンゴが重なって存在させられており、そこにはほらこんな差異があるだろ!!ということなのだ。

 では、その主体としてのリンゴ、イマージュとしてのリンゴはどこにあるのか。ベルクソンが下す結論は明解である。もちろん知覚そのものの中にある(「知覚するものは知覚されるものの場所にある」とベルクソンはいう)。。つまり、知覚は知覚されるものの記憶を自らの中に内包して、今、そこに存在しているのである。となれば僕らが世界と呼んでいたものも一転してイマージュの総体となり、それはわたしの精神以外のなにものでもないじゃないか、ということになる。こうして世界という同一性はわたしという差異に従属するものへと反転させられるのである(これがヌーソロジーのいう〈位置の交換〉の意味だね)。

 このことは「見るものとは見られるもののことである」と言ったクリシュナムルティーや「主体は世界の外部にいる」と言ったヴィトゲンシュタインの名を挙げるまでもなく、生きのいい哲学者であればとうに言ってきたことだし、今更、鬼の首を取ったように言うことでもない。しかし、この差異を人間の思考が空間的に識別化できるようになり、そこに確固とした幾何的な構造を見て取れるようになったとしたらどうだろう。さらには、そこに開示されてくる差異の幾何的な構造が現代物理学が素粒子と呼ぶものとダイレクトに連結していることが多くの人に理解され出したとしたら。。おそらく、人間の居住空間は時空から一気にミクロ空間へと大移動を開始することになりはしまいか。。差異の思考においては差異が同一性を内属させているのだから、差異が素粒子として見え出した暁には、同一性を保証していた時空は素粒子の中に内属したものとして見えてくることになる——ヌーソロジーにおける人間の外面の発見とはそうした即自的差異を認識に空間として顕在化させることをいうのだが、ここで「外面」といったような幾何学的名称を用いているのは、ヌーソロジーがこのような即時的差異に始まる差異の階層を単に哲学的な観念としてだけではなく、空間構造として対象化し、それを十全な観念としてダイレクトに意識に浮上させたいがためである。。。。

 まぁ、ざっとこういった内容のことをくっちゃべっていたのだが、以前よりは、皆に理解してもらえたような気がするなぁ。次回もまた3ケ月後に開催しますね。今回参加された方も、まだ一度も参加されたことがない方も、現代哲学と現代物理学の融合に興味津々の方は是非、遊びに来て下さいね。


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